ただの結末。唯一無二の。

 春を迎えて新入生が入ってきても、フルートパートの雰囲気の良さは崩れなかった。唯は厳しいながらも的確な指導で信頼を集めていたし、錦葉は面倒見のいいムードメーカーとして慕われていた。私もまだまだ不十分とはいえ、パーリーになったばかりの頃よりかはよほど全体に目を向けられていた。二年のときにオーディションに落ちた経験があるおかげで、親しみを持ってくれる新入生も多かった。

 あっという間に月日は流れ、Cメンを決めるオーディションが始まった。唯クラスの一年が入ってくることもなかったし、大丈夫だろうとは思っていた。けど、それでも不安に感じていた部分はあった。和奈と一緒に部活ができるのも今年で最後。落ちたらもう、次はない。

 心配は杞憂に終わった。私は無事に、オーディションへの合格を果たした。それ自体は嬉しかったし心の底から安堵したけど、心外だったのは唯の反応だった。私の名前が読み上げられたとき、やけにホッとしたような顔つきをしていたのだ。ソロに選ばれたときには、さも当然と言わんばかりの澄まし顔でいたくせに。

「自分がソロになる確率より、私が落りる可能性のほうが高いって思ってたわけ?」

「だって、手塩にかけて育てた先輩が落選したら面目丸潰れじゃないですか」

 学年が上がっても、唯の歯に衣着せぬ物言いは健在だった。呆れるような、納得するような気持ちになって、私は破顔した。

 だけどその認識は、ひどい間違いだと言わざるを得ない。愚かなんて言葉じゃ到底足りないほどの、罪深いまでの浅はかさ。

 だって、今のは嘘だ。面目? プライド? なわけない。唯がそんな下らないことで、あそこまで大仰な反応をするわけがない。そんなのただの誤魔化しだって、ちょっと考えればすぐにわかった。でも、私はそれをしなかった。唯の胸の内を想像してみることを、しなかった。

 私は思う。唯の胸を開いてみたら、その心臓には一体幾つの傷跡がついてるんだろう、って。両手じゃ絶対に数え切れない。唯は何度も何度も自分の心に刃を立てて、刺し殺して、血を流してきたのだから。だけど私はその痛みに気づくことができなくて、唯の本心に気づく機会を、尽く見過ごしてきた。

 だから、きっと罰なんだ。そのことに気づいたときには、何もかも手遅れになっていたのは。

 或いは、こう捉えることもできるかも知れない。何もかも唯の計画通りで、私はまんまと嵌められたんだって。

 何にせよ、私が真実に勘付いたのは、支部大会が終わってすぐ後のことだった。

 その年の習女の演奏は、多少厳し目に見ても非の打ち所のないほどの出来栄えだった。唯は去年のような失態を犯すこともなく滑らかで力強いソロを披露してくれたし、どこのパートも今までで一番いい演奏ができていた。誇張抜きに、その時の私達にできる最高の演奏をした。

 その甲斐あって、私達は念願の金を受賞した。

 その甲斐もなく、私達の金は、ダメ金だった。

 うちの支部はここ五年あまりダメ金を出していない。ゴールドの声がかかった瞬間、誰もが全国出場を確信して沸き立った。でも、それは早とちりだった。今年は全体的にレベルの高い演奏が多かったせいだろう。習女は金賞受賞校で唯一、全国大会出場を逃すことになった。

 目に痛い夕暮れの景色の中、帰り支度を整える私達の間に、言葉は少なかった。だからといって、昨年のような重苦しい雰囲気というわけではなかった。快哉を叫ぶような気分ではないけれど、殊更に沈みこむのも違う気がした。

 確かに、結果自体は悔いの残るものに終わった。だけど、演奏そのものに対して後悔はしていなかった。百パーセントの実力を出せたと胸を張って言うことができるし、少なくとも例年なら全国に行けていた。その意識は、私達の胸中に虚しさを生じさせると同時に、諦めや慰めを与えてもいた。

