夏の終わりは唯の強がり

 夏のコンクールの支部大会は、夏休みの終わりと共にやってくる。これまでは部室で留守番だった落選組も、支部大会まで行くと会場に応援に行くことが可能となる。ただしバスは別々で、会場についてからも顔を合わせられる場面は殆どない。和奈とは朝に校門前で軽く言葉を交わしたきり、大会が終わるまで面と向かう機会はなかった。

 代わりと言っては何だけど、会場に到着して客席に向かう直前に、神楽坂先輩に声をかけられた。見ると、バスから少し離れた木陰にフルートパートの面々が集まっていた。

「円陣、というものを組んでみようと思うのだけど。どうせなら、皆でやるのがいいと思って」

「え、円陣ですか?」

 正直、面食らった。神楽坂先輩が円陣を組もうなんて言い出すのは初めてだったし、そんな雰囲気でもないように思えたから。取り巻き二人は内心の不満が顔に滲み出ていたし、唯も憮然と腕組みをしていたし、錦葉もどこか気まずそうだった。

 呆気に取られる私を神楽坂先輩が無理やり引きずる。そうして私は、入部以来初めての円陣を組むこととなる。右隣が神楽坂先輩で、左が唯だった。

 で、組んだはいいのだけれど、何故かそこから先に進まない。炎天下。熱い。汗が垂れる。

「……ご、ごめんなさい。この次って、どうしたらいいかわからないのだけど」

 先輩が気恥ずかしそうにボソリとこぼした。

 いや考えなしかよ。気付けば私は吹き出していた。私だけじゃない。錦葉も、取り巻き二人も、たまらず笑い始めていた。神楽坂先輩もクスクス笑って、結局、グダグダなことこの上ない掛け声とともに円陣が終わった。

 それは、フルートパートに初めて心地よい空気が流れた瞬間だった。私はこのときになってようやく、本当に全国に行けるんじゃないかって気持ちになった。唯のソロだってあるし、他の部員の実力だって劣っているわけじゃない。順当に行けば、或いは。

 先輩たちもそれは同じなのか、リラックスした表情で他のメンバーの方へと流れていった。

 そんな中、唯だけが一人、立ち止まったままでいた。戸惑うような、迷子になった子供みたいな途方に暮れた表情で佇んでいた。

「……なんで急に、こんなこと」

「浜野?」

 私が声をかけるや否や、いえ、とだけ呟いて、唯は足早に先輩達の後を追っていった。

 若干不自然に思わなくもなかったけれど、唯のことだ。曲が始まったらこれまで同様、息を呑むような演奏を披露してくれるはずだろう。私は無邪気に、無責任に楽観視して、思考を止めた。

 だけど私は、いや、私達は失念していた。

 浜野唯は天才である前に、十五歳の少女でしかないのだという現実を。

 結果から言う。唯の演奏は散々だった。

 いや、散々は言い過ぎか。一般的な基準と照らし合わせれば、上出来と言えるレベルの演奏ではある。けどそこに、これまでの唯が持ち合わせていた力強さや威風堂々さは、完全に消え失せていた。今回の唯の演奏はどこまでも凡庸としか言いようがなかった。唖然とさせられたのは演奏中の部員たちも同様で、唯のソロ以降、鳴らされる音は背骨が丸ごと抜け落ちたみたいな情けない音色でしかなくなっていた。

 戦績は銅賞に終わった。去年は銀賞だったから、一歩後退した結果となった。

 演奏を終えた後の部員間の雰囲気は、劣悪なんて言葉で形容できるものじゃなかった。唯に対する感情はそれぞれだったとは言え、その実力は誰もが認めるところだった。でもそれは裏を返せば、唯は実力一本で部内の立場を保っていたということでもある。それが失われた今、底抜けの冷たさを湛えた視線を向けられるのは必定だった。

 完全なお通夜モードの中、私達は撤収の準備を始める。目に痛い晩夏の斜陽を浴びながら、黙々と楽器をバスの中に積み込んでいく。

「あの、先輩」

 作業をする部員たちが、一斉に動作を停止した。唯が神楽坂先輩に声をかけたからだ。直視する者も、目を逸らす者もいない。誰もが皆、窺うような仕草で二人の成り行きを観察しだす。

