成長の対価は痛み

 とはいえ。当然のことながら、夏が終われば秋が来る。

 私達の日常に、閉幕はまだ訪れない。

 コンクール敗退と共に、神楽坂先輩たちは引退をした。それに伴いフルートパートの最高学年となった私は、不可抗力的にパートリーダーを担うことになった。和奈についてはパートリーダーどころか、副部長にまで就任していた。和奈は面倒見がいいし人当たりだっていい。適任だってことくらい、私が一番理解している。けど、複雑な感情を抱いてしまうのも確かだった。和奈が益々、私から遠ざかっていってしまうような気がしてしまって。

 だけど、そんなことを一々気にしてられたのも最初のうちだけだった。

 私がパートリーダーに就任してから一ヶ月。新体制となったフルートパートに早速、吹部における最大の危機が降り掛かってきた。

 退部騒動である。

 朝、目覚めると同時にスマホを見たら、部活をやめる内容のラインが錦葉から送られていた。嘘でしょ、と思った。跳ね起きて爆速で身支度を整えると、朝食も取らずに学校へとはしって向かった。

「それ、マジな話?」

「うん、マジな話」

「……そっかー、マジかー」

 朝練が始まるまでまだ三十分もある。音楽室に他の部員の姿はまだない。

「こういうとき、どうするのが正解なの? 引き止めた方がいい、のかな」

「当然。これ以上フルートの人数が減るのは副部長的に看過できない。全力阻止。断固阻止。絶対阻止」

「そうなるよね、やっぱり」

「で、退部理由に心当たりは?」

「なくはない、というか。逆にあれ以外に思い至らない、というか」

 思い当たる節は一つしかない。唯との方向性の齟齬だろう。

 先輩が卒業してからというものの、私ではなく唯がパート練を仕切るようになっていた。それも当然だ。私よりも唯の方が技量は遥かに上なのだから。新体制になってから数日足らずで、パート練の実権は唯に譲渡する形となった。

 唯は来年こそは何が何でも全国に行く、と憚ることなく口にしている。実際、唯の気合の入りようは三年の引退前とは比べ物にならなかった。練習の厳しさも必然的に増していく。錦葉が辞めると言い出したのは、それが原因だろう。

「浜野って、気になるところがあると絶対演奏とめるし、しつこいくらい基礎練習させてくるから。多分そのせいかなって」

「方向性の違いっていうか、温度差ってやつ?」

「そんなとこ」

「なるほどね。でもま、課題がはっきりしてるなら対処もしやすいでしょ。頼んだよ、美空」

「え? 待って。これって、私がどうにかする問題なの?」

「まあ、そうなるね。パーリーは美空なんだし。助けてあげたいのは山々だけど、他のパートの面子の事情は私もよくわかってないしさ。美空が当たるのが適任だと思うよ」

「……無理だよ。私、こういう拗れた人間関係に首突っ込むのメチャクチャ苦手だし。絶対、和奈の方が上手く対処できるって」

「なことないって。いい? 今この部で錦葉ちゃんと浜野ちゃんのことを一番良く知ってるのは美空なんだよ。だから頑張って、パートリーダー。駄目だったら、そのときは仕方ないから」

 パートリーダー。その立場を持ち出されてはどうしようもない。私はわかった、と頷いた。

 暗澹とした気分で項垂れてると、和奈がぽん、頭の上に掌を置いてきた。意識が憂鬱な雲を突き抜けて、太陽に炙られてるみたいに熱を持つ。和奈は流れるように掌を動かすと、衒いのない笑みを浮かべながら、言った。

