一 いつもの朝に

「あお、あおー」


海月紬うみづきつむぎは、部屋着にカーディガンを羽織り、餌入れを持ったまま、サンダル履きで表に出た。肌寒い朝に、肩を縮ませて辺りを見渡す。

 朝からあおが居ないなんて、今まで一度もなかったのに。誰も居ない境内は、今日はなんだか寂しさばかりが際立って見える。こんな気持ちなるのは、あおのせいだけではない。

 今朝は夢を見た、とても怖くそして、とても懐かしい夢だった。内容は、思い出そうとしても思い出せなかったが、私にとっては大切ななにか。そんな気がした。


「おはよ、むぎちゃん。どうしたの?そんな格好で、こんな所まで?」

気がつけば参道まで来ていて、竹箒で掃き掃除していた駒井風清こまいふうせいに声を掛けられた。

「おはよう、風清さん。あお、見かけませんでした?」

紬は努めて普段どおりに挨拶する。

「こっちには来てないよ」

掃除の手を少し休め宙を見つめてから、こちらにニコリと微笑み答えた。

「そうですか…」

「居ないの?」

「ええ。いつもならこの時間には、軒下に来るんですけど」

そう話しながらも辺りを見渡し、目であおを探す。

風清は竹箒を持ったまま腕組みして、目をつぶっていたが、

「やっぱりこっちじゃ、あおは見てないなぁ」

やはり思い当たらないようだった。

「そうですか。すいません、お掃除のじゃましちゃって」

「いいよいいよ気にしないで、見つかるといいね、あお」

「はい、ありがとうございます」

そう言って会釈する紬を、軽く手を差出し謙遜する。もう一度会釈して、本殿の方へ戻って行く姿に、風清は手を振り見送る。

途中で紬は振り返り、片手を口に当て、

「もうすぐ朝ご飯ですからね」

そう言うと、社務所へ消えて行いった。

 風清は再び手を振りそれを見送ると、今一度辺りを見渡した。


 台所にいい香りの湯気が立つ。古い作りだが、手入れが行き届いており、整然と並ぶ調理器具は使い勝手が良さそうだ。その少し背の低い台所を使うには、窮屈そうな背丈の男が手慣れた仕草で、小気味いいリズムを立てながら、葱を刻んでいる。

「すいません雷清さん、遅くなってしまって」

そう言って、エプロンを後ろ手に縛りながら、紬が台所に入ってきた。

「いえ、あおは見つかりましたか?」

包丁を動かす手は止めず、風清と同じ顔が斜め後ろに振り返る。

「それが、どこにも居なくて…」

「そうですか、日中は私も気にしておきますから」

「ありがとう御座います」

そう言いながら、調理台からガスコンロまでをざっと見て、進行のぐわいを確認する。それに気がついたのか駒井雷清こまいらいせいが、出来立ての味噌汁が入った鍋から汁をすくい、御手塩おてしょに入れると、紬に差し出す。

「うん、美味しい。いいと思います」

味見してそう言うと、雷清は返事の代わりに小さく微笑んだ。

「では、盛り付けお願いします」

それが合図だったように、二人はその後一言も喋らず、出来立ての料理を盛り付ける。まるで精巧に作られたからくり時計のように、次から次へと料理を並べる二人の動きには一切の無駄がない。


「おはよう」

朝拝ちょうはい終えた、紬の父で海薙神社かいなぎじんじゃの宮司、海月高雅うみづきたかまさが、朝の挨拶と共に部屋に入ってきた。

「おはよう御座います」

「おはよう、もうすぐだから」

二人が同時に挨拶する。

湯気が立つ食卓に座る高雅、それ続き紬、雷清の順に席に着く。

「おはようございます」

遅れて、慌てた素振りで風清が部屋に入ってくる。

「遅いぞ、風清」

厳しい口調で弟の雷清が窘める《たしな》。

「ごめん、ごめん。あおを探して表通りまで、ちょっとね」

悪びれた風もなく、舌を出して言い訳する。

「ありがとう、風清さん」

「いえいえ」

風清も席に付き、全員で食卓を囲む。

「では、いただきます」

「いただきます」

それを見計らって高雅が挨拶すると、全員が続いた。


「今日の魚は鰆かな?」

「うん、魚辰さんに進められたの」

「美味しいな」

「雷清、お醤油取って」

「必要ない、塩分の取り過ぎだ」

「えー」


何も知らない朝が、いつもの様に過ぎていく。

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