ただの青春には、フルートと強がりしかなかった。

赤崎弥生

ただの、出会い。

「吹奏楽部、ですか」

「そそ。興味ない? うち、これでも結構優秀な方なんだよ。全国だって行ったことあるし」

 差し出されたビラを前にして固まっている新入生。その子と正面から向き合っているのは、私だ。でも、この台詞は私のじゃない。横からひょっこりと首を出している和奈のものだ。ちなみにその手は私の右手首をがっしりと掴んでいて、ビラは私の右手から伸びている。つまるところ、ビラを突きつけたのは実質和奈。

「それ、もう十五年前の話ですよね。そんなに昔の実績を持ち出すのって、詐欺だと思いますけど」

 だから、私はこう考える。あからさまに不機嫌そうな顔になってる新入生の応対は、和奈がするべきだよね、って。というか、やれって言われても無理だ。昔からこういう空気苦手だし。小学校の学級会とかでギスギスした雰囲気になる度に、頼むから仲良くしてくれって願いながら存在感を消していた。今もそうだ。二人の間で物言わぬ立板みたいになってる。傍から見たら相当滑稽だろうけど、私自身は愉快でもなんでもない。気まずい。ただただ気まずい。和奈に触れられてるって感覚もいつの間にか意識から飛んでいて、新入生の放つ薙刀じみた眼光に戦々恐々とするのみだった。

「第一、それって自分たちの実績じゃないですよね。他人の業績をさも自分たちのものであるかのように語るのは、どうかと思いますけど」

「それを言われると弱いなぁ。でも今だって、支部大会までは毎年行ってるから。強豪ってほどじゃないにしろ、中堅くらいの立ち位置ではあると思うよ。で、興味ない?」

「いえ、特にありません」

「あ、待って待って。チラシだけでも貰ってくれないかな。お願い」

「……まあ、いいですけど」

 不承不承と言わんばかりの渋面でビラを受け取る新入生。形ばかりの会釈をすると、大勢の生徒でごった返した坂道をすいすいと下っていった。息の詰まる緊張から解放されて、私は盛大にため息を漏らす。「すっごい態度悪くなかった?」と和奈に小声で愚痴ったりする。

 このときの私は信じるだろうか。そいつ、この先の二年を語る上では欠かせない奴になるんだよ、なんてことを伝えたら。信じて卒倒するが一割。まさかって鼻で笑われるが九割。公算はそんなところだろうか。素直に信じるには、この出会いは些か劇的さに欠けている。

 にも拘らず、思い返すと不思議と笑えるような、それでいて胸の痛むような感傷に襲われるのは、唯は最初から唯でしかなかったのだと痛感させられるからだった。

 だってこいつ、こんな態度取ったくせに部室来たし。

 部活動体験期間の最終日のことだった。今年度のフルートパートの志願者はこの時点で錦葉一人。ちなみに二年は私一人で、三年は三人。圧倒的人数不足。一般的な吹部において、フルートが人数に悩まされることはあまりない。知名度もイメージの良さも十分あるし、むしろ人気な部類に入ることが多い。なのに昨年度に引き続き、希望者一人というこの惨状。

 原因ははっきりしていた。神楽坂先輩に問題があるせいだ。

「すっごくお上手でした、先輩! まるで、小鳥が悠然と空を飛んでいるみたいに、優雅な音色で……!」

「ふふ、ありがとう。可愛い後輩に気に入って貰えたみたいで、嬉しいわ」

 錦場からの姦しい感性に神楽坂先輩は品のいい微笑で答えた。その微笑みの華やかさといったらない。口元に掌まで添えていて、今日も今日とてお嬢様オーラは全開。少女漫画のなんちゃら女学院(当然のように全寮制かつカトリック系)から飛び出してきたかのような仕草と風貌を湛えていた。

 神楽坂先輩が演奏してみせたのは今年のコンクールの課題曲だ。他の二人の先輩も「やっぱり神楽坂、上手いわ」「ソロのとことか、完成度高すぎ」と口々に演奏を褒めている。二人は半ば神楽坂先輩の取り巻きと化しているから持ち上げるのは当然なのだけど、実際、今のは贔屓目を抜きにしても上手かった。品が良くおおらかで、神楽坂先輩のイメージが音楽に具現化されたかのようだった。