「大丈夫だよ。浜野ちゃんのときだって、なんだかんだ上手く励ましてたじゃん。もっと自信持てって、美空」

「……わかった。まあ、どうにか頑張ってみる」

 本当に動物みたいな単純さだなって、いい加減呆れた。

 和奈に励まされたことで少しだけやる気になっていた私だけれど、私は早速、頑丈過ぎる壁にぶち当たることになる。

 パート練が始まったところで、私はひとまず唯に事情を伝えた。問題の解決には唯の助力が不可欠だからだ。だが唯の口にした返答は、冷淡なんてレベルのものではなかった。

「へぇ。辞めるんだ、あいつ。いいじゃないですか、好きにさせてあげれば」

「……いいってことは、なくない? 錦葉だって、同じパートのメンバーなんだし」

「退部したんなら、もうメンバーじゃないでしょ。それより、さっさと練習始めましょうよ。いない人間のことでとやかく言っても時間の無駄じゃないですか」

「ちょっと浜野。その言い方は、流石にひどくない?」

 私だって、錦葉とはそこまで深い関わりがあったわけじゃない。でも、いてもいなくてもどうでもいいみたいな言動をされると、流石にいい気分にはならなかった。

 唯はわざとらしく溜め息を吐き出す。半腰になった私を、じろりと下から睨めつけてくる。

「私の目標は全国に行くことと良い演奏をすることであって、馴れ合いじゃないので。やる気がない人間を引き戻したところで、モチベーション下がるだけじゃないですか。無理やり続けさせたところで、互いに損するだけだと思いますけど」

「それはそう、かもだけど」

 唯の反論には一応の筋が通っていた。上手く言い返せなくって、押し黙ることしかできない。

「先輩は、嫌ですか?」

「嫌って、何が?」

「私と、二人きりになるのが」

「……そういう理由で、言ってるわけじゃ」

 ああクソ。私はやっぱり、こいつが嫌いだ。

 そんな訊き方をされて、嫌だと答えられる人間が、どこにいる。

「ならいいじゃないですか。無理に引き戻さなくても。錦葉って、神楽坂先輩目当てで入部したんですよね? 卒業と同時に退部するのは自然なことだと思いますけど」

「だからって、話も聞かずに放っておくのは違うと思う」

「だとしても、現時点でできることなんてなくないですか? 錦葉はここにいないんだから。今は粛々とやるべきことをやりましょうよ」

 私を促すように、唯がフルートを口元に持っていく。

 唯の発言は正論だった。今ここで騒ぎ立てても、どうにもならない。それは事実だ。

 でもこいつ、逆に正論しか語ってないな、と。微かなザラつきみたいな違和感を覚えた。

 帰りのホームルームが終わると、私は早速錦葉の教室の前に張り込んだ。程なくして錦場が教室から出てきた。私を認めた瞬間、物凄く不機嫌そうな顔をした。

「何か用ですか?」

「その、話的なものをしに来たというか、聞きに来た、んだけど……」

 昨年度までは私も頻繁に行き来した廊下。けど廊下脇のロッカーも闊歩する顔ぶれも覗き見した教室の様子も、何もかもが様変わりしていてノスタルジーは一切湧かない。私達の生活の残り香は、すぐに上書きされて消されてしまう。異国に放り込まれたような落ち着かない気持ちになって、声量も抑え気味になっていく。

「ご期待に添えなくて申し訳ないですが、私はもう吹部には戻りません。話すことなんて何もないです。それじゃ」

「ちょ、ちょっと待って……!」

 追い抜いていこうとする錦葉の行く手を、私は強引に遮った。反感の籠もった視線を向けられてたじろぐ。今の私は完全に、後輩に絡む厄介な上級生だ。他の一年からの目線が痛い。

 だけど、簡単に引き下がるわけにはいかない。和奈の期待を裏切るようなことはしたくない。

「ひとまず、理由だけでも話してみてくれない? だって、本当に急だったから。こっちも、色々と事情が知りたくて――」

「急? 本当に急だったって、思ってるんですか?」

 差すような視線に、呼吸を止める。心臓を鷲掴みにされるような錯覚をする。

「私、練習中に何度も言いましたよね。どうして浜野さんが仕切ってるんだ、パートリーダーは原田先輩なのに、って。でも先輩は黙ってあの子に従うだけで、何もしてくれなかった。それなのに今更わけを話してとか、ちょっと虫がよくありませんか?」

 私は言葉を失った。ごめん、と俯きがちにこぼすだけで、精一杯だった。

「とにかく、そういうことなので。今までありがとうございました」

 錦葉は硬い表情で会釈して、今度こそ私を抜き去った。

 自分の不甲斐なさを眼前に突きつけられて、目眩にも見た感覚に襲われた。錦葉の言う通り、本当はとっくのとうに気づいてた。このままじゃ錦葉は部活をやめるかも知れないって。錦葉は何度も何度も、間接的に私に思いを伝えてくれていた。だけど私は、それを黙殺した。気づかないフリをした。唯の言うことは正しいから、唯は私より上手いからって理屈で正当化して、錦葉と向き合おうとしなかった。要は、ツケが回ってきただけなんだ。