「すみませんでした」

 唯が深々と頭を下げた。心からの言葉だということはすぐにわかった。

 先輩は一瞬固まった後、いいのよ、と穏やかな声で返すと、唯に顔を挙げさせた。

 先輩は微笑していた。いつものように。柔らかく。上品に。華のように。

「謝る必要なんてないわよ。浜野さんはよくやってくれたわ。今年は残念な結果になったけど、貴方には来年があるもの。私達のぶんも、頑張、って――」

 唐突に、先輩の言葉が途切れた。その続きは言葉ではなく、嗚咽だった。

「……悔しい。悔しいなぁ、本当に」

 神楽坂先輩が泣き出した。普段の優雅さからは想像もつかないくらい、顔をクシャクシャに歪めながら。無様にしゃくり上げながら。必死でせき止めていた感情を抑えきれなくなったみたいだった。取り巻き二人がすかさず先輩を慰める。その二人も泣いていた。他のメンバーも、つられて涙ぐむ人が続出する。

 なんとも悲壮感あふれる光景だった。傍から見れば感傷的な青春の一場面として見えただろう。だけどこの空気は、唯からしてみれば毒物以外の何物でもない。ごめんなさいと早口に言い捨てると、唯はその場から立ち去った。追おうとする者は誰一人としていなかった。揺らめく夕陽に融解しそうなその背中は、あまりにも痛ましく、小さかった。

 私は無意識に唯の後を追っていた。なんで、と遅れて疑問に思う。いや、何ら不思議なことじゃない。私と唯は同じパートで、私は唯の先輩だ。慰めるのは当然だ。

 一瞬見失いはしたけど、唯はすぐに見つかった。会場裏にある薄汚れた自販機の横に蹲るようにして座り込んで、泣いていた。

 日頃の勝ち気な態度からは想像もつかない弱々しさに、私は胸を締め付けられて――

 あ、違う。そうじゃない。

 本心に気づいた瞬間、強烈な悔悟の念に襲われた。屑だ。私は度し難いほどの屑野郎だ。死んでしまいたいとさえ思った。

 だって私、喜んでる。こうして打ちのめされた唯を見て、ざまぁみろって心のどこかでほくそ笑んでる。私はこいつを慰めに来たんじゃない。馬鹿にしに来たんだ。和奈との時間を奪ったこいつが、人の精一杯の善意を撥ねつけてきたこいつが、ずっと前から気に食わなかったから。

 私は即座に踵を返した。その直後、「いいですよ、逃げないで」と引き止められた。

 その行動に憤る。なんでこんなときだけ。唇を噛みながら、私は唯の側に寄る。偉そうに仁王立ちする気にはなれなかったから、隣に腰を下ろした。人一人分のスペースは確保した上で。

「馬鹿にしに来たんでしょ、先輩」

 違うよ。いつもなら即座に否定していたところだろう。でも、今回ばかりはできなかった。

 私が押し黙ったままでいると、唯は自嘲するみたいに乾いた笑いをこぼした。

「ま、そうなりますよね。隠さなくていいですよ。今更、そのくらいで傷つかないので」

「……うん。ごめん浜野。私、あんたのこと蔑みたくてここに来たみたい。本当、ごめん」

「謝らなくていいです。私も人のこと言えませんから」

「……浜野だけの責任じゃないと思うよ。頼り切りになってた時点で、最初から駄目だったんだよ」

 懺悔するみたいに慰めの言葉を口ずさむ自分に、嫌になる。けれど唯は否定するでも流すでもなく、そういう意味じゃないです、と別の方向から否定してきた。

「言いたかったのは、私も先輩と同じで酷い奴だってことだから」

「それは……まあ、否定はしない。本当馬鹿だよね。上手いこと猫被ってれば、ここまで責められることもなかったのに。なんで、敢えて敵作るようなことしたの?」

「だって私、メンタル弱いので」

 文脈がよく理解できなかった。どういうこと、と訊き返す。

「私は自分の力を信じきれていなかった。だから殊更に他の人を見下して、自分が一番上手いんだって信じ込まなきゃならなかったんです。言い訳みたいに聞こえるかも知れませんけど、私、驕ってなんかいませんでした。むしろ逆です。本当は凄く、不安だった。皆の前でソロを吹くのが、怖かった。気がついたの、演奏が終わった後だったけど」