「駄目だったね、今年も」

 大型楽器の積み込み作業をぼんやり眺めていたところ、いつの間にか和奈が隣にいた。そうだね、となんてことのない相槌を打つと、和奈はぐーっと両腕を持ち上げて伸びをした。

「私達の高校生活もこれでお終いかぁ。長かったような、短かったような」

「まだ終わってはないでしょ。半年くらい残ってるんだから」

「私は受験勉強付けの毎日を高校生活とは認めん」

「なにそれ」私は小さく吹き出した。それから、やや間を開けて。

「でも、気持ちはわかるな。もう、放課後に部室に行くこともないんだし。年が明けには登校日なんて殆どなくなっちゃうだろうし」

 暦の上では、あと半年。だけど実質的には、私達に与えられた残り時間は、ほんの僅かで。

 それは高校生という肩書の消費期限でもあるし、引きずりに引きずり続けた初恋の余命でもあった。最初に好きを自覚したあの日から、二年と半年弱が経つ。大切に抱え続けた思いは、成就するどころか相手に気づかれることもないままに、密やかに息絶える運命なんだろう。

 初恋なんてそんなもの。この手の常套句で自分を慰めきれるほど、私は大人になれているわけじゃない。でも、人間が永久には生きられないのと同様に、恋にだって寿命はある。延命処置を施すことはできても、何かを根本から変えてしまうようなることは不可能。こればかりは、どうしようもない現実だった。受け入れざるを、得なかった。

 この恋を目に見える形にするには、少し長く、持ちすぎた。

 きっと、そういうこと、なのだろう。

 複雑な胸の内など知らないままに、そうだねぇ、と和奈が共感の言葉を返す。

「可愛い後輩ともこれで一区切りかと思うと、やっぱり寂しいな」

「和奈は後輩と仲良かったもんね」

「美空だって、去年の秋くらいからは結構仲良くなってたじゃん」

「ん、まあね。――あれ?」

 今気がついたけど、さっきから唯の姿が見当たらない。注意深く周囲を見回してみるけど、やっぱりいない。

「美空? どうかした?」

「いや、唯がいないなって思って。どこ行ってるんだろう。もうすぐ出発なのに」

「本当だ。いないね」

 ラインを入れてみたけど既読はつかない。錦葉は知ってるかなと思って探してみると、演奏を聞きに来た神楽坂先輩と向こうの方で話し込んでいる最中だった。

「……すみません。去年の雪辱、果たすつもりだったのに」

「いいのよ、そんなことは気に病まなくて。錦場さん達は素晴らしい演奏をしたもの。俯く必要なんて、どこにもないわ」

 項垂れる錦葉の顎に手を添えると、神楽坂先輩は顔を挙げさせた。

「私たちは去年、涙を流した。でも錦場さんたちは今、泣いてはいない。それが答えだと思うわ。ベストと感じられる演奏ができたのなら、恥じる必要なんかどこにもないわ。胸を張りなさい、錦葉さん」

「……っ、はい!」

 精一杯の笑顔を浮かべて返事する錦葉。割って入るような雰囲気ではない。錦葉に訊くのは諦めたほうがいいだろう。

 唯はまだ戻ってこない。ラインの返信もない。私と和奈は顔を見合わせた。既視感のある状況に、胸がざわつく。かつての記憶を重ね合わせてしまったのは、私だけではないのだろう。

「呼んできてあげれば、美空が」

 和奈が軽く肩を竦めながら、言ってきた。パートリーダーではなく美空と口にしたことに、特別な意味があるのか、ないのか。そんなことを漠然と考えながら、行ってくる、と首肯する。

 向かう場所は決まってる。一年前と同じ、古びた自販機が陳列された会場の裏手だ。

 果たして、唯はそこにいた。まるで置物か何かのように、自販機のすぐ脇に座り込みながら、力なく俯きながら泣いていた。

 一年前との怖いくらいの一致。だけど明確に異なっていることが、二つ。今回は和奈が呼びに来ることはないだろうというのと、私はこの子を見下しに来たわけじゃない、ということ。