 和奈だったら、こんなことにはならなかった。和奈だったら。

 そこまで考えたところで、今朝方、投げかけられた言葉が脳内に蘇った。

 今、錦葉のことを一番よくわかってるのは、私だ。

 和奈が私だったなら、こんな事態には絶対にならなかった。でも、現実はそうじゃなくって。だからこそ、今この場で錦葉を引き止められるのは、私以外にいなくって。

「待って、錦葉」

 私は錦葉を追いかけた。遠ざかっていく背中に向けて、畳み掛けるように言葉を重ねる。

「ごめん。私、狡かった。パーリーとしての役目とか、何も果たそうとしてなかった。今更先輩面するのが烏滸がましいって、わかってる。でも、お願い。そんなに簡単に辞めないで」

「追い縋られても困ります。というか、退部するのは個人の自由ですよね。なんで先輩に口出しされなきゃならないんですか?」

「だって、その……」

 私は必死で思考を巡らす。何か、何かないか。錦葉の後ろ髪を引けるような、何かが。

「神楽坂先輩に、頼まれたから。フルートパートをよろしくって」

 錦葉の歩みが、ピタリと止まった。背中越しに、息を呑む音がしたのがわかった。

 ああ。私って、つくづく卑怯者だ。

 嘘を吐いているわけじゃない。神楽坂先輩に励ましの言葉をかけられたのは、事実だ。でも、この状況で先輩の名前を出すのは、ズル以外の何物でもない。悪いのは私なのに、他人を引き合いに出して繋ぎとめようだなんて。だけど、他にやりようがなかった。

 あくどい手段だとしても、何もせずに諦めるよりかはマシなはず。そう思いたい。

「……わかりました。歩きながらでもいいなら、理由くらいは話します」

 嘆息混じりに言いながら、錦葉は不服気な顔で振り返った。

 話を聞くと、錦葉は練習のやり方自体に不満を持っているわけではないことがわかった。

「浜野さんが頭一つ抜けてることも、主張してることが正しいのもわかります。私だってできることなら全国に行きたいし。私が受け入れられないのは、演奏の方向性なんです。私にとっての理想は、神楽坂先輩がしてたみたいな演奏です。私はあの音で全国の舞台に立ちたい。だけど、浜野さんの言いなりになってたら絶対無理だろうから」

 下駄箱で上履きを脱ぎながら淡々と語る錦葉。

「……そういうことだったんだ。ありがとう、話してくれて」

「これで満足ですか? じゃあ私、帰るので。練習頑張ってください」

「最後に一ついい? もし方向性を変えるって言ったら、錦葉は戻ってくる? 昔みたいに、先輩の演奏に近い音を目指してやることになったら」

 靴を履き終えた錦場が、そのままの姿勢で固まる。

「一考くらいは、してもいいです。先輩が泣くところ、見てますから」

 その質問に答えたきり、錦場は下駄箱を出た。

 ひとまず解決の糸口は見えた。錦葉が退部宣言をした理由は温度差ではなく、方向性の違いだったのだ。唯が全国出場を志すのと同じくらいの情熱を、錦葉は神楽坂先輩の音楽に持っている。全国出場という共通項がある以上、すれ違いの解消は可能だろう。一時はどうなることかと思ったけれど、これならなんとかなりそうだ。私は救われたような心地で唯の待つ教室に行き、この旨を伝えた。

 けれど、唯の冷然とした態度は依然として変わらなかった。

「なんで私が錦葉に合わせないといけないんですか? 技量が劣ってるせいで私の音についてこられないことの、言い訳にしか聞こえない」

「そんなこと、ないと思うよ。錦葉の先輩の音楽に対する思いは本物だよ。話をしてればわかるから」

「思い? 単に、可愛がられて絆されてただけじゃなくて?」

 唯は足組みして窓の外に顔を向けながら、乱暴に言い放った。

 なんだ、その言い方。技術が劣ってる。それは事実だ。でも、あの子の心を推し量る権利までは、あんたにはないでしょ?