 神楽坂先輩は、一言で言えばフルートパートのエースだ。うちの学校は今でこそ有り触れた女子校だけど、かつては生粋のお嬢様学校だったという。母親がその時代の生徒だった神楽坂先輩は、スラリと長い四肢といい艶美で穏やかな顔立ちといい、如何に持って感じのお嬢様然とした見目をしている。幼少期からピアノを習い、小学校高学年に入ってからはフルートも始めたという経歴も意外には感じない。まさに、現代に降臨したイデアルなお嬢様。校内どころか外部にも一定のファンが存在していて、先輩の存在は定期演奏会のチケットの販売率にも一役買っている。そういう意味では部としても大いに助かっているところなのだけど、物事にはいい面もあれば悪い側面もあるものだ。

「ところで錦場さん、お友達に声をかけたりはしてくれたかしら?」

「あ、はい。一応は。でも皆、もう入る部活は決まってるって言ってて。それに、神楽坂先輩と並び立つのはやっぱり恐れ多いって」

 神楽坂先輩は大勢から憧憬の目で見られる。けれどその憧れは、お近づきになりたいと思われる類のものではなかった。客席からアイドルを眺めるファンのように、遠くから拝むだけで完結されてしまうものに過ぎなくて。

「すみません。先輩の力になれなくて」

「謝らないで。希望者が集まらないのは私達のせいなのだから。だけど困ったわね。他のパートから新入生を回して貰うこともできるけど、できるだけ楽器の希望は通してあげたいし。原田さん、勧誘のとき興味を持ってくれた子とか、いなかったかしら?」

 唐突に話を振られた。ばつの悪い心地になりながらも、特に思い至らないです、と正直に答える。

「思い至らないって。原田、真面目に勧誘してくれたの? ビラ、全然捌けてなかったよね?」

「錦葉は神楽坂が声をかけたから入ってくれたんだよ? 一人くらいは確保してきてよ」

 取り巻き二人がここぞとばかりに詰り始める。ごめんなさいと殊勝に誤りながら、これも希望者が少なくなる原因だろうな、と心の中で呟いた。

「二人共。原田さんも原田さんなりに頑張ってくれたのだから、あまり責めないであげて」

 すかさず叱責してきた取り巻き二人を、先輩がやんわりと窘める。相変わらず、薔薇か百合の華みたいに高潔な微笑みが浮かんでいる。

 何の前触れもなしに一人の少女の顔が浮かんだ。誰のだろうと戸惑ってから、ああ、と納得。部活勧誘のときに突っかかってきた新入生だ。黒髪ロングで睫毛が長くて、意志の強そうな凛々しい顔立ちをしていた、あの。

 その子のことを思い出したのは、偶然でもなんでもない。自分が惨めだったから。あの子が来てくれれば少しは見返してやれるのにって、考えてしまったから。

 だけど、その次に起こった出来事は、本当にただの偶然だった。

 引き戸を開け放つ音が軽やかに鳴る。

 入り口に目を向けて、ぎょっとした。なんで、と頭が働きを停止した。

 あのときの新入生が、悠然と入口の前に立っていた。その子は何食わぬ顔で室内に足を踏み入れると、「フルートパートの練習場所ってここですか?」と気負うことなく訊ねた。

「そうだけど、もしかして体験希望者? あら。それって、私物のフルートよね? 経験者かしら?」

「そんなところです。吹奏楽の経験はありませんけど」

「歓迎するわ。新入生が少なくて困っていたところだから」

 私は茫然としつつも、そそくさと椅子を用意した。半ば機械的にどうぞ、と勧める。

「ありがとうございます。あれ、もしかしてあのときの」

「う、うん。その節はどうも。……来てくれてありがとう。気が変わったの?」

「他に入りたい部もなかったので、消去法です」

「ひょっとして原田さんが声をかけてくれた子なのかしら?」

 ちょっと悩んでから、一応、と頷く。半分以上、和奈の功績な気がするけれど。

 さっき私を責めた手前、取り巻き二人は少々決まりが悪そうな面持ちになっている。それをみても私の気分は晴れなかった。唯への困惑、気まずさ、苦手意識、その他諸々が頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。あんなに素っ気ない態度を取っていたのに、なんで今更。

「わざわざフルートまで持参してくれるなんて、やる気満々ね。入部の意志は固まってると考えていいのかしら」

「気が変わらなかったら、ですけど」

「嬉しいわ。そうだ、早速で悪いのだけど、軽く吹いてみてもらってもいいかしら。今後の指導の参考にもなるでしょうし」

 それは本当に何気なく、ごく自然な成り行きで口に出された言葉だった。だけどこの一言が、ある意味で先輩に致命傷を与えることになる。当然、一波乱巻き起こることになるのだけれど、このときの私はそんな未来のことなど知る由もない。フルートを組み立てる唯の姿を当惑しながら眺めるだけだった。