 馬鹿ですよね、と痛々しく苦笑してみせる唯。意外と言えば意外だった。唯が、こんなに弱々しい側面を隠し持っていたのは。でも心のどこかですんなり受け入れている自分もいた。

「もしかして、オーディションのときも緊張してた? 神楽坂先輩の演奏聞いて」

「はい、してました。その後の先輩の演奏がお粗末だったから立ち直れましたけど」

 それを聞いて、思った。もし私が、先輩や唯に匹敵するレベルの演奏がオーディションでできていたら。唯があの時点で、自身の弱さを露呈させていたらどうなっていたら。少なくとも、ここまでの深手を負うことはなかったはずだ。仮定の話に意味なんてないけれど。

「あの。一つ、前々から先輩に訊きたいことがあったんですけど、いいですか?」

「訊きたいこと? 何?」

「先輩ってぶっちゃけ、私のこと嫌いですよね。どうしてですか?」

「……そういう答えにくい質問を、直球でぶつけてくるとこ」

「それだけじゃないですよね。だって先輩、私にCメン取られたこと、根に持ってません?」

 呼吸を止めた。人の内側にズカズカと踏み込みやがって。本当に、気に食わない。

「先輩ってそれほどフルート好きってわけでも、部活に熱を入れてるわけでもないじゃないですか。そのくせして、やけに悔しそうにしてる節があるから。なんでかなって」

「それは――」

 和奈がいるから。和奈と一緒に、いたいから。

 でもそんな本音、口にできるわけはなくって。

 じじじ、と蝉が喧しく鳴いている。唯は引き下がってくれない。頑なに向けられた眼差しを頬で感じる。どう誤魔化したものかな、と私は頭を悩ませる。

「あ、やっと見つけた」

 聞き慣れた声。顔を上げると和奈がいた。動揺を見透かされないよう注意しながら、どうしたの、と訊ねる。

「そろそろ撤収するから戻ってこいって、先生が」

「あ、もうそんな時間なんだ。ごめん。今行くから」

 慌てて立ち上がりかけた私を、和奈が右手で制した。

「あー、でも、もうちょっと時間かかるとも言ってたかな。あと五分十分くらいなら、ぼさっとしてても大丈夫? だったり?」

 メチャクチャ下手な演技だった。私が軽く呆れていると、和奈は照れ隠しするみたいに苦笑して、急に耳元に口を近づけてきた。

「珍しく頑張ってるじゃん。偉い偉い」

 不意打ちの耳打ちだった。吐息のむず痒い感触に高鳴る心臓を押さえる。同時に、なんか変態っぽいぞ、と身悶えしそうになる。私の内心の葛藤なぞいざ知らず、じゃあね、と踵を返して立ち去る和奈。その背中を私は少々恨めしげな視線で見やった。

「……そっか。同じなんだ、先輩も」

 隣で、唯がぼそりと呟いた。何がと訊き返すと、唯は大儀そうに腰を上げて。

「別に。先輩も私も大概だなって、思っただけです」

 どちらも相応のクズっぷりだってことか。ま、実際そうなのだろう。

 ――なんて、額面通りの受け取り方をしてしまったこのときの自分を、今となってはぶん殴りたい。でもそんなことは不可能だし、そもそも唯にだって責任はある。唯が本当の気持ちを打ち明けてくれたのなんて、これが最初で最後なのだし。

「一応、感謝はしておきますね。先輩なんかに見下されるのメチャクチャ不本意なんで、ひとまず闘志は湧いてきました」

「……それはどうも」

 唯が一歩前に出る。たちまち燃えるような赤橙色が彼女の全身を染め上げて。

 そしてこいつは偉そうな、それでいて屈託のない笑顔を浮かべて、言うのだ。

「だから、来年は絶対行きましょう。私達で、全国に」

 その言葉を最後に、私の高校二年の夏は幕を下ろしたのだった。

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