四 春明堂書店

 紬は1人、帰路に着いていた。

 改札を抜け、商店街へ。入学以来、一緒に帰っていた楓とは今日は別行動だ。アーチをくぐり抜け角にある、たい焼き屋に挨拶する。


 楓は今日、部活の下見に行っている。無論、紬も誘われたが今回は見送った。部活に興味がない訳ではないが、どうしても家の事が気になってしまう。父からは、気にせずにとは言われているものの、家の用事している雷清さん達の事を思うと、どうしても気になってしまう。

 不意に、どうしようもない事が、次から次へと浮かんでは消えていく。これからの学園生活、家の事、居なくなった、あおの事。


「おかえり、むぎちゃん」

「こんにちわ」

「どうした、浮かない顔して」

八百屋寅八の虎一さんにそう言われ、ビックとした。

「私、そんな顔してました?」

「してたな、どうした」

「いや、今日は色々あって…」

「よくないね、よくない」

大げさな素振りで両手を広げて、首を横に振る。

「そんな時にはこれよ、これ」

そう言うと、ビニール袋に一杯の苺を手渡してきた。

「わぁすごい、どうしたんですかこれ?」

「いやね、市場で押し付けられちゃって。商品には出来ない小粒でさ。遠慮せず持っててよ」

「いいんですか?」

「もちろん」

「じゃぁ遠慮なく、ありがと御座います」

大きく手を振る虎一に丁寧にお礼をして、寅八を後にする。

 思わぬ収穫に、ついつい頬が緩む。苺ミルクもいいけどこの量だ、ジャムにしよう、そうしたら虎一さんや辰次郎さん達にお裾分け出来る。

 先程までの憂鬱な気分も、こんな些細な事で晴れてしまう。自分の能天気さ加減に、つい笑いがこみ上げる。

 商店街の人たちは皆、家族のようだ。幼い頃からの知り合いと言う事もあるけど、上手く説明出来ない、なにかそれ以上の見えない絆がある気がする。


 春明堂書店しゅんめいどうしょてんの店主、藤野春子ふじのはるこも、その一人だった。

初めて春明堂に行ったのは、まだ歯も生え揃わない時分、無論記憶はないのだが、無理矢理持たされ水飴を片手に、春ばぁちゃんに抱っこされた写真を、大きくなって見てから知った。

 この頃は、小春ばぁちゃんだけが特別と言うわけではなかった。初孫がよほど嬉しかったのか、亡くなった祖父が、やたらめったら商店街で写真を撮っていたらしい。


 気がつくと紬は、春明堂の木戸の前に立っていた。

今朝は、開いていた。

そっと扉を引いてみる。驚く程、引き戸は軽く開いた。

どうしよう。

紬は少し悠長したが、店の中へ足を踏み入れた。薄暗い店の中はあの頃のまま、向かって右手、ガランと空いた棚以外は。


 春明堂書店の主たる取り扱いは古書だったが、店に入って右手の棚で駄菓子も売っていた。祖父にくっついて春明堂に来るたび、お菓子を一つ買って貰った。棚に並ぶ色とりどりのお菓子達は、どれもこれもピカピカ輝いて見えて、私にとっては宝物だった。


「すいません。何方かいらっしゃいますか」

抑え気味の声で、店内に呼び掛けるが、返事はない。少し奥に進んで様子を伺うと、昔よく見た風景が広がっていた。


 春明堂は子供達の溜まり場になっていて、少し大きくなった私も、楓とよく遊びに行った。勿論、駄菓子が目当てなのだが、幾度となく通っている内に、奥に広がる本の山にも興味が出て来た。どれも難しそうな漢字が書かれた本ばかりで、ただ眺めているだけだったが楽しかった。ある時。