 唯は私の姿を認めると、ごめんなさい、と泣いてるくせにやけに明瞭な声音で言ってきた。

「なんで謝るの。唯のソロ、凄く良かったのに。謝られたらこっちが困るって」

「それでもまだ、全国に手が届くレベルではありませんでした。だから、ごめんなさい」

「相変わらず向上心の塊だね。恐れ入る」

 私達は苦笑しながら、唯のすぐ隣に腰を下ろした。ちょっとでも動けば肩と肩が触れ合ってしまいそうなほど、距離は近くなっていた。唯の鼻をすする音が微かに聞こえた。

「ほら、そろそろ泣き止みなって。唯にはまだ来年があるんだから。そのときにリベンジすればいいじゃん」

 唯の目的は全国に行くこと。その目標を叶えるのは、今年でなくてもいいはずだ。そう思っての発言だったのだけど。

「違う。来年じゃ駄目なんです。それじゃ意味、ないんです」

 充血した目を見開きながら、唯が顔を近づけてきた。いつになく真剣一色な雰囲気に、やや戸惑う。

「意味ないって、どうして?」

「だって先輩、副部長のこと好きですよね」

 は? こいつ今、なんて?

「……えっと、ごめん。よく聞こえなかった、んだけど」

「だから、先輩は副部長のこと好きなんですよねって。今更とぼけないで下さいよ。バレバレなのに」

 嘆息混じりに吐き捨てる唯。私は現実を受けいれた。ひた隠しにし続けたと思っていた恋心は、どうやら唯には見抜かれていたらしい。……いやなんで⁉ 現実を受け入れた瞬間、激しい動揺に襲われる。なんでわかった? いつから知ってた? 他の人は? 和奈自身は? というか、なんでそれを今言った?

 訊きたいことは山程あった。でも、真っ先に私の口から飛び出したのは。

「なんで、そう思うわけ? だって、その……」

 女同士じゃん。その言葉が、声にはならない。

「なんでも何もありませんよ。あそこまであからさまな反応してたら察します。……その。私も同じ、だから」

 最後の最後で言い淀む唯。瞬間、一年前の記憶が目の前の景色に重なった。

 同じ。その言葉を、私は去年も同じ場所で聞いている。

 ……ようやく、気づいた。あのとき口にした同じは、そういう意味、だったんだ。

 でも、だとしたら唯は一年前からずっと、そのことに気づいてたってこと? なんだそれ恥ずかしすぎる。地面に頭を打ち付けたくなる。落ち着け、とどうにか堪える。今は他に聞くべきことがある。そうだったんだ、と前置きしてから私は質問を続けた。

「だけど、それがどうして今年じゃなきゃ駄目なことに繋がるの?」

「だって先輩、卒業しちゃうじゃないですか」

「それは唯の目標には関係ないでしょ」

「大ありですよ。私は別に、全国出場とかどうでもいいし」

 愕然とした。一瞬、世界が遠のきかけた。さっきのに勝るとも劣らないくらいの衝撃だった。

「どうでもいいって、それ、どういうこと? うちの部で一番上手くて一番熱心なのは、唯なのに」

「勿論、良い演奏をしたいって気持ちはありますよ。誰よりも上手くフルートを吹きたいって欲求は。でも、部全体としての出来栄えはそれほど気にならないんですよね。合奏も合奏で楽しいけど、どちらかというと一人で自由に吹く方が性には合ってるから」

「それは……」

 わからなくもない、けど。錦葉の退部騒動を経て音に纏まりが出るようになった後でも、唯のフルートが最も輝くのはソロだった。

「だけど、気づいちゃったんですよね。先輩は副部長のことが好きで、だからCメンに選ばれたがってるんだって。それで、どうせなら二人を全国に行かせてやろうって思って」

「……私と和奈の良い思い出になるから、ってこと?」

「結びつけるきっかけの一つにはなるかな、って。先輩、副部長への好意ダダ漏れなくせに、端から諦めてるところあるじゃないですが。それが癇に障ったっていうか、見てられなかったっていうか。ま、ダメ金に終わった以上、こんなこと言っても格好つかないですけどね」

