七 化ける
あおはその夜、拝殿の縁に寝そべり
ふと、
あおは立ち上がると、全速力で駆け出す。
途中、何度か見失いそうになったが勘が働き、なんとか止まっている紬の自転車を見つけた。多分この中に居る。
あおは、辺りを見渡し再び駆け出す。
でも、紬はどうしたんだろう?
黒い塀沿いに走りながら、ああは考える。
どこからこの中に入ったんだ?
どこまでも続く黒い塀には、入り口が見当たらない。
嫌な予感がする。
拝殿から感じていた胸騒ぎを押し込め、この高い壁が超えられそうな場所を探した。
静かに開けた襖の奥を見て、紬は息を呑んだ。
純和風の広い客間、中央にはどっしりと重厚な座敷机が置かれ、開け放った襖の奥には、画角一杯に桜の花が咲いていた。桜の時期は、遠の昔に終わったと言うのに。
月明かりに照らされ、妖艶に咲き誇る。ひらひらと一枚の花びらが座敷机の上に舞い降りる。それを目で追って視線を座敷机に移すと、机の下に投げ出された脚が見える。
「楓!」
それは紛れもなく楓だった。
「楓、大丈夫!楓」
駆け寄ると、肩を抱きかかえ呼びかける。呼吸を確認して安堵するが、意識を失っていて返事はない。
「楓!楓!」
何度呼んでも目を閉じたままだ。
その時、一陣の風が吹き抜ける。舞い上がる花びら、春の嵐が如く吹く風は庭いっぱいに花弁を舞い散らす。余りの風の強さに、束の間に閉じた目を開けると、桜の木の陰より先程から追っていた背中のその人が、ゆっくりと現れる。
やはり見間違いではなかった。春明堂で合ったあの人だ。しかし、昼間とは雰囲気が違う、人を引き付ける陽だまりに似た優しさは姿を隠し、この世のものとは思えない妖艶な気配を身に纏っている。
右手で顔を覆い庭先に近づく、その指の間からは
目の前で起こっている事に、頭の処理がついていかず、ただ、楓の肩強く抱きしめ、瞬きさえ忘れ小白を見つめる。その眼差しは、受け入れ難い現実を、それでも彼を信じたい、そう願う彼女の精一杯の抵抗だった。
その間にも近づく小白の艷やかな黒髪が、毛先から銀色に染まっていく。息を呑む。目が離せない。不意に蝋燭を吹き消すように明かりが消える。それが合図だったように、左右の水墨画が書かれた襖が音も無く開く。
開いた先には、のっぺりとした闇が現れ、音が消える。
来る。
左右の闇から手が、無数の手が、押し出されるように生え出てくる。
おお、おおおお
声ではなく、音がする。音が低く響いてくる。
動けない。動かなければ。
「起きて!楓、起きて!」
立ち上がろうとするが足が
「楓!楓!」
這いずりながら、楓の脇を抱え引きずるように部屋から逃げようとするが、力が入らない。
その間にも増え続ける無数の手が、のっぺりとした闇に手を付き、抜け出ようと踠き、頭が、肩が、胸が、黒い人型の何かが這い出てくる。
「お願い!起きて!楓!きゃぁ!」
手が滑る。
おお、おおおお
闇より這い出た黒い無数の人影が、紬に襲いかる。
リン
だめだ、そう思った瞬間、鈴の音がした。
「あお!」
何処から飛び出したのか、黒い人影に襲いかかる白い影。あおだ。
牙を剥き、爪を立て、全身の毛を逆立て、果敢に黒い人影に立ち向かう。
おお、おおおお
だが、次々に湧き出る黒い人影の群れに囲まれ、あっという間に劣勢になってしまう。
一度離れ体制を立て直して飛びかかるも、弾き返され畳に叩きつけられる。
「あお!」
おお、おおおお
部屋に溢れかえる、黒い人影は止まらない。
覆いかぶさるように、紬達に襲いかかる。
もう駄目だ。やっぱり私なんかじゃ駄目だったんだ。
自分の無力さに涙が溢れる。
重なり合う黒い人影の合間から、遠くに変わり果てた小白の姿が見えた。
これが最後の風景なのかしら。
妙に冷静に、その姿を眺める。
小白がこちらを指し示すように右腕を上げる。
『怪異、狐火』
おおおおおお
心白から発せられたその言葉で、黒い人影が青い炎に包まれる。不思議と熱くないその炎は、不気味な音を立て、あっという間に黒い人影を消し去った。
ふわりと飛び縁側に立った小白は、いつの間にか生えた頭の上の耳と、背後に見える大きくふわふわした
「大丈夫ですか?紬さん」
しかし、昼間と変わらない優しい声が、その人だと証明する。差し出され手に安堵し、気が遠くなりそうになるが、小白の背後の闇から再び黒い人影が押し出され襲いかかる。
「あぶない!」、と言う前に、まるで見えているかのように、背後からの強襲を難なく躱す。振り向きざまに燃える黒い人影、もう一度こちらに向き直り、紬の背後から襲い来る人影も焼き尽くす。
それでも次から次へと這い出てくる黒い人影。
再び現れた無数の人影が、お次は折り重なり絡み合うと混ざり合い、部屋の天井いっぱいの、大男の人影になり小白を襲う。大ぶりの平手打ちを背後に飛び躱すと、庭に押し出された形になる。
不意に紬の視界が歪み、軽く頭に痛みが走る。ふらつく頭を押さえて目を閉じ再び開けると、廊下だったはずの部屋の入り口に別の部屋があり、そこに居る。
何が起きたかは分からなかったが、小白と離れては不味いと思い立ち上がると、部屋と部屋の間に部屋が現れる。部屋と部屋の間に、また部屋が。次から次へと部屋が現れ、庭で大男の影と格闘する小白と離れていく。慌てて立上り庭のある部屋へ戻ろうとするが、それより早く部屋が現れなかなか戻れない。
「小白さん!」
思わず叫ぶ。すると今度は、部屋達の襖が閉まっていく。
「紬さん、さかば…」
そう言いかけた小白が、襖の向こうに消える。
気がつけば、四方が襖に囲まれた、部屋の真ん中に居た。先程の出来事が嘘みたい静かで、なんの気配もない。
紬は部屋をぐるりと見渡す。
何もない襖に囲まれた部屋。
自分が、何処にいるか忘れてしまうような、静けさ。
と、小さく。ほんの小さく。低く唸る音が聞こえて来る。
そして、四方の襖がゆっくりと開き出す。
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