六 黒い家
その家の門は、
紬は息を切らし、その門を見上げた。ここに近づく時に、門の向こうもその奥に、味気ない桜の枝木が見えていた。あの黒い家はここに間違いない。
門には、普通ならある筈の表札や呼び鈴はどこにも見当たらない。来客者を招き入れようと、大きく開く門があるだけだ。
四月も末の、まだ肌寒く感じる夜の風を受けて、身を縮める。
あれから夢中で自転車を漕いで来た。
上着のポケットに突っ込んだスマホを握りしめ、門の中の様子を伺う。門の中は暗く、遠く建屋らしき影だけが見えている。
でも、一人で来たのは不味かっただろうか。
今更ながら、自分の軽率な行動に嫌気が差す。だが、あの楓が私に助けを求めている。
元気で明るいムードメーカー。何でもそつなくこなすので、一見努力をしていないように見えるが、誰よりも負けず嫌いで頑張り屋な彼女が、弱音など微塵も見せないあの彼女が、助けを求めているのだ。
スマホを握りしめた手に力が入る。
私は恐る恐る、門の中へと足を踏み入れた。
門から玄関までの間の道をゆっくりと進む。やがて目の前に、家の外壁が現れた。暗闇にも目が慣れ、回りが少し見え始める。外壁は、黒く塗られた木の板で出来ている。周囲を何度も探すが、話に聞いていたように玄関らしき扉が無い。それどころか、窓が一つも無い。
その時、左の視界に気配を感じて振り向くと、白い影が、家の角を曲がる所だった。
今朝の話と同じだ。
カラカラに乾いた喉が鳴る。
予想はしていたが、今朝聞いた話と同じ事が、まるで、録画したドラマを見返すように、目の前で起こっていくさまに、体が強張り思わず目を閉じる。瞼の奥に、今朝電車で笑い合った楓の笑顔が浮かんでくる。
でも、あれについて行って、私に何ができるの?
迷っている場合では無いのは、頭では分かっても体がついてこない。それでも行かければ、楓が私を待っている。
そう自分に言い聞かせ鼓舞すると、先程人影が見えた方角へと、足早に歩き始めた。
家の角を曲がると、丁度その先の角を人影が曲がる所だった。その影をまた追いかける。そしてまた角を曲がると、先の角を曲がる人影。
やはり、この家は何処か可怪しい。
普通なら、同じ方向に3回も曲がれば、元いた場所に戻って来るはずだ。だけど、先程から同じ場所、同じ距離をぐるぐる回っている、この感覚。こんな家と塀の間の、なんでもない道なのに、知らない路地に迷い込んだような錯覚に陥る。
戻る?、だが、元の場所に戻れる保証もない。
改めて決意を固め、再び人影の後をついて行く。話の通りであればこの先は。強張る気持ちで角を曲がる。
そこで目にした光景に、息を呑む。
左手には、水墨画のような日本庭園が広がり、静けさを湛えている、なんとも言い難い美しい庭。しかし、驚いたのはそのことではない。
右手の硝子張りの引き戸のある縁側、そこから今まさに家に上がろうとしているその人が、今日、春明堂で会った、小白だったのだ。
冷静に努めようとした思考回路が、一瞬にして停止する。
どうして?なぜ、小白さんがここに?
見間違い?そう思いたかったが、小白の後ろ姿が廊下にそって奥へと進む。
遠ざかって行く後ろ姿を見つめながら、追いかけねばと思う気持ちと、この先にあるなにかを受け止められる自信のなさが、混ざり切らずに足が動かない。でも、遠ざかる後ろ姿は、待ってはくれない。
リン
聞こえるはずのない、聞き慣れた音が聞こえた。
辺りを見渡す、だが先程と変わらず、寒々とした庭があるだけだ。
どうしよう。
迷いながらもう一度、自分の心を強く握りしめ、恐る恐る、引き戸が開いたままの縁側から家の中へと入る。
滑るような足取りで、奥へと進む白い背中、それを祈る様な眼差しで追う。白い背中が左に曲がる、尚も続く硝子張りの引き戸越しに、やはり小白としか見えない横顔が、奥へ奥へと進む。
走り出したい衝動を必死に押さえ、小白に気付かれず、見失わない距離を保ちつつ、後を追う。
先を右手に曲がり、追う背中が見えなくなる、このまま見失わないようにと、間を詰めるように早足になる。と、曲がった先で慌てて少し戻り、そっと顔を出して先の様子を覗う。
覗き見たその先には、今まさに襖を開け部屋に入る小白の姿があった。
静かに閉まる襖、仄暗い廊下をじっと見つめたまま、また迷いが頭をもたげる。
ここに来て何度目だろう、本当に自分が嫌になる。
いつもそうだ、普段は明るく卒なく過ごしているが、実際の私はどうだ。親友を助ける、あの人の笑顔を信じる。頭ではそう考えても、心でそう強く思っても、でもでもの繰り返し、本当は臆病で
でも。
でも、変わりたい。
臆病でも、狡くても、それでもいい。
それを認めて、それでも前を向ける、それでも一歩踏み出せる、そんな自分に変わりたい。
紬は、曲がり角を出て部屋の前へゆっくりと進む。そして、静かに襖を開けた。
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