三 「入り口のない家」
雑誌の編集者になって4年、月刊“valori《ヴァローリ》”で、古い建物を使ったレストランやカフェの連載を担当して1年がたった。取材にも慣れ、担当ページの評判も上々だ。
「よし」
琴美は自分に気合いを入れると、表通りから古民家へと、真っ直ぐ伸びる路地を歩き出した。
普段は、アポ取りしてから取材を行うが、今回は初めてアポなしでの取材だ。なぜなら、今回の取材先は、有名なクラッシックレストランでも、話題の古民家カフェでもなく、ただの民家なのだ。
路地の突き当り、黒塗りの門の前に立つ。
勿論、普通ならあり得ない。だが、今回だけは無茶してでも取材する、その価値があると思ってる。
その古民家は、琴美の通勤途中にあった。
今の会社に通い出した時、何処からか桜の花びらが舞ってきて、琴美の掌に乗った。辺りを見渡したが、何処にも桜の木はない。あれ?と思い、花びらが飛んできた方に戻ると、路地の奥に古民家がある。
高い垣根に、黒塗りの立派な門、その奥にちらりと桜色が頭を出している。見えている色の量からして、かなり大きな桜の木に間違いない。
それ以来、そこを通る度に気になっていた。幾度かの春を過ぎ、自分の企画が連載すると決まった時、一周年にはこの古民家の、あの桜を特集しようと心に決めていた。無論、住んでいる方に迷惑がかからない様に場所は伏せるつもりだ。
私だけが知っている、私だけの取って置きの場所。そんな記事を書きたい、そんな思いで今日は来ていた。
数日前から頭の中で、練習した挨拶を反芻しながら呼び鈴を探す、が見当たらない。
(どうしよう、入っていいものかしら?)
開かれていた門に顔を入れ奥を伺うと、丁度住人らしき影が、家の角を曲がる所だった。
「あの、すいません」
そう声を掛けるが、気が付かずに行ってしまった。
慌てて後を追う。
(後で丁重に謝ろう)
足早に追いかけ角を曲がるが、またも住人らしき人は、先の角を曲がる所だ。
「すいません、わたし…」
先程より大きな声を掛けるが、やはり気が付かず行ってしまう。駆け足で追いかけ角を曲がるが、今度は見失ってしまった。
「あのう、すいません、何方かいらしゃいませんか」
読んで見るが返事はない。どうしたものかと改めて周りを確認する。
そこには、ガラス張りの引き戸がある縁側があり、その目の前が日本庭園になったいた。その日本庭園を見て、琴美は息を飲んだ。
(凄い、綺麗)
日本庭園に詳しくない自分でも、その凄さが分かった。あの桜は見当たらなかったが、整いと自然が融合する、絵に描いたようなその風景に見惚れていると、背筋がゾクリとする。振り返ると、縁側の引き戸を開け、女の人が立っていた。
「あ、すいません、勝手に入ってしまって。私、月刊valoriで記事を書いています、佐々木琴美と言います」
慌てて名刺を取り出し、女性に渡す。
「突然お伺いして申し訳有りません。実は去年の春に、この家の桜を外から拝見しまして、その、余りにも綺麗でしたので、少しお話が伺えればと思いまして」
相手に失礼のないように、丁寧に話したつもりだったが、女性は黙ったまま、じっと名刺を見つめている。やはり、勝手に中に入ってしまっのが、不味かったのだろうか。
「すいません、もしお時間無いようでしたら、改めてお邪魔させて頂きますので…」
ここは出直そう、やはりきちんとアポを取って、再度お伺いしよう。連絡先だけは聞き出さなくてはと、そう思っていると、どうぞ、と上がるように促された。追い出されるとばかり思っていたので、ほっと胸をなでおろし、縁側から家の中へと上がり、女性の後を付いていく。
窓越しに綺麗な庭が続く掃除の行き届いた廊下を進み、1、2回角を曲がると、客間らしき部屋に通された。襖を開け、その部屋に通された瞬間、琴美は言葉を失った。
入って正面、開け放たれた障子の奥に、例の桜の木が待ち構えていた。2月の初め、まだ流石に花は咲いては居なかったが、その威風堂々たるさまに息を飲んだ。
完全に琴美の予想を上回っていた。
桜の木もそうだが、ロケーションも完璧だった。純和風の広い客間、中央にはどっしりと重厚な座敷机が置かれ、襖を開けると縁側の奥に、画角一杯の桜の木。
琴美が思い描く理想が、そこにはあった。
どうぞ、そう声を掛けられ、自分が外を見たまま障子の横に立ち尽くしている事に気付き、慌てて促された席へと座る。おまちください、そう言うと、女性は再び襖の奥に消えた。
(凄い、すごい!)
