一章 四節 馬鹿に理論は通じない

 結局自分一人で音出しをした後、氷斗さんと軽く音合わせをした。氷斗さんと一緒にやっているときはあの人たちも声をかけてこなかったのでとても楽にやることができたのはよかった。


「うん、やっぱり天音さんの音の取り方は綺麗ですね。いつも音の高さが安定していて羨ましいです」


「ありがとうございます、けどやっぱり氷斗さんの方が音の伸びがいいからなぁ……」


 正直白状しよう、私は氷斗さんのことをなめていた。どうせできないから私が教える羽目になるのだろう、と考えていたが実際は違った。彼のほうが私より音の伸びも、響きも、何もかもよかった。


「それは天性の才能です、もうあきらめてください」


 だから、こうしてドヤ顔で煽ってきていても何も言い返せない私がいる。


「……まあ、ちょっとは努力してみますわ。氷斗さんほど上手くはなれないですけどね。それで、この後どうします?」


 周りを見渡してもやっぱり真面目に練習している人は私たち以外いない。まだ遊んでいて飽きないのかなぁ、と少しあきれてしまう。


「冗談をさらっと流さないでくださいよぉ……まあいい、どうせやることもないんですしなんか曲の練習でもしませんか?」


「いいですね、それ……けどなんか先輩たちに言われませんか?」


 私が尋ねると氷斗さんは小声で言った。


「いいでしょうよ、あいつらまともに練習していないし。一緒に上手くなってとことん反抗してやりましょうよ」


 思わず、私は吹き出してしまった。すると先輩たちが一斉に振り返ったが、氷斗さんが一緒にいるおかげなのか何も言い返さずにそのまま遊びに戻っていった。


「ふっ……そうですね。それじゃ、夏コンの課題曲でもやります?」


「いいですね。それじゃ、楽譜出さなきゃなぁ……天音さんのパートってなんでしたっけ?」


「いつも通りサードです。氷斗さんは?」


「僕はファーストですね」


 この曲のパートは三つに分かれている。主に主旋律だが音が高く難しいファースト、高さもそこそこでたまに主旋律が回ってくるセカンド、そしてほぼ伴奏や裏メロのサード。基本的にファーストが一番人気だ。


 因みに、私のパートはほとんどサードだ。先輩いわく私はそんなに上手じゃないから、らしいが多分違うと思う。ただ嫌われているからだ。


「通し練習と部分練習どっちやりますか?」


「んーっと……部分練習のほうがいいんじゃないですかね? だから氷斗さん苦手なところとかありますか?」


「練習記号のD辺りからかなぁ……」


 いつのまにか出していた楽譜を指さす氷斗さん。確かにその場所は細かい音が多くてリズムもかなり面倒くさいところだ。


「それじゃ、そこやりましょうか。早さってどのくらいでしたっけ?」


「大体144ですね」


「了解」


 近くに置いてあった自分のメトロノームの重しを144に合わせて鳴らした。規則的な音が響く。


「カウントは僕がやりますんで、天音さんは先構えていてください」


「はい」


 片手に持っていたトランペットを構えなおして、ゆっくり大きく息を吸った。


「それじゃやりまーす。1,2!!」


 氷斗さんの明るく跳ねた音がすぐに楽器から飛び出した。私は、その明るい音が華やかに聞こえるように、目立たなくとも支えられるような音をイメージして出す。


 主旋律をつぶさないように、かといってつぶされすぎないように、その力加減は正直言って難しい。しかし、先輩たちに幾度となくサードを渡されてその練習だけを集中してやってきた私にできないことではなかった。


 氷斗さんの音はとても綺麗だ。多分、先輩の音よりも。だからなのだろうか、いつもより何となく楽しい気がする。私は、綺麗なものが好きだ。綺麗な音楽も勿論好きだ。


 いいや、でもそれ以上に楽しんでいる人の音楽が好きなのかもしれない。楽器を持っているときの氷斗さんの表情はとても生き生きしている。ここにいる人たちとは違って、とても楽しそうに演奏するのだ。


 Dメロの最後の音が終わった。弾け飛ぶようなその音は、途切れたあとにも微かな余韻を残していて……。そんな音楽少なくともここでは聞いたことがないのは事実だった。


「いい感じでしたね天音さ——」


「ちょっと、なにしてるの!!」


 氷斗さんの声を遮ったのは美鈴先輩だった。いつだって、楽しいと思った瞬間に空気をぶち壊しに来るのは❘この美鈴先輩だ。


「何もただ練習しているだけですけど」


 私が答えようとすると、いつもとは違う少し冷たい声の氷斗さんが先に答えた。


「そうじゃなくて、なんでもう合わせ練習をしているの?」


 どうやらこの先輩は後輩たちが仲良く合わせ練習をしていることが気に入らないようだ。


「何故ダメなんですか? 僕も天音さんももう一通り曲を通せるようになっているのに」


「氷斗君はできるかもしれないけど、天音ちゃんができるわけがないじゃない。そうでしょ?」


 そうやってこっちを馬鹿にするためだけに論点をずらす才能は認めてあげよう。


「そうですね、ごめんなさい。これからは個人で練習します。それでいいですか?」


「そうね、天音ちゃん。これ以上私たちに迷惑をかけないように気を付けて」


 私とて馬鹿じゃない。ここで反論したらろくなことにならないのを知っているから、あえて引き下がることにした。美鈴先輩は満足そうな顔をして去っていった。


「いいんですか天音さん、言われたい放題で」


「仕方ないじゃないですか。だって、馬鹿には理論が通じないんですから」


 先輩に聞こえない声で私がいたって真面目に言うと、氷斗さんは吹き出した。


「なんで笑うんですか?」


「いやだって……てあ、やべ。ちょっと僕は自分の場所に戻りますわ。また後でお話しましょう。それじゃ」


「それじゃ、また後で」


 先輩がこっちをにらんできている。また来られると面倒くさいから、私も前を向いてもう一度練習を始めることにした。まだ、日没まで時間は遠い。

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