始まりは電撃的で、その先は泥濘のように。

 うちの部のオーディションは、パート別に実施されるシステムになっている。大所帯の場合は二つに分ける場合もあるけど、基本的には全員が音楽室に呼び出されて演奏をさせられる。

 フルートパートは六人しかいないので、全員が部屋の中に呼び出された。まずは神楽坂先輩の取り巻き二人が演奏をした。及第点は充分超えた、まずまずの出来栄えだった。

 その次の神楽坂先輩の演奏で、私達は度肝を抜かれた。

 先輩が吹くのをやめてから、座ってと先生から声がかかるまでにしばらくの間があった。そのくらい、先輩の演奏は衝撃だった。悪い意味ではない。良い意味でだ。

 先輩の演奏は以前とは比べ物にならないくらい完成度が増していた。あの日の唯の演奏にも匹敵しうるほどだった。どちらを優れていると取るかは聞き手の感性次第だろう。いや、吹奏楽が大人数で演奏されるものだということを加味すれば、先輩に軍配が上がるかも知れない。唯は確かにずば抜けて上手いけど、周りの実力が追いつけていないせいで浮いてしまっている感がある。

 部活の時間、先輩はほぼ錦葉の指導につきっきりだった。それなのにこの上達速度とは。きっと私達の知らないところで自主練を繰り返していたのだろう。見た目はお嬢様ではあるけれど、意外と堅実な努力家なのだ、先輩は。

 満足げな顔つきの先輩が、意味ありげな一瞥を唯へと向けた。でも、唯がこれといった反応を見せることはなかった。身じろぎ一つせず、挑発なぞどこ吹く風と言わんばかりに超然と正面を凝視するのみ。相変わらずの動じなさだった。

 私の番は次だった。出来栄えはノーコメント。私の後は唯だった。先程までは座禅する修行僧のような厳然とした面構えだったのだけど、今は程よく力の抜けた面構えになっていた。

 案の定、唯のフルートは申し分ない出来栄えだった。単純な実力だけに目をやれば、唯がトップであることに疑う余地はなかった。来年以降のソロは唯で決まりだろう。

 全パートのオーディションが終了し、音楽室に部員全員が集められた。早速、Cメンの発表が始まる。フルートのCメンは予想通り、三年三人プラス唯だった。一年が二年に変わって合格するのは珍しいけど、前代未聞と言うほどじゃない。唯の実力は誰もが知るところではあったし、私には先輩のように取り巻きもいないしで、異論を唱える部員はいなかった。

 問題が発生したのは、その後のことだった。

「フルートソロは、浜野にまかせてみようと思うんだ」

 Cメン選出に続けて発表された、各パートのソロ担当。唯の名が口に出された瞬間、部屋全体に動揺が広がった。誰もが衝撃を受けていたけれど、最も愕然としていたのは神楽坂先輩本人だった。その証拠に、先輩は珍しく取り乱した様子で待ったをかけた。

「ですが、浜野さんはまだ一年ですよ? 大勢で演奏をした経験もないのにソロを担当させるのは、流石に冒険が過ぎるのではないでしょうか」

「というのがパートリーダーの意見らしいけど、浜野さんはどう思う?」

「私がやるべきだと思います。一番上手いのは私ですから。本気で全国狙ってるなら、経験とか年数に縛られるべきじゃないかと」

「相変わらず凄い自信だね。僕は、浜野のそういうところがいいと思ってる。演奏にも態度にも、うちの部にこれまでなかった力強さがある。ソロパートでは是非、会場全体の空気を一気に掌握して欲しいんだ。頼んだよ。それじゃ次は、オーボエのソロだけど――」

 淡々とした先生の声だけが、手狭な音楽室の中で何度も反響を繰り返した。

 次の日からのパート練は気まずいなんてものじゃなかった。先輩本人が嫌味ったらしい振る舞いをすることはなかったけれど、残りの二人は別だった。取り巻き二人の手によって、今までは表面化していなかった軋轢が明瞭に表出するようになった。唯をあからさまにいないものとして扱ったり、挨拶を敢えて無視したりと、稚拙な嫌がらせをすることがしばしばだった。それを蔑むようなツンとした唯の態度も、二人の憎悪を益々根強いものにした。

