一章 五節 夕暮れ、帰り道
憂鬱な練習の時間が終わって、またさらに面倒くさいミーティングの時間も終わって、気が付けばもう帰りの時間になっていた。空の色はオレンジ色に染まりきって、ようやく私が自由になれたことを示していた。
周りの人たちも荷物を持って帰ろうとしている。さて、私も早く帰ろうと思った矢先にその人は私に声をかけてきた。
「天音さん天音さん、一緒に帰りましょ」
氷斗さんだ。すでに荷物を持ってランランに目を輝かせた状態で立っている。
「……別にいいですけど、お家の方向は?」
「何言ってるんですか? 家、隣じゃないですか」
「え」
「なんでそんな当たり前のことに驚くんですか? 僕ら家が隣の幼馴染っていう漫画もびっくりな関係でしょう?」
さぞ当たり前という声でいう氷斗さん。私にはこれがからかっているようには見えない。もともと、私の家の隣には……家の隣には……。
——一体、だれが住んでいたのだろうか?
家が建っていたことは思い出せる。しかし、そこに誰が住んでいたというところまでは全く思い出せない。思い出そうとしても頭が拒むといった方が正しいのだろうか。
「どうしましたか?」
「いや、何でもないです……とりあえず、帰りましょうか」
「そうですね」
あまり不審がられてもよくないので、とりあえずお隣さんの件はあとでもう一度考えてみよう。ゆっくりと歩き始めた氷斗さんに、私もなんとなくついていくことにした。
「天音さん、今日一日どんな日でした?」
校門を過ぎた辺りで、急にそんなことを尋ねてきた。ちらっと表情を確認してみると至って真剣な顔つきである。
「急にどうしたんですか。らしくもない表情をして」
はぐらかすために声のトーンを少し明るくして言った。
「何だろう……急に気になっちゃいましてね。で、どうでしたか? 楽しかったとか詰まんなかったとか、そのくらいでいいんです」
「うーん……あ、強いて言うなら」
「強いて言うなら?」
「おかしな日、ですかね」
今日一日、本当におかしな日だった。急にネットの先にいたはずの氷斗さんが現れて、幼馴染だと言い張られて……部活ではいろいろな面倒ごとに巻き込まれたりしたけど、なんだかんだ楽しかった気がする。
「おかしな日かぁ……」
心なしか残念そうな声でつぶやく氷斗さん。
「何か文句でも?」
「文句はないですけど、なんかなぁ……」
文句がない、と口では言っているのに納得できないという表情をしている。一体何が悪いのだろう。
「それじゃ、氷斗さんは一体今日一日をどう表現しますか?」
何となくこのままでは決まりが悪いので、同じ質問を氷斗さんに返してみた。すると氷斗さんは表情をすぐに明るくして答えた。
「そりゃ勿論、変わりようのなく何もない素晴らしい一日ですよ」
いいや、ただ明るいだけじゃない。その表情は……どこか影が落ちたような、泣き出しそうな表情だった。近いのは……泣きピエロ、その言葉だ。
声のトーンだって、その立ち振る舞いだって、何も変わったところはない。笑顔なのに暗い、無理して笑っているときに似ている。
「大丈夫ですか?」
「ん? 大丈夫ですけど、どうかしました?」
「いえ……何でもないです」
これ以上深入りするのはやめよう。深入りしてしまったら相手を傷付けてしまう可能性がある。
「そういえば天音さんってどうして吹奏楽部に入ったんですか?」
先程とは全然違う、明るい声と表情で尋ねてくる氷斗さん。まるで、何でもないから忘れてと言わんばかりに。
「別に、気紛れですよ」
「音楽、好きだったんでしょ?」
私の顔を覗き込んできながら言う氷斗さん。今度は、からかっているときの表情だ。
「だったらなんですか……別に私が音楽を好きだろうが嫌いだろうが氷斗さんには関係ないでしょ」
私が冷たく言い放ってもなお、氷斗さんは笑っていった。
「関係ありますよ。だって、僕天音さんの音楽好きだもん。楽器を持っているときの天音さん凄く楽しそうじゃん」
「楽しい? ふっ、本当に氷斗さんの目は腐ってるんじゃないですか?」
楽しいわけがなかった。先輩たちにいじめられるだけの日々、自分の思い通りに音がでない苛立ち。何度も何度も追い詰められて、その度に辛くなって……。
「それでも僕と音を合わせているとき、楽しそうじゃなかったですか」
「……」
私は、何も答えない。答えることは出来なかった。
「そうですね。僕から見た天音さんの感情と、天音さん自身が感じているものは違いますもんね。まあ、それでも僕から見たら楽しそうだった、ってことだけは知っておいてくださいな」
また、泣きピエロの笑顔。どうして、こんなに悲しそうな顔を出来るのだろうか? 今の氷斗さんは、いつもの氷斗さんと少し違う気がした。
「いなく、なりませんよね?」
ふと気になって尋ねてみた。もしかしたらこれは夢で明日になったらいつも通り、氷斗さんの存在なんて誰も知らない。そんなことがあるのではないか、と思ったから。
「急にどうしたんですか? いなくなりませんよ……きっとね」
夕暮れの中に溶けていくような、儚い笑顔を浮かべる氷斗さん。オレンジ色の光が、私と氷斗さんを照らしていた。
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