「譜面、借りますね」

 先輩の正面の譜面台を自分の側へと向ける唯。フルートを口元に持っていき、構える。

 音がした瞬間、教室に力強い春風が舞い込む錯覚をした。

 気付けば息をするのをやめていた。それほどまでに、唯の演奏は素晴らしかった。そつなく、如才なく音符を拾い上げるようだった神楽坂先輩の吹き方とは打って変わって、唯の音は一から十まで斬新でダイナミックだった。この曲にそんな吹き方があったのかと驚愕させてくるのにも拘らず、不自然さを抱かされることはほんの一秒たりともなかった。それを可能としているのは圧倒的な演奏技術と、解釈のブレの無さ。

 楽譜に従っていると言うより楽譜を従えているとでも言うような、それは、そういう吹き方で。

 つまるところ、浜野唯は天才だった。

 演奏が終わった瞬間、時が止まったかのような静寂が教室を満たした。凄まじい完成度の演奏を前に、誰もが言葉を失っていた。

「うわ。浜野さん、すっごい上手だね。びっくりしちゃったよ」

 最初に口を開いたのは錦葉だった。未経験者故か、無邪気に唯の演奏を絶賛している。

「……この曲。浜野さんも、やったことがあったのね」

「いえ、初見です。聞いたことはあったんで、大体のイメージは既に掴めてましたけど」

 神楽坂先輩の表情が固まった。取り巻き二人がすこぶる気まずそうな面持ちで顔を見合わせる。私の胸中も大荒れだった。これほどまでに先輩たちと心が通じ合ったのは、円陣のときを除けば他にない。

 その日の夜、どうか入部しませんように、と心から願った。

 翌日、入部届け片手に音楽室に赴く唯と廊下でばったり出くわした。現実は非常だった。

 そんなわけで、フルートパートの新入生は浜野唯と錦葉の二人となった。

 天才新入生の入部という一大事未に見舞われたフルートパートだったけど、意外なことに練習の雰囲気は至って平和的なものだった。技量が頭一つ抜けているとは言え、唯は一介の新入生。対する神楽坂先輩は三年だ。取り巻き二人と錦葉は相変わらず神楽坂先輩を称揚するし、私も長いものには巻かれろの精神だしで、パート内の力関係が崩壊することはなかった。

 少なくとも、表面上は。

 実際に集団の中で息をしてると、否応なくわかった。先輩たちは唯に対する反感や嫉妬を、見えないところに存分に鬱積させているのが。本人にその気がなくとも、ちょっとした態度や言葉遣いにそういう心理は表れる。先輩が目をかけるのは錦葉ばかりで、業務上のこと以外で唯が声をかけられるのは全くと言っていいほどなかった。まるで唯と先輩たちとの間に、透明な境界線が引かれているみたいだった。

 パートで最も唯に近い立ち位置にいたのは私だった。錦葉という新たな指導対象が加わったせいか、私が先輩たちから声をかけられる頻度は目に見えて減っていた。言葉を交わし合う先輩と錦葉を一歩引いたところから眺めるような場面も多かった。

 だからといって、私と唯が仲良く談笑をし始めるなんてことはなかった。だって唯には、他人と関係を作ろうとする意欲が一切感じられない。部員と仲良くしようという気概が端から存在してないみたいだった。そんな相手とどうやって親しげに接すればいいというのか。

 とはいえ、距離があるのは何もかも唯側の問題、というわけでもなくて。

「確かに上手いよね、浜野ちゃん。基礎合奏のとき毎回実感するよ」

 その日の昼休みも私と和奈は、教室で一緒に昼食を取っていた。机をくっつけるのは面倒なので、近所の人から椅子だけ借りて机は一つを共有している。

「あの子、割とはっきりした音出すからさ。いい意味で目立つんだよね。あれで中学の時、吹部入ってなかったんでしょ?」

「でも、お母さんはがプロの奏者なんだって。小学校低学年からフルートに触ってたって言ってた」

「なるほど。道理で基礎がしっかりしてるわけだ。あれなら一年にしてCメン内定だろうね」

 最後の一言で、心臓が激しく収縮したのがわかった。

 私と和奈は去年、Cメン――夏のコンクールのメンバー――から落選している。オーディションの日の帰り、来年は一緒に出ようと約束した。でも無理だ。私はきっと、いや絶対に今年も落ちる。