 皮肉げに口の端を釣り上げながら、小さく肩を竦める唯。

 少しずつ、真意が見え始めてはきた。だけど、得心が行くどころか困惑は益々深まるばかりだった。明かされるのは周辺のどうでもいい事情ばかりで、核心的な部分は上手いところ避けられている。わざとだ。きっと唯は、意図的に大事なところを言葉にするのを避けている。

 それを承知で、私は踏み込むことにした。踏み込まざるを、得なかった。

「だからって、なんでそんなことしようとしたの? 私のためにそこまでする意味なんて、なくない?」

「ええ、ないですよ」

 迷いのない口調だった。なのに、唯は目を伏せた。既に涙は乾いている。なのに、弱々しく見えた。何故だろう。不思議と胸を締め上げられている自分がいる。奇妙なざわつきが胸の中を満たしている。心臓の音がドクンドクンって喧しくなっている。喧しく、鳴っている。

「知ってますよ。意味なんかないってくらい、私が一番。……本当、なんでなんだろう。何のために、こんなこと。私、馬鹿なのかな。当てつけのつもりなのかな。わかんない。わかんないや、何にも」

 苦笑混じりに、独白じみた調子で唯が言う。

 ふと、脳裏にある情景が思い浮かんだ。私と唯が初めて正面から口論をした、あのときの光景が。唯が私に向けてきた眼差し。奇妙な熱を感じさせたあの表情。……そっか。既視感があったのも、正体を思い出せなかったのも当然だ。だって私は、他人のあんな表情は見たことない。なのに覚えがあったのは、私が見た側じゃなくて、見られた側だということに他ならなくて――

 ピキン、と心臓が凍りつく音がした。息が止まった。目眩にも似た感覚に襲われた。足元がガラスみたいにバラバラに砕け散って、永遠に落下する錯覚に打ちのめされた。

 ……違う。違うって。なわけない。考えすぎ。ただの自意識過剰。けど、もし本当にそうだとしたら? もし私が、和奈に感じているのと同じ苦しみを、唯に味わわせてとしたら――

 唯が横目に顔を覗き込む。宙空で透明な視線が重なり合って、弾ける。黒い瞳から伸びる眼差しが瞳の奥底に入り込み、心の中を盗み見して去っていく。

 一瞬の犯行の後、唯はやけに爽やかな笑みを浮かべると、勢いよく立ち上がった。

 生温い風が吹いてきて、夕暮れの霞んだ空を背景に、黒色の髪がふわりと踊った。

「ま、単なる気まぐれですよ。片思いの辛さは、私にもわかりますから。あ、言っておくけど先輩のことじゃないですからね。中学のとき好きな子がいたってだけなので、邪推しないでくださいよ」

 冗談でも嘯くみたいな、質量を伴わない軽い声。

 とん、と。背中を後ろから一押しされて、突き放される。そんな自分の姿が思い浮かんだ。

 一体どんな表情で、唯はその言葉を述べたのか。知らないし、知る由もないし、知る資格もないのだと思う。けど、察しが悪い私にも、これだけは理解できた。

 唯は、拒んだんだ。抱えた感情を言葉にするのを。確固たる形を与えるのを。

 そんな彼女を前にして、私に何が言えるだろう。何を、言えるだろう。

 一度、心臓のあたりを右手で強く握りしめる。それから小さく息を吸って、吐いて。

「――ん。そうだね」

 なんてことないように言って、笑った。

 お話は、これにてお終い。突拍子がないようにも思えるけれど、実際そうなのだから仕方ない。この後は皆のところに戻って、バスに乗って、学校に戻って帰宅して終了だ。翌日以降も特別なイベントが起こることなく、私は至って普通に吹奏楽部を引退し、至って普通に受験勉強に本腰を入れ始めた。これ以上、語るべきことなんて何もない。

 これは私と浜野唯の、出会いと別れの物語。

 そして、私の犯した痛くて苦い、罪についての物語。

 そのお話は、ぐるりと一回転する輪のように。

 少女の意地で始まり、そしてまた、少女の意地で幕引きがなされたのだった。

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