 こみ上げてくる怒りを押さえつけつつ、私は沈着に唯への反駁を試みた。

「でも、これっていい機会なんじゃないかな。浜野の音と周りの音を合わせる。前々から感じてたんだけど、浜野ってたまに目立ち過ぎてると思う。ソロについては、好きに吹いてくれればいい。その方が浜野の強みが生きるから。でも、それ以外はもう少し抑えた方がいいんじゃない? 演奏の途中で、自分の音にのめり込みすぎるときがあるから」

 唯がこちらを見た。言葉に詰まっているのを見るに、心当たりはあったらしい。

 だけど、唯が自身の欠点を素直に認めることはなかった。

「……それは、他の人達の表現力が足りないせいで――」

「あんた、まだそういうこと言うわけ?」

 小刻みに声が震えた。恐怖でじゃない。憤りでだ。

 いつの間にか、私の胸中は怒りやら失望やらが一体となった巨大な感情で満たされていた。支部大会での失態以降、唯の振る舞いは変わったと思っていた。向上心は相変わらず高いし、昂然としてもいる。でも、それが他人への蔑みに繋がることはなくなった。気持ちのいい高潔さみたいなものを感じられるようになった。けど今のは違う。ただ他人を見下すだけの、かつての唯と同質の言動だ。

「私達全員、浜野のレベルに追いついてない。それは事実だと思う。でも今話してるのは、そことは違う部分だってわかるでしょ? 今のはただ、自分の有利なフィールドに論点ずらしただけだよね? 浜野、もしかして錦葉のこと嫌いなわけ? それで追い出そうとしてるの?」

「え? ……ち、違います! そうじゃなくて、私は、ただ」

「ただ、何?」

 唯が唇を閉ざした。歯噛しながら顔を伏せ、負け惜しみみたいな調子で続ける。

「先輩こそ、どうしてそこまでして錦葉を引き止めるんですか? 私には、それがわからない」

「どうしてって……。だって、私はパートリーダーだし。逆に浜野はなんで平然としてるわけ? 錦場がやめたら全国なんて夢のまた夢だよ。技量の問題じゃない。人数の問題。フルートがたった二人じゃ全国なんか行けるわけない。そのくらい浜野だってわかってるよね?」

 突きつけられた至極単純な現実に、あ、と唯が呆けた声を漏らした。

「そ、っか。そう、ですよね。……おかしいな。なんで私、そんな簡単なこと――」

 不自然なタイミングで言葉が切れた。目を見開いて、愕然とした顔つきで凝視してくる唯。墨汁のような黒い瞳は、小刻みに震えていた。

 なんだ、この反応。不審に思ったけど、声を発することはできなかった。喉の奥が凍りついたみたいに動かなかった。既に胸の中の怒りは失せていた。代わりに沸き起こったのは困惑だった。この空気。この眼差し。既視感がある。この顔の、この呼吸の意味を、私は多分知っている。でも、どこで? そんな記憶、どこを探しても見当たらない。

 結局、私が既視感の正体に感づくより先に唯が沈黙を破壊した。勢いよく顔を伏せて、表情を前髪で覆い隠した。

「先輩の言うとおりですね。すみません。私が間違ってました。そういうことなら一度、錦葉を練習に引っ張り出してきて下さい。イメージのすり合わせ、しなきゃいけませんから」

「え? あ、うん。わかった。じゃあ、そういうことで。……あの。今更だけど、ごめんね。さっき、変に熱くなっちゃって」

「いえ。私の方こそすみません。色々と、混乱してました」

 その日は結局、一度も楽器を鳴らすことはなくパート練が終了した。唯は悩ましげな表情で延々と顔を俯けるだけで、私と顔を合わそうとは絶対にしなかった。

 それにしても、日頃から言いたいことを飲み込んでばかりの私が、何故ここまで強気な口ぶりができたのか。今となっても、明確な理由はわからないままだった。ただ一つ言えるのは、唯があんな口ぶりをしてきたのが心の底から許せなかった、ということ。

 もしかしたら、このときの私は信じたかったのかもしれない。自分の中にある唯の姿を。唯は自分にも他人にも厳しくて、ストイックで、ひたむきで、純粋で、真面目で、真っ直ぐで、だからこそ他人と衝突してばかりいて、だからといって人を傷つけたり傷つけられたりすることに無頓着というわけではなくて、心の深い部分には傷だらけのガラス細工みたいな繊細さを持ち合わせていて。私にとっての唯は、そういう人間。だから、それを裏切るような言動は受け入れたくなかった。そういう心理だったのかも知れない。勿論、あまりに横柄な物言いにブチギレただけって可能性も十分ある。真実は藪の中だ。

 翌日の朝練から、錦葉は練習に復帰した。最初こそやりづらそうな顔でいたけれど、唯が相変わらずの図太さを発揮して淡々と練習を進行させるものだから、次第に緊張もほぐれてきたようだった。そしてついに、問題のイメージのすり合わせが始まる。