むぎちゃん、読んでみるかい


そう言われ、春ばぁちゃんに1冊の本を手渡された。

その本は小さな女の子の冒険のお話で、私は店先に置いてある長椅子に腰掛け、夢中でその本を読んだ。読んだ後にとても面白かったと、春ばぁちゃんに言うと。


そうかい、そうかい


と、楽しそうに笑った。

次の日、春明堂の行くと、レジ横の駄菓子の棚の一角に「かしほん」と書かれた小さな本棚が出来ていた。



 当時のまま「かしほん」と書かれた本棚に、そっと手を伸ばす。

ほんのりホコリを被ったその本は、初めて読んだあの、心ときめく冒険の本だ。


リン


 後ろで、聞き慣れた鈴の音がした。振り返ると人影が、紬はその人を見て息を飲んだ。


 すっとした細身の体に長い手足、小さな顔に艷やかな黒髪、店の外から漏れ入る明かりで輪郭が光る。その立ち姿は、純粋に美しかった。

「あの、すいません。勝手に入ってしまって」

慌てて弁明しようと一歩踏み出すと、その人の腕の中に見覚えのある青い瞳が居る。

「あお!」

驚いておもわず名を呼ぶと、ミャ〜とひと鳴きして、温々と腕の中で微睡み目を閉じる。

「お知り合いですか?君の」

抱いた猫に、優しく話すその声を聞いて、紬は二度驚いた。

その美しい容姿から、てっきり女の人だと思ったら、どうやらそれは間違いだったみたいだ。

目が慣れてきて改めてよく見ると、目鼻立ちはすっきりとして中性的ではあるが、確かに男性だ。

「お迎えが来たよ」

ゆっくりと近づいて来て、あおをそっと差し出す。それを丁重に両腕で受け取った。

近くで見ると、透き通るような白い肌は、向こう側が本当に透けて見えるんじゃないかと思えるほどで、透明感のある黄褐色の瞳は、見つめると吸い込まれそうだ。

「ありがとう御座います、朝から探していて」

「それはよかった」

そう言い、紬の両腕に抱かれたあおを撫でる。

「いい匂いですね」

不意にそう言われ、心拍数の音が上がる。

「苺ですか?」

「そうですか?あ、えっと、そうです」

自分でも滑稽なほど動揺して、受け答えがちぐはぐになる。急に顔が近づいて来て、目を閉じる。

まるで、キスするように。

「本当にいい匂いだ」


最早パニック寸前、頭の中が真っ白になる。薄暗い店内でも気が付かれるのではないかと思う程、紬の顔は赤く染まっていた。

「あの、その、苺お好きなんですか?」

「ええ、好きです」

知的さが伺える切れ長な目が、丸眼鏡の奥で優しく微笑む。

「あ、えっと、よかったら、差し上げます。その、貰い物ですけど、ほんと、あの、私は大丈夫ですから」

もう、自分でも何を言っているの分からない。

「ありがとう。でも、これから用事があって、出掛けなくてはならないから。残念だけど」

申し訳無さそうに、再び微笑む。

「それは貴方が食べて下さい」

「紬です。海月紬と言います」

少し食い気味自己紹介する。この人に自分を知ってもらいたい、そんな思いが口をついて出た。

「すいません。そうですね、自己紹介がまだでした。私は月代小白つきしろこはくと言います。春子さんの遠縁に当たるもので、ここの管理を任されています」

春ばぁちゃんの親戚。

紬は春ばぁちゃんとは大きくなっても親しくしていて、寝泊まりする仲だったが、そんな話は聞いたことがなかった。

普段ならもっと警戒していたかも知れない。だが、今の紬は傍から見ても分かるほど、浮き足立っていた。

「あの、実はこの苺でジャムを作ろうと、さっきまで思ってて、もし良かったらなんですが、貰って頂けませんか?」

「ジャム、ですか」

小白は伏せ目がちに、少し考える素振りを見せる。

それを見た紬は慌てて、

「ご迷惑なら大丈夫です」

と、付け加える。

「いえ、迷惑だなんて、喜んで頂きます」

「あ、でも…」

でも、小白さんはいつまでここにいるんだろう。そんな事が頭を過る。

「ちょっとした用事があって、3日くらいは近くに居ますので、ここの整理も少ししたいですし」

紬の心配を察したかのように、助け舟が出る。

「明日はどうですか?同じくらいの時間ならここいにますので」

「はい、分かりました」

二人はそう約束して店の外に出た。


 また明日と、嬉しそうに挨拶して、宙に浮いたような足取りで帰って行く紬。その後ろ姿を見つめる、小白の目元は、光に反射した丸眼鏡でよく分からない。

「…いけませんね」

そう呟くと、手の平を上に向け口元に寄せる。すると、その手に青い炎が灯る。それを紬の後ろ姿に届くかのように、静かにそっと吹き消した。

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