 でも、ソロの選出に不満を覚えているのは、先輩たちだけというわけではなくて。

「なんで浜野さんがソロなんだろう。私、やっぱり納得できないな」

 Cメンが課題曲を合わせている中、私と並んで教壇に腰掛けていた錦場が小声でこぼした。

「確かに上手なのはわかります。でも浜野さんの音って、なんだか荒々しすぎませんか。うちの部が目指してるのって、もっと上品で落ち着いたサウンドなんじゃ」

「伝統的にはそうなんだけど、先生が、そういう固定観念からの脱却を図りたいみたいだから」

「それ、おかしいと思います。一方的な価値観の押し付けじゃないですか」

 本人の面前ではないといはいえ、顧問への不服を憚ること無く口にする錦葉。顔立ちはおっとり系だけど、意外と気が強いところがあるのが錦葉の特徴だった。

「私は、習女のそういう演奏が好きで入部したんです。だけど浜野さんは、この部に対する愛着とか思い入れとか何もないですよね。そんな人がソロをやるなんて、私は嫌です」

「でも、部に対する思いだって、練習していくうちに変わっていくだろうし。先生は来年以降も見据えた上で、浜野に任せたんじゃないかな」

「来年って、先輩には今年しかないんです? このコンクールが高校最後の大舞台だったんです。私はやっぱり、先輩のソロで全国に行って欲しかった」

「……だけど、選ばれたのは浜野なんだから。同じパートの仲間なんだし、応援しようよ」

 あーもう面倒臭い! 叫びたくなる衝動をどうにか抑え、当たり障りのない返答を口ずさむ。

 練習の合間に錦葉から不満をこぼされるのは、これが初めてというわけじゃない。神楽坂先輩への憧れがあったぶん、浜野に対する反感は大きいらしい。その度に私は、角が立たないようにと気を使いながら錦葉を宥めた。それだけに飽き足らず、唯に対してもおはようとか、お疲れとか、気は進まなかったけど声をかけてみたりもした。

 言うまでもないことだけど、この手のアクションを私が能動的に起こすのは珍しい。柄にもなく気遣いのようなことをしたのは、私はこれから一年以上、この二人と部活を続けなければならないからだ。今後もこの空気で活動を続けるのは流石に辛いし、唯に同情する気持ちもないわけではなかったし。

 でも、その気持ちが踏み躙られるまでに、そう時間はかからなかった。

 オーディションから二週間経った日の、放課後練の後のことだ。パート練に使う空き教室の片付けは一年が日替わりで担当することになっていて、その日は唯の番だった。先輩たちは錦葉のときには手伝いをするくせに、唯のときは素知らぬ顔で教室を後にする。唯を一人残すのがいたたまれなかった私は、何も言わずに片付けを手伝った。

 だけど唯は、私の行為に感謝したりはしなかった。

「こういうことされるの迷惑なんで、やめてくれません?」

「え? ……こういうのって、どういうこと?」

「変に気を使ったりするなって言ってるんです。私が望むのはいい演奏をすることだけで、馴れ合いは望んでませんから。正直、余計なお世話なんですよ」

 ぎこちない苦笑で誤魔化す私に対し、唯の態度は動揺とは無縁だった。眉一つ動かさず、初対面のときと何ら変わらない冷然とした面持ちを崩さない。

「……でも、吹奏楽って皆でやるものでしょ? チームワークは大事、なんじゃないかな」

「そうやって波風立てないようにしてるから、いつまで経っても支部大会止まりの演奏しかできないんですよ。ずっと思ってたんですけど、先輩、本気でフルートやってないですよね。自ら進んで三年の先輩たちの演奏に埋没しにいってるっていうか、目立たないようにしてるっていうか。そういう端から諦めたような姿勢でいられると、こっちも迷惑なんですよね」

 椅子の背もたれをきつく握りしめる。天才のあんたに何がわかるの、という罵倒を飲み込む。

「そもそも先輩だって、腹の底じゃ私のこと気に食わないって思ってますよね。そうやって上辺だけ善人面されるのが、一番嫌なんですけど」

 流石に、カチンと来た。

 ああ、そうだよ。気に入らないよ。ソロの件はどうでもいい。でも私は和奈とコンクールに出たかった。その機会を奪ったのは、あんただ。気に入らないのは当然じゃんか。

 だけど、さ。

「そんなこと、ないよ。私は浜野のフルートが好きだし、浜野のソロ、聞きたいって思ってる」

 そんな本心、口に出せるわけないじゃん。人間関係って、醜い本音に適当に蓋をして、それでようやく回っていくものなんじゃないの? あんたは私に、取り巻き二人みたいに嫌がらせして欲しいわけ?

 言葉の奥に潜ませた真意に気づいたのか、そうでないのか。そうですかと冷淡に流したきり、唯は唇を閉ざした。私達は何も言わずに教室を片付けて、重苦しい雰囲気のまま音楽室へ戻った。

 こんなことが合ったにも拘らず、私と唯の間の空気はその日以降も変わらなかった。私が唯への接し方を変えなかったからだ。屈折した意地のようなものだった。素直に距離を取るのは負けたような気がして嫌だった。Cメンを取られた恨みもあるし、あいつの思い通りにしてたまるかって反抗的な気持ちに駆られてしまって。

 色々とゴタゴタがあったせいか、去年はあっという間だった地区大会までの道のりは随分長かったように感じられた。本番当日、私たち落選組は部室でだらだらと練習したりスマホをいじったりして待機していた。

 無事に県大会出場が決まったと報告がなされたのは、四時前だった。ひとまず胸を撫で下ろすと同時に、和奈におめでとう、とラインを送る。即座に既読がついて、ありがと、と返ってくる。そのタイムラグのなさに、一々心を弾ませてしまっている自分がいた。パートの後輩とかからもラインが来ていただろうけど、真っ先に私に返してくれた。それが何よりも、嬉しい。