「それで、具体的にはどういう演奏が好みなわけ? 気に入ってる音源とかあれば聞かせて欲しいんだけど」

「これ! 私が見に行った、去年の習女の定期演奏会!」

 唯に訊ねられるや否や、錦葉が興奮しながらスマホを突きつけてくる。確かにそれは、昨年の演奏会の動画だった。常に神楽坂先輩にズームされているという点を除けば、至って普通の。

「……この動画、どこで手に入れたの?」

「ファンクラブ経由で」

「ファンクラブ」

 深くは追求しないことにして演奏に聞き入った。

 錦葉の持ち込んだ音源は神楽坂先輩のものだけでなく、強豪時代の習女の演奏会や全国大会の音源も含まれていた。結構な量があったため、その日は通しで聞くだけで練習時間が終わってしまった。翌日からはそのときのイメージを下地に楽曲を合わせてみたり、改めて音源を聞いてみたりして、互いの脳内に存在する理想の音楽のすり合わせに励んだ。当然、一日や二日で終わるようなことはなく、その作業は数週間にも及んだ。錦葉の退部の話は、いつの間にかなかったことになっていた。

 唯は卓越した才能を持っている。でもその一方で、多人数で一つの曲を作り上げることには不慣れだった。作業は想像以上に難航した。

 予想外だったのは、唯が錦葉だけでなく私にも頻繁に意見を訊ねてきたことだった。唯曰く、

「先輩は演奏は下手だけど、耳は地味にいいんですよね。良くも悪くも他人に合わせてばかりいたおかげだと思いますけど」

 とのこと。最初は半信半疑だったけど、あの唯がお世辞を口にするとも思えない。それに、所感を何度も訊かれたのは事実だ。嘘というわけでもないのだろう。

 正直、嬉しかった。私なんて歳が上ってだけで、技術もリーダーシップも何もかも唯に及ばない駄目人間だと感じていたから。自分にもできることがあるんだと素直に感じたれたのは、ひどく久しぶりだった。

 その作業が一段落してからも、唯が練習中に私や錦葉に意見を求めることはやめなかった。そのおかげでパート内の音の調和の仕方は明らかに良くなった。それだけじゃない。三人の距離感も今までとは比べ物にならないくらい近くなった。退部騒動があっただなんて信じられないくらいには、私達の仲は良くなっていた。

 調子が上がっていったのは、フルートパートに限った話ではなかった。どのパートも日を追う毎に状態が良くなっていき、冬の定期演奏会の頃にはここ数年で一番と言っても過言ではない仕上がりに達していた。

 その帰り、錦葉の提案でパートでの打ち上げというものを初めてやった。ファミレスで夕食を共にするだけの小規模なものだけど、春先の雰囲気からは考えられない行動だった。二時間ほどダラダラとおしゃべりを続けた辺りで話のネタも尽きてきて、解散する流れになった。

「なんかすみません、私が無理やり突き合わせたみたいになっちゃって……」

 夜の帳が下りた駅前の繁華街を三人で歩く。シンとした夜気は冷たくて、声を発する度に雪煙みたいな息がこぼれた。

「こういう高校生っぽいこと、ずっとやってみたかったから。先輩は打ち上げとか初めてですか?」

「いや。クラスの文化祭の打ち上げとか、出たことあるけど」

「え、嘘。意外」

「……それ、どういう意味?」

 和奈に誘われて出席しただけなので、あながち間違っちゃいないけど。

「いえいえ、なんでもないですよ、なんでも。あ、じゃあ私、こっちなので」

 私と唯はJRだけど、錦葉は私鉄だから一足先にお別れとなる。じゃあね、と錦葉に合わせて軽く手を振る。マフラーに顔をうずめた唯も、じゃあまた、と言って小さく手を振る。錦葉はそれに答えるように、ぶんぶんと大仰に手を振ってから立ち去った。

