五 呼ぶ声
ヘタを取りよく水洗いした苺をザルに上げて置く。よく水気が切れたら鍋へ入れ用意したお砂糖を半分まぶす。苺から水分が出てくるのを待ってから、お鍋を火にかける。ゆっくりと煮込んで泡がたったら残りのお砂糖を入れる。
甘い香りが立ち昇る台所で、鼻歌を歌いながら踊るように、棚から小瓶達を取り出す。
「どうしたの?むぎちゃん」
台所への扉の前を通る際に、中の様子を伺った風清が、扉の前に立つ雷清に疑問を投げかける。
「どうして私に聞く」
「いや、雷清なら知っているかなと思って。雷清、もしかして怒ってる?」
「なぜ私が怒る必要がある」
渋い顔をして紬を見守っている雷清と、今にも宙を舞うのでは、と思わせる程に楽しそうに台所に立つ紬。対象的な二人を交互に見比べる。
「なんだ?」
「いや、なんでもない」
口元がニヤけるのを必死に押さえながら、風清はその場を後にした。
台所では、出来上がったばかりの熱々のジャムが、小瓶達に入っていく所だった。
紬は夕食を終え自室へ戻ると、椅子に腰掛けカフェラテを一口飲んだ。あの後あおは、紬の腕からするりと飛び下りると、鈴の音を鳴らしながら、さっさと何処かへ行ってしまった。おかしな話だが、いつもと変わらない姿にほっとし、朝からの心配も泡のように消えていた。机の上では、お気に入りのマグカップからは、湯気が立ち上っている。
以前海月家で、誰が1番コーヒーを上手く入れられるかで、揉めた事があった。父も巻き込み、コーヒーコンペが行われ、なぜか、風清が圧倒的な差でそれを制した。以来、海月家のコーヒー周りは、風清が取り仕切っている。紬と雷清は、なぜ料理を手伝わせると、台所をしっちゃかめっちゃかにする風清が、コーヒーに関してはあんなにもきめ細やかなのか、二人して首をひねった。
明日、家に帰ってから何か理由をつけて風清に、コーヒーを入れて貰わなくちゃ。それに、商店街のパン屋でバケットを買って。
紬は明日の段取りを頭の中で組み立てる。きっと、鏡を覗き込んだら、顔が緩みきっていたに違いない。なぜそんなに気になるのか、でも、ふとした時にあの笑顔を思い出してしまう。こんな事は初めてで、混乱もあるが、それもまた心地よかった。
「むぎちゃん。お風呂湧いたよ」
階段下からそう声を掛けられ、紬は時計を確認した。いつの間にか短針は、九時を指している。
無造作に置いたスマホに目をやる。
おかしい。
高校に入学した時に、連絡に必要だからとスマホを初めて買ってもらった。それから毎日欠かさず楓から連絡が来て、1時間以上はやり取りするのが日課になっている。学校でも毎日合うし、休日もよく遊ぶのに、何をそんなに話すのかと、なかなかお風呂に入らない紬を、父に呆れられた事があった。
その連絡が、今日はまだ来ていなかった。
じっとスマホを見つめる。
もちろん毎日連絡しようねと、約束をしている訳ではない。今日は部活の見学に行っていつもより疲れて寝てしまったのかもしれない。だが、紬の中にほんの小さくではあったが、言いしれない何かが、首をもたげてくるのを感じる。
不意に、電話のベルが鳴る。
紬は、徐々に膨らんでいく何かを片隅に押し込めながら、スマホの画面を確認する。
そこには
慌ててフリックする。
「もしもし」
「あ、むぎちゃん。遅くにごめんね。楓、そちらにお邪魔してない?」
「いえ、来てません。今日は、学校で別れてそのままです。部活の見学に行ったはずですけど」
「そう…」
沈黙が重たい。
「楓、まだ帰っていいないんですか?」
「そうなの。ごめんね、夜遅くに」
「いえ、私も一度連絡してみます」
「ありがとう。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
不安のまま通話を切る。
どうしよう。お父さんに相談して、雷清さんや風清さんにも声をかけてこれから探しに行こうか。頭では冷静にならなければと考える反面、先程から心の奥で膨らんでいく悍ましい答えを、必死に消えろと願っている。
しかし紬は、その考えから逃れられないでいた。
根拠も無ければ確証も無い。だが、きっとそうなのだ。
楓は、あの黒い家に居る。
なぜ、今まであの家の事を、忘れていたのだろうか。
心の中が黒くざわつく。
電車から見た、朝の空気に包まれる街で、そこだけ暗く落ち込んだ、違和感ある、あの家を。
楓がどうして、あの家に一人で行ったのかは分からない、でも。
その時、再びスマホの画面に明かりが灯る。
すぐに手に持ち、誰からの連絡か確認する。
お願い。
紬は祈りフリックするが、その画面を見るなりスマホを片手に、壁に掛けてあった上着を乱暴に取ると、部屋を慌てて飛び出した。
スマホの画面には、楓の名前と「たすけて」の、四文字が映し出されていた。
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