第3話 志野 恭子

 その頃、一真の母親は植木鉢に咲くニゲラに水をやっていた。平仮名で「ひまわり」と書かれた植木鉢はところどころ欠けていて、じょうろもヘコんでいて錆も酷い。


「はぁー、危なかった!やっとここまで咲いてくれたのに、枯らしたらりなんかしたら処罰ものね。」


 文明の発展をとげた今、自動栽培器も簡単に手に入ったし、何倍も楽な方法だ。だかそれを選ばなかったのは、彼女の意地と大切な思い出のためだった―。



 一真が小さい頃、夫婦共働きだった志野家は、家族が共に過ごす時間はほとんどなかった。

 それどころか、度重なる異常気象、月からの要求、貧困、反対運動と弾圧…志野家をはじめ、世の中全体がすさみ疲弊していた。


ガチャ

バタン!

 帰宅してそのまま、雪崩れ込むように倒れ込んでしまった。「ただいま」を言う気力もない。

今日はそのくらい疲れた。

「くっそー…。あの鬼畜上司め。残業代払わなかったら呪い殺してやるー…。」

いつまた天変地異みたいな異常気象に飲まれるかも分からない地球ここで、上司にこき使われながら毎日毎日働いて…。


「…なんのために生きてんだろ。」

ボソッと吐いた言葉が、玄関を反響して私に返ってきた。

ゴロリと仰向けになると、シーリングライトの光が思いのほか強くて、腕で遮ったが遅かった。目がジンジンする。流れてくるものを止めようと、腕でぎゅっと押さえつけた。


「はぁ…。これは重症ね。」


トタトタトタ

!! この足音は!

母親のさがかな。誰の足音なのかすぐにわかった。

さっきまでもう動かせないと思っていたのに、頭よりも体が先に反応してして瞬時に起き上がった。


ガチャッ

「おかぁさん!おかえり!あれ?なんで玄関で座ってるの?」

やっぱり一真だった。

危なかった。子どもの前で、情けない姿は見せられない。

「ただいまー。…えっとね、靴!靴がなかなか脱げなくて手こずってただけよ!」

一真はふーん?と首を傾げてはいるけど、なんとか誤魔化せたみたい。

「あ!それよりこっち!見せたいものがあるんだ!」

私の手をしっかりと握る小さい手は、力強くリビングへ引っ張って行く。

「一真!もうちょっとゆっくり!転ぶわよ!」


リビングに入ると、散らかっていた部屋が綺麗に整理され、テーブルにはハンバーグが用意されていた。

「え…一体…。」

「恭子さん、おかえりなさい。」

カウンターキッチンから、エプロンをつけた誠一せいいちが出てきた。

私と誠一は一真の世話の為、交代でリモートと出勤を切り替えていた。

今日は誠一がリモートだったわね。

「誠一。これどうしたの?」

誠一はニコニコ微笑ほほえむだけで、何も教えてくれない。

「一真、渡したいものがあるんだろ?」

「?」

誠一に促されると、一真はリビングチェアの上に置かれた何かを、ゆっくりと持って来た。

「おかあさん!これ!」


被せられた布を取り目の前に突き出されたのは、植木鉢に咲いた一輪の向日葵ひまわりだった。

風にのって、優しい香りがする。


「最近疲れてるみたいだからって、僕等の為に部屋の掃除から晩御飯の支度までやってくれたんだよ。僕もリモートワーク中に、ガタガタ音がすると思って行ってみたらこの状態でびっくりしたんだ。」

「この向日葵は?」

「それはね!種を…貰ったんだ!」

このご時世に、タダで何かをくれる人がいるなんて…

「変な人じゃなかった?」

「うーん…。笑わないしちょっとムスッとしたお顔だったけど、優しいお兄ちゃんだったよ!」

「お兄ちゃん?」

「制服を着ていたそうだよ。」

「学生!?どこのボンボンよ。」

花の種なんて、そう簡単に手に入るものじゃない。ましてや、一般家庭の子どもにそんなお金あるはずない。

そもそも、そんなお金持ちの家なら地球に残っているのはおかしい…。

「お、おかあさん。」

私が悶々と考え込んでいると、ずっと植木鉢を掲げていた一真の腕がプルプルと震えていた。

「ごめん一真!」

改めて間近で見ると、鮮やかな黄色の花びらが綺麗に広がり、茎も葉も力強く上を向く花をしっかりと支えている。本当に立派な向日葵だ。

「でもこれ…。私がもらってもいいの?」

「もちろん!」

よく見ると、爪の間には土がこびりついている。

この時期毎日のように起こるスコールに猛暑…。外の劣悪な環境で、育てるだけでも大変だったでしょうに…。

「ひまわりって太陽みたいでしょ!おかあさんみたい。」

胸が痛い。

「私は…。」

思い返せば、数ヶ月前からじょうろを持って庭の方へ行く姿を見ていた。いつもと違う一真の行動を知っていたけど、余裕がなかった私は気づかないふりをしていた。

ついさっきまで、私はあなた達の事を忘れて、一人楽になることばかり考えていたのに、受け取る資格なんて…。

「おかぁさん?」

泣いちゃいけない。泣いちゃいけないのに…止まらない。

滅多に涙を流さない私の心のうちを察したのか、誠一はそっと私の肩を抱いた。

「泣いてもいいんだよ。常に強くなくたっていい。恭子さんが弱った時は、僕等に支えさせてよ。」

一真に聞こえないように、小さくささやいた言葉が温かい。

「おかぁさん?なんで泣いてるの?」

「それぐらい嬉しかったんだよ。ね?恭子さん。」

「…ええ。とっても嬉しいわ。」

誠一と一真、二人そっくりなこの優しい笑顔があれば、私はやっていける。



―あのことがきっかけで、私は強くなれた。私達家族は救われた。


「あの頃はあんなに可愛かったのに、今じゃあんなに生意気になっちゃって。」

そうは言うものの、昔も今も一真が志野家の支えであることに変わりはなかった。


ガァー!ガァー!

玄関のベルがけたたましく鳴り響く。

「昨日、誠一に直しておいてって言ったのに。」

「はーい。今開けまーす!」

鍵を開け、ドアノブに手をかける。

すると、奥からバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。

ちょうど思い出していたと重なって、なんだか笑ってしまう。

「一真ぁ。騒がしいわよー。」


バタンッッ!


「母さん!!出ちゃダメだ!!」


「一真?どうし―…。」

必死の形相で手を伸ばす息子の様子に、ただならない事態だと察知した。―が、ドアを開く手はもう止められなかった。


ガチャ



「―志野恭子さんですね。」

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