心の中で叫び喜んだ。
琴美は目を閉じて、満開の桜を想像した。
薄暗い和室から、淡いピンクが一面に広がる。
一陣の風が吹き、ざわめく花達。
その風に乗り、春の嵐が心地良く吹き抜ける。
一連載では勿体ないくらいの絵だ。
必ず住人を説得して、花が咲く頃に、再び取材させて貰わなければ。それに、編集長を説得出来れば、表紙も夢じゃない。琴美はこれから起こり得るかもしれない夢物語に、胸を踊らせていた。
腕時計を確認する。あれから1時間。少し遅くはないだろうか?
開けっ放しの障子に寒さを感じて、不味いかなと思いつつ、障子を閉める。どうしよう。アポなしで来ているのだ、待たされるのは覚悟の上とは言え、流石に遅すぎる。物音しない襖を見つめ、思いを巡らせる。たがしかし、何時までもこのままと言うわけにはいかない。散々悩みに悩んで、琴美は襖を開けた。
「すいません」
廊下の奥に届くよう呼びかけが、返事がない。
「すいません、何方かいらっしゃいませんか?」
再び呼びかけるも、やはり返事はない。
「すいません…」
そう言いながら、薄暗い廊下を奥へと進む。
「すいません。どなたかいませんか?すいません…」
しかし、この廊下、どこまで続いているのだろうか?
ぼんやり、そんな事を考えながら、さらに奥へと進む。
ゴト
不意に、左側の襖の奥から、音が聞こえる。
いつの間にか、口の中が乾いているのに気が付き、
「誰かいますか?」
そう言い襖を開けるが、誰も居ない。
ガランとした、四方が襖の部屋。
(もしかしたら、この奥かしら?)
そう思い、奥の襖を開ける。
(え…)
そこは、まったく同じ、四方が襖に囲まれた部屋だった。
なにかがおかしい。
そこで初めて琴美は、この家の異常さに気が付いた。
どこまでも長い廊下、入り組んだ間取り、庭の作り。
桜の木に気を取られ、深く考えなかった事柄を、順に反芻していく。
いや、だけど、考えられなくはない。
そうよ、私が知らないだけで、なにか特殊な作りの家なのかも、きっとそう、だって、あれ?
玄関…この家の玄関って。
玄関を見た記憶がない。それに…
どうしても、
案内してくれた人の顔を思い出せない。
琴美の背中に、冷たい汗が一斉に吹き出す。
たすけ、助けを呼ばなきゃ。
本能的にそう思い、ポケットを探すがスマホがない。そうだ、あの部屋だ、桜の木を撮ってそのまま座卓の上に置いたままだ。
戻らなくてはと振り返り、琴美は声にならない悲鳴を上げた。
そこには、入った先の部屋の向こうにも同じ部屋があり、廊下がどこにもない。
慌てて、隣の部屋の、そのまた奥の部屋の襖を開ける。が、そこも同じ部屋。
開けても、開けても、同じ襖が四方を囲む部屋が続いている。まるで合わせ鏡のように、どこまでも、どこまでも。
なに?なに?どうなってるの?
なんで同じ部屋なの?なんで?
なんで?なんで?どこなの?どこ?
ここは、どこなの?
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