7撃目
キナコは宮脇金物店の入り口に立ち、大きく息を吐いた。血だらけの制服、傷だらけの体。だが口元には笑みを浮かべ、見開いた目には光――
(キナコちゃん、大丈夫?)
「うん、平気だよ。心配してくれてありがとう祥子ちゃん」
嘘ではなかった。先程までの全身の痛みが、今は嘘のように引いていた。頭の中もスッキリしていた。もう、迷う必要などない。キナコの前には、自分が進むべき道がはっきりと示されていた。
後は、その道に立ちふさがる邪魔者を排除するだけだ。
「おうおう、元気そうじゃねえかクソガキぃ……なんだお前、そりゃあなんのつもりだ?」
羽白田の視線が、キナコの
「
キナコは不敵に言い放つ。彼女の右手には、友人の命を奪った思い出の金槌。そして左手には、もう一本の金槌が握られていた。歴史ある宮脇金物店の奥に眠っていた、職人お手製の逸品だ。
「すみません、しばらくお借りしますね。必ずお返ししますから」
「あ~? ああ、郵便局なら、この道を真っすぐ行って、突き当りを右だよ」
「ありがとうございます!」
耳の遠い店主の老婆に感謝を告げた瞬間、キナコは駆けた。柴の目には、キナコが突然消え去ったようにしか見えなかった。先ほどの黒い男を思い出し、柴の背中が
「見えてんだよお!」
羽白田は、己の右前方に拳を振るった。路地に突風を巻き起こすその拳は、だが何もとらえずに空を切った。
羽白田の横を影が、キナコが
「舐めんなあ!」
羽白田は続けざまに拳を振るう。蹴りを放つ。そのことごとくが、疾走する影に全く追いつかない。
「な……!」
見えている。見えていた。さっきまでは。だが。
影が奔る。
羽白田の額を、一筋の汗が流れる。
汗は頬をたどり、やがて一粒の雫となって、羽白田の顔を離れ。
影が奔る。羽白田の側頭部に、単車でもぶつけられたかのような重い衝撃。思わずよろける。衝撃が来た方向に向かって拳を振るう。空を切る。影が奔る。続いて腹部、肝臓への一撃。羽白田の体がくの字に曲がる。影が奔る。奔る。奔る。羽白田には見えない。何も見えない。とらえられない。羽白田の全身を衝撃が襲う。首筋、膝、鎖骨、鳩尾、脛、耳、肘。そして顎への一撃。羽白田は全てまともに食らうと、地面に片膝をついた。
一粒の雫が、地面へとたどり着いた。
羽白田は地面を見つめていた。その地面が、少しずつ赤く染まっていく。そう気づいた瞬間、羽白田の目と鼻と口から大量の血がこぼれだした。
信じられねえ。羽白田は小声でそうつぶやく。信じられねえ。なんなんだコイツは。さっきまでの奴じゃねえ。速さが段違いだ。まさか、二本目の金槌持っただけで、こうなったってのか? なんだそりゃ? いやいやおかしいだろ。なんで金槌握っただけで、そんなことができるように――。
地面を見続ける羽白田の視界に
羽白田の心に、久しく忘れていた感情が生まれていた。その感情は彼がほんの子供の頃、彼が動けなくなるまで酒瓶で殴りつけてくる実の父親に対して抱いたものと、ほとんど同種のものだった。
そのことに気がついた羽白田の心に、怒りの炎がたぎる。
思い知らせてやる。
そうやって彼をいたぶっていた父親が、最終的に彼の手によってどういう運命をたどったか――それを、じっくりとテメエの体に
羽白田の顔が嗜虐の笑みに歪む。羽白田は顔を上げ、キナコを見た。
そこにあったのはなんの特徴もない、「ふつう」の女子高生の顔だった。
「ぶっころ――」
羽白田の顔に、
「ごりぇえおわあ!」
奇声を上げ、羽白田は立ち上がる。立ち上がりざまのアッパーカットは、またもや空を切る。当たらない。どこだ。
「こっちですよ」
女の声。反応は即時。右腕。バックナックル。当たらない。いや、拳の先にほんのわずか、
かすめた。羽白田の心に歓喜が生まれ――それはすぐに、燃え上がる怒りに塗りつぶされる。この俺が、この羽白田勉が、拳がかすっただけで喜ぶだと。冗談じゃねえ。殺す。絶対にぶっ殺してやる。
「……大体、金槌が二つに増えたぐらいで、なんでテメエはこんな」
「ふふん、それはですね! 私と祥子ちゃんと同じです!」
得意げに鼻を鳴らしながら、キナコは奔る。
「一つだけだと小さい光、だけど二つの光が合わされば、すごく大きな輝きになるんです! 1+1は2じゃないんです! 200になるんです! 十倍ですよ十倍!」
金槌が唸りをあげる。衝撃が脇腹に。内臓のどれかが潰れた感触。
「なんだ……そりゃ。ワケわかんねえぞクソが。そもそもテメエ、金槌でこんなにヤれるんだったら、別にピストルなんかいらねえんじゃねえのか」
「――え?」
キナコの動きが止まった。
「え? ええ? そ、そうなのかな?」
(キ、キナコちゃん!? 悩んでる場合じゃないよ?!)
キナコは立ち止まり、盛んに首をひねっていた。
チャンスだ。
羽白田は吠えた。吠えて踏み込んだ。彼の闘争人生における、最高の速度、最高のタイミング、最高の威力で放たれた右拳が、キナコめがけて飛んだ。キナコはまだ首をひねっていた。かわす素振りすら見せていなかった。
終わりだ。
己の勝ちを確信した羽白田の脳内に、種々の麻薬物質が分泌されていく。視界に映る景色が、ゆっくりと流れはじめる。
あと数センチ。それでテメエの顔はぐちゃぐちゃのミンチに――。
羽白田が伸ばした腕の下方から、超高速で迫るなにかがあった。キナコの意思とは無関係に飛んできた
爆発と
振り上げられたキナコの左手、そこに握りしめられていた金槌が、高く天を指していた。羽白田は数歩後ずさると、情けなく尻餅をついた。
彼の右腕は、肘から先が消失していた。
鈍い音がした。柴が、踏まれたカエルのような声をあげた。吹き飛んできた羽白田の腕が、柴の顔に命中したためであった。
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