「錦葉、目立ちすぎたって。恥ずかしい」

「それ。メッチャ見られてたよね」

 軽く笑い合ってから、どちらからともなく冬の夜道を歩き出す。

「今日の演奏、結構出来良かったよね。お客さんからの評判も上々みたいだし」

「そうですね。ひとまず及第点ってとこでしょうか」

「あれで及第点? 相変わらず手厳しいなぁ」

「当然です。私達が目指してるのは全国なんだから。あのくらいで満足してちゃ、次も支部大会止まりで終わります」

「本当、熱心だね。でもさ、唯っていつから全国目指すようになったの? 入ってきた直後は、自分が満足行く演奏をできればいいってスタンスだったと思うんだけど」

「それは――」

 唯が矢庭に俯いた。黒い艶のある長髪がベールとなって、唯の表情を覆い隠す。唯からの返事は中々返ってこなかった。どうしたのかな、と怪訝に思い始めたそのとき、コートのポケットの中のスマホがぶる、と震えた。確認すると、和奈からのラインだった。クラリネットも今打ち上げが終わったところらしくって、この後一緒に演奏会の録画を見返さないか、とのお誘いだった。

 頬が僅かに熱を帯びだす。肉体が軽くなった錯覚をする。行く、と素早く入力しようとして、指が止まった。視線が隣へと流れる。別に約束したわけじゃないけど、私と唯はこのまま同じ電車で帰る流れだ。ここでいきなり離脱するのは、気まずいと言えば気まずかった。じゃあ、唯も一緒に来てもらう?

 考えた瞬間、心臓がキュッと縮みこんだ。嫌だな、という気持ちがじわじわとせり上がる。

 当たり前だけど、唯のことが嫌いってわけじゃない。出会ったばかりの頃はともかく、今となっては唯はかけがえのない後輩であり、友人であり、仲間でもある。だけど、和奈と二人きりになる筈だったところに唯を連れ込むのだと思うと、少なくない抵抗感を覚えてしまうのは確かだった。

 以前からは想像もつかないほど、私と唯と錦葉は仲良くなった。それに伴って理解したのは、私にとって和奈がどれだけ特別な存在なのか、ということだった。かつての私には和奈に頼り切りになっているというか、率直に言ってしまえば依存しているような部分があった。傍から見ればその感情は恋心なんかじゃなくて、雛鳥が生まれて初めて目にした相手を親と認識するように、自分に優しくしてくれる和奈の後をよちよちとついていっているだけに見えたかも知れない。実際、そういう部分もあるにはあった。

 だけど今の私には、和奈以外にも友達がいる。なんてことのない話をできる相手が、笑いあえる相手が、困ったときに頼れる誰かがいる。だからもう、和奈を特別視する必要なんてどこにもない。にも拘らず、私の心は相変わらず和奈の存在を求めてる。感情の源泉から目を逸らすことができないくらい克明に、私は和奈が好きなんだって自覚するようになっていた。

 けど、変わったのは私だけというわけじゃない。和奈の私への接し方も、以前とはまた違ったものになっていた。

 部全体の問題の対処に当たる部長に対し、副部長である和奈は部員の抱える個人レベルの問題のケアに尽力している。当然、頭を悩ませるトラブルに直面することも多い。そんなとき、和奈は私の意見を求めてきたり、愚痴をこぼしたりするようになった。以前は相談事を持ちかけるのはいつも私で、和奈が私に悩みを打ち明けてくることはなかった。そのことに気づいていなかったかつての自分の幼稚さに忸怩たる思いになるけど、少なくとも今は、私は和奈と対等な存在になれている。その事実が、今の私には何よりも、嬉しい。

 とはいえ、パーリーになってからの期間が良いことづくしだったかと言われれば、そうではない。最たる例が、秋に行った修学旅行での一件だ。私は和奈に、「美空って好きな人いるの?」と何気なく問いかけられた。一瞬にして心の温度が氷点下まで下降した。和奈の言う「好きな人」に和奈自身が入っていないのは明らかだから。いや、そもそも同性という選択肢すら含まれていないのだろう。

 理解していたつもりだった。和奈は、女なんて好きにならない。好きになるって考えたことすらない。だからこの恋が報われるはずはない。それでいいと思っていた。

 だけど、蓋を開けてみればこのざまだ。悟ってるのは口先だけで、本当はみっともないくらい未練たらたら。自分は端からスタートラインにすら立ててないんだって現実を突きつけられて、まあそうだよねって自嘲する一方で、心のどこかで血を流しながら喚いている自分がいた。そんな自分がひたすら惨めで馬鹿らしくて笑いそうにもなって、だけど何より、辛かった。

