第11話 月光の下に彷徨う娼婦の皮を被った女
夏の終わりから秋の中頃にかけての夜空はあまり感動が無い。夜の住宅街をスポーツウェアで駆け抜けながら、源治はそんなことを考えていた。
夏の夜空といえば天の川だとか夏の大三角形だとか見頃の星はいくらでもあるし冬の夜空に浮かぶ星々の方が知らないものに溢れている気がするが、細かい部分に目をつけず夜空全体を見渡してみると、どういう理屈なのか冬の方が澄んで見えるのだ。
そういえば物理の先生が「天の川は夏中ずっと見られる」なんて言い出したことがあったな。物理学に明るい者はなんと夢の無いことを言うものか、と亭々たる図体に秘められた思春期特有の繊細な心に淀みをもたらされたような気分になりつつ走り続けていた源治が曲がり角に差し掛かった時、死角から小柄な人影が飛び出し源治に衝突した。人影に気づいてから衝突までの間がコンマ以下ともなると流石の源治でも対応することがままならず、中途半端に避けようとしてバランスを崩し人影と一緒に転んでしまった。
「あ〜っ…うわすいません、大丈夫ですか」
仰向けに倒れた源治の胸に顔を埋める形で倒れてしまった人物は、源治の呼びかけに対し消え入りそうな声で「はい…すいません」と応え、徐にその顔を上げるなり大きく目を見開いた。
「中津留…」
源治に衝突したのはクラスメイトの赤嶺紫杏だった。思いがけない人物との邂逅に源治は驚いたが、それ以上に気にかかることがあった。紫杏の目に涙が浮かんでいたのだ。
「赤嶺、何かあった…?」
源治が指摘すると、紫杏はグゥゥと詰まった喉から無理矢理捻り出すような嗚咽を漏らして源治の胸に再び顔を埋めた。
何かあったのは確からしいと源治は心配したが、それよりまず車や自転車の通行を妨げかねないと紫杏を諭し身を起こした。そして道路の端に腰掛けて、逞しい腕に取り付いて泣きじゃくる紫杏を落ち着くまで見守った。時折通りかかった人々がギョッとして自分達を見たり見て見ぬ振りをしたりして、源治は何をしたわけでないのに罪悪感に駆られてしまった。
紫杏の嗚咽が落ち着いたのは源治の体感にして5分ほど後だった。腕から離れた紫杏を源治は一旦近くのコンビニに連れて行き、もしもの為に携えておいた小銭でペットボトルの緑茶を奢った。
それから2人でコンビニの前に腰掛けると、紫杏が緑茶をチビチビと飲んでから「ごめん」と言った。
「父親と喧嘩して、家飛び出してきた…」
紫杏の告白に源治は「そうか」とだけ返した。思春期の少女が父親と喧嘩をするのはさして珍しくないことだが、自分から理由を突っ込んで聞くのはあまりにも不躾に思われた。
「夕飯の時に進路の話になってさ、私なりたいものとか特に無いし進路って言われてもピンとこないの。そしたら父親から『俺がお前ぐらいの頃はちゃんと先を見据えてた』って言われて…ムカついた」
源治が問わずとも紫杏は自ら話し始めた。
喧嘩のきっかけはごくごくありふれたもので、紫杏の父親が放ったという発言は意識の高い親が(真偽はどうあれ)放ちがちなものだ。だからこそ「コイツは軒並みな文句で子供を煽ることしかできないのか」とムカつくところであるが。
「ね…中津留の家、泊まっていい?お礼はするよ」
紫杏が再び源治の腕に絡みついた。胸を押しつけ、くすぐるように指先を這わせ、どこか媚びるような視線を送りながら。
紫杏の所作から、源治は彼女の言う『お礼』の意味を察した。きっとこんな持ち掛けをしたのは初めてなんだろうとも思った。紫杏の手が僅かに震えていたのだ。
「ウチに来たところで母ちゃんがお前の親に電話するに決まってんじゃん」
「内緒で上げてもらえないかな…お礼するから」
紫杏がより身体を密着させる。源治の腕に伝わる温かさと柔らかさは紫杏が"女"という生き物であることを源治に実感させたが、だからこそ源治は紫杏に対し「嫌だね」と言い放った。
「お礼って何してくれるつもりだよ。親の庇護下にある10代のクソガキにできることなの?」
「クソガキって…」
「変な考えは捨てろよ。俺だってガキなんだから何か起きても責任は取れないし、毎日顔合わせてる同級生に身体の安売りなんかさせたくないよ」
「…それ初華ちゃんとかマナカに頼まれても、同じこと言える?」
「もちろん」
当然のことだと源治が答えると、紫杏は力の抜けたような笑い声を漏らしながら源治の腕を離れた。
「失望したか?俺は別にいいぞ」
「…いや、さすが中津留だと思った」
「そう。とりあえず迎えが来るまでは一緒にいるから早く親に電話しろよ」
紫杏がスマホを取り出し電話をかけ始めた。応答したのは母親らしく、かなり心配していたらしく甲高い声が源治の耳にも届く。
「大丈夫だよ」「ごめんね」「ありがとう」と紫杏がいつになく柔らかな声で返す隣で源治がコンビニ前の大通りを眺めていると、一台のパトカーがサイレンも鳴らさず通りかかった。パトロールの類らしく源治は身構えたが、あまりやる気は無いらしく警官は源治と紫杏を一瞥すると大きな欠伸をしてそのまま走り去っていった。
「中津留、もうすぐお母さんが迎えに来る」
「よかった。俺は今パトカーを前にして肝が冷えた」
「若者が夜に出歩いてるぐらいじゃここの警察は何もしないよ」
「職務怠慢じゃん」
そうやって2人で他愛も無い話をしていると、店の前に温かみのあるクリーム色の軽自動車が停まり、中から中年女性が出てきた。女性は真っ直ぐに紫杏のそばまで歩み寄り「心配したじゃない」と涙を見せた。
「お母さん、ごめんなさい…」
「無事がわかったから良いわ。お父さんには『軒並みな煽りしかできないの?』って叱っておいたから」
父親がやりがちな煽りには子どもだけでなく母親も思うところがあるのかもしれない。紫杏の母がかけた言葉から源治はそんなことを考えた。
「あぁ〜源治くん、さっき電話で紫杏から聞いたわぁ!ありがとうね!源治くんも家まで送ろうか」
「あ、ジョギングの途中なんで大丈夫です…」
「あらそう!?すごいわぁ〜!頑張ってねぇ!」
それじゃあ帰ろうか、と紫杏を促して彼女の母親は車へと乗り込んだ。続けて紫杏も乗り込もうとしたが、何を思ったか源治の前まで歩み寄ってきた。
「中津留、ありがとう…」
「何もしてねえよ」
苦笑する源治につられて紫杏も恥ずかしそうな笑顔を見せると、逃げるように車に乗り込んだ。
そうしてコンビニの敷地を出ていく車を見送った後、源治は別れ際に紫杏が見せた顔を思い返すとブンブンと頭を横に振り、ジョギングへと戻った。
源治の記憶の限りでは、コンビニの照明に照らされた紫杏の顔は紅潮を見せていたように思われる。
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