 でも、一緒に会場にいたCメン達は直接喜びを噛み締めあっていたのかと思うと、複雑な気持ちになった。唯がいなかったら。そこまで考えたところで、強引に思考を止めた。

 先生が録画していた部の演奏がラインにアップロードされた。それを見て、先生の目論見が見事に功を奏したことを理解した。唯のソロが始まった瞬間、会場の雰囲気がガラリと変化したのが動画越しにも伝わってきた。それまでの演奏の調子との落差も相まって、唯の堂々とした演奏がいい意味で際立っていた。

 うちの部は県大会も問題なく通過して、支部大会への出場を決めた。例年通りの流れとは言え、唯という実力者が加わったおかげで全体の調子は良さげだった。唯への認識もそれに伴って変わっていった。馴染んだとまでは言えないけれど、殊更に嫌煙されるようなことはなくなった。

 その変化はフルートパートにも訪れた。取り巻き二人からの唯への嫌がらせが、県大会を終えた辺りから綺麗さっぱりなくなったのだ。

 これについて、練習帰りに和奈と寄ったファーストフード店で、こんな話を聞かされた。

「なんか、神楽坂先輩が直接二人に注意したらしいよ。そういう子供っぽいことはやめろって」

「え、それ本当? 和奈が見たの?」

「いや、私は又聞きの又聞き。だから本当かどうか気になってるんだよ。美空的にはどう? 事実だと思う?」

「どうだろう。先輩、明らかに浜野に嫉妬してるところあるから。肩を持つようなことするかな」

「逆にってこともあるんじゃない」

「逆にって?」

「だって惨めじゃん。ソロ取られたから嫌がらせするなんて、負け惜しみみたいでさ。先輩も気持ちの整理がついたのかもね。ソロは浜野ちゃんで適任だって受け入れられたのかも」

「……そう、なのかな」

 物思いに耽りつつ、ずごご、とシェイクを吸い上げる。何にせよ、平穏が訪れたのは有り難いことだけど。

「ところで、美空は浜野ちゃんと上手くやってるの?」

「やってると思った?」

 渋面する私に対し、知ってた、と快活に笑いながら、和奈はポテトを口の中に放り込む。

「駄目だよ、仲良くしなきゃ。もうすぐ三年も卒業なんだから。特に美空はパートリーダー確定なんだし」

「それ、今言うのやめて。想像しただけで胃に穴開くから」

「そんなに嫌なの? 後輩って可愛いじゃん、妹みたいで」

「可愛いとか以前の問題だって。私より浜野のほうがよっぽどフルート上手なんだよ? それなのに立場は上とか、やりづらいどころの話じゃないし」

「でも、楽器の才能とリーダーとしての能力って全然別じゃん。必要な資質も求められてる役割も。気にすることないと思うけど」

「気にするよ。私、どっちの才能もないし」

「相変わらず卑屈だなぁ」

 和奈は苦笑する。私は鬱然と溜め息を漏らす。

「私、あの面子を纏める自信ないよ。どっちも面倒な性格してるし」

「美空と一緒で?」

「そうそ……は? いや、私は面倒臭くなんて――」

「ないの?」

「……なく、はないかもだけど」

 歯切れ悪く言いながら、目を逸らす。頬が熱を帯びているのを自覚する。冷却しようと、勢いよくシェイクを吸い上げる。

 実際面倒くさいんだろうな、私って。今日も、最近和奈と帰れてないなって遠目から眺めてたら、あっちから寄り道に誘ってくれたわけだし。散歩待ちの犬かって話だ。

 そういう幼い感情を見透かされる度に、嬉しいのと同じくらい恥ずかしさで悶そうになる。いや、それだけじゃない。もっと込み入った感情までもが胸中で乱舞し始めて、心がメチャクチャになっていく。だって、和奈はどこまで気がついてるの? 好きだってことにも勘付いてるの? いやそれはない。バレてたら、こんなふうに何気なく接してくれるわけがない。そのことにホッとする。なんで気づいてくれないの、とも思う。矛盾した感情に心があっちこっちに引っ張られて、真っ二つに千切れてしまいそうになる。

「色々と心配なのはわかるけど、良いリーダーになれるよう頑張ろうよ。私も、できる限りサポートするからさ」

 できる限り、か。無責任な言葉だなって思う。だって来年はまた新しい一年が入ってくる。そしたら私に割いてくれる時間なんてもっと減る。現にこうして二人で寄り道するのだって、一ヶ月ぶりくらいじゃん。適当なこと言って希望持たせるの、やめてよ。

「ん、そうだね。ありがと和奈」

 どろついたヘドロみたいな情念を、不器用な笑みでどうにか隠す。

 私にとって、和奈と後輩は全く別の存在だ。

 でも、和奈からすれば似たりよったり。どちらも手のかかる妹みたいな存在に過ぎなくて。

 私は一生、その立ち位置から、抜け出せない。

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