 好き。好きなんだよ、私。和奈のことが好き。他の誰よりも好き。単に優しくしてくれるからじゃない。和奈の笑顔が好き。面倒見がいいとこが好き。皆から頼りにされてるのが好き。頭を撫でてくれるのが好き。たまに頼ってくれるのが好き。楽譜を眺めるときの真剣な眼差しが好き。授業中、ペン回しをしてよく失敗してるのが好き。意外とジャンキーな食べ物が好みなのが好き。それを少しだけ気にしてるところが好き。好き。好き好き好き。和奈の全部が好き。和奈の何もかもが、どうしようもないくらいに、好き。

 だけど。この好きという感情は、どこまでいっても私の独り相撲でしかなくて。

 私は確かに、成長した。でもそれで得たものは、どうしようもない現実と、身を裂かれるような痛みだけ。

「先輩? どうかしましたか?」

「え? あ、いやその……なんか和奈が、これから二人で今日の録画見ないかって言ってきて」

「ふぅん。行くんですか?」

「……どう、しようかなって」

 今度は私が項垂れる番だった。そんな私の横顔を唯は無言で、けど視線を逸らすことなく、じっと見つめてくる。

 断ろうかな、という考えが頭をもたげる。この雰囲気で、ごめんバイバイとは切り出しにくいし。いや、そんなのは体のいい言い訳か。私は単に、怖がっているだけだ。

 和奈と一緒にいるのは楽しいし、嬉しいし、満たされる。同じ空間で同じ時間を共有しているっていうだけで、遊園地に来た子供みたいに胸が弾んで、陽だまりにいるみたいな幸せを感じる。でもそんな穏やかな幸福のひとときが、突如として肌を刺すような耐え難い極寒に相転移することがある。その苦しみを何度も何度も味わわされて、それでもいいっていかなる時でも言えるほど、私は強い人間じゃない。

 やっぱり、辞めとこうかな。そう言おうと唇を動かした、その直後。

「行ってきたらどうですか? 先輩、下手くそだったところチラホラありましたから。記憶が新しいうちに復習した方がいいですよ」

 遮られる形になって、若干の戸惑いを覚える。でも図ったってことはない。唯の顔はもう正面を向いている。タイミングを合わせるのは不可能だから。

「そう、かな。……でも」

「言っておきますけど、私のことは気にしないで下さいね。電車くらい一人で乗れます。常に誰かと群れてなきゃ気が済まないってタイプじゃないし」

 振り返って、先輩と一緒ですね、と付け足す唯。口元には悪戯な微笑。私もつられて苦笑した。

「わかった。じゃ、そうしてみる」

 ここまで言われて断るほど、強い忌避感を覚えていたわけじゃない。私は一旦足を止めて、行く、と返信を打ち込んで送信する。

「いやー、今夜は一段と冷えるねぇ」

 聞き覚えのある声。誰かが、背後から抱きつくようにしながら掌を覆ってきた。氷に触れたみたいに冷たくって、ヒッ、と間抜けな声が出た。

「あ、返事今見た。結局来てくれるんだね。よかった」

 肩越しに私のスマホを覗き込んだ美空が平然と会話を続ける。身体がじわじわと熱を帯びだすのを感じつつ、急に何するの、と抗議する。

「だって美空の体温、高いんだもん。人間カイロだよ人間カイロ」

「人間カイロってなにそれ」

 対して面白くもないジョークなのに、つい笑う。そんな自分に改めて呆れる。本当、私ってやっばり愚か者だ。和奈を好きでいても辛いだけだって、わかってるはずなのに。ひとたび顔を合わせただけで、胸の中の憂鬱が何もかも吹き飛んでしまうだなんて。

「あ、浜野ちゃんもいる。お疲れー」

「お疲れ様です」

「私たち、これから演奏会の録画見ようと思ってるんだけど、浜野ちゃんもどう?」

「いえ、遠慮しておきます。あんまり遅くなると、お母さんがうるさいから」

「そっか。じゃあ仕方ないね。また月曜日、学校で」

「はい。それではまた」

 唯が小さく会釈をして、踵を返す。私が遅れてまたねと言うと、唯は振り返って微笑した。でもすぐに前に向き直って、煌々と明かりの灯る駅前に向かって歩みを進めていく。

 背中でゆらゆら揺れるピンク色のフルートケースを、しばらくの間、じっと見つめている私がいた。

「なにぼーっとしてるの? 早く行こうよ。外、メチャクチャ寒いしさ」

「あ、うん、ごめん」

 和奈の声で我に返る。私達は踵を返して、唯の向かったのとは反対の方向へと歩いていった。

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