「……ごめん和奈。私、オーディション落ちた」

「落ちたって、なんで過去形なの。オーディションって一ヶ月も先のことでしょ」

「けど、もう決まったようなものじゃん。私じゃ浜野には敵わないし」

「枠はまだ三人分残ってるでしょ」

「うちのパートの三年、ちょうど三人だから」

「知ってるよ。先輩から枠奪っちゃえばいいじゃんって言ってるの」

「そんなの無理だよ。神楽坂先輩は言うまでもないし、他の二人だって私よりかはよっぽど上手いもん」

「そう言わずにさ。私は本気で、美空にもチャンスはあるって思ってるよ。美空、周りに合わせるの上手じゃん。美空がいるといないとじゃ全体の調和の仕方が全然違うんだよ」

「いいよ、無理に慰めなくて。どうせ私じゃ――」

 ぽん、と頭の上に手のひらが置かれる感触。

 昼休みの教室の喧騒が、瞬く間に意識の外へと追放される。

「条件反射で褒め言葉を否定するな。それ、美空の悪いとこ」

「ちょっと。なんなの、頭のこれ」

「だって、美空を黙らせるにはこれが一番早いから」

「……そういうの、狡いと思う」

 いじけたように言いながら、そっぽを向く。ほっぺたが徐々に熱を帯びていくのに反して、どこか冷めた気分になっている自分もいた。狡いのは私だな、と冷静に自己嫌悪し始める。

 だって、知ってた。ああして卑屈に振る舞えば和奈は絶対に優しくしてくれるって。慰めてくれるって。それがわかった上で、敢えて否定的な言葉を口にしたんだ。あれはあれで本心ではある。でも本音ではない。私はただ、和奈に甘えたがってただけだ。

「本当、手間のかかる同級生ですこと」

 ケラケラと笑いながら、子供を相手にするみたいに髪の毛を梳いてくる和奈。

 それで、胸中に立ち込めていた暗雲がたちまち消えた。暖かな陽光が差し込んで、心地の良い高揚感に満たされる。指先が頭皮に触れる度に、頭蓋の奥で線香花火みたいなものがパチパチと爆ぜる。他人に触れられてるって感覚に、脳みそがぽわんとしてくる。

 私は不満げに項垂れる。一方で、和奈の手を払ったりは、決してしない。

 唐突に和奈の指が引っ込んだ。え、と戸惑う。和奈は教室の入り口に顔を向けていた。見ると、一年生が廊下と教室の境界のギリギリ手前に立っていた。和奈に招かれて、おずおずと教室に入ってくる。用件を訊くと、個人練習をしたいから見てほしいとのことだった。和奈は愛想よく請け負うとお弁当の残りをお腹に詰め込んで、「ごめん、お先に」と席を立った。

 食べかけのパンとともに、ぽつん、と一人取り残される。

 教室の騒々しさが一気に息を吹き返す。惨めさとか寂しさとかその他諸々の情念が、沼から這い出る魔物のように沸き上がる。

 私はさっき、一つ嘘を吐いた。他人に触られてるからじゃない。和奈に触られているからだ。

 私は、和奈のことが好きだ。友情的な意味じゃない。恋愛的な意味でだ。

 私と和奈は一年のときから一緒のクラスだった。たまたま席が近くだった和奈が話しかけてきて、中学の時の部活を問われ、吹部だと答えたら私もだよと言われて、あれよあれよと音楽室まで引っ張られて、というのが最初の出会い。

 和奈は何かと私のことを連れ回す。最初は迷惑だとも思った。でも和奈は、私が困っているときには決まって手を差し伸べてくれた。移動教室でどこに行けばいいのかわからないときとか、体育の授業のペア決めのときとか。誰かに声をかけたいのになんとなく気が引けて、口を噤んで俯いているようなとき、和奈は決まって私に近づいてきた。躊躇いなく手を取って、引っ張って、不安から抜け出させてくれた。気付けば私は、和奈ばかりを目で追うようになっていた。餌付けされた野良猫のように、和奈の後をついていくようになっていた。

 だけど、このときはまだ明確な好意を抱いていたわけではなかった。少なくとも、気づいてはいなかった。

 好きなんだと思い知らされたのは、丁度、一年前の今頃だった。

 その日、たまたま早起きをした私はいつもより三十分ほど早い時間に家を出た。教室にはまだ誰もいなかった。授業の予習でもしようかと思ったけど、やる気が出なくて頬杖を付きながらぼうっとしてたら次第に眠気が襲ってきた。眠りと覚醒の中間を彷徨いながら、こくんこくんと船を漕いでた。

 がら、と扉が開ける音がして目が覚める。和奈だった。

「――あれ。今日はやけに早いじゃん。どしたの?」

 投げかけられたのは、なんてことのない朝の挨拶。

 それだけで終わってくれたなら、どんなによかったことだろう。

 和奈は私にてこてこと近づくと、何の気なしに抱きついてきた。

 瞬間、背筋に電撃が流れた。

 気分がやけに高揚する。心臓がどっどっどって荒れ狂う。体温が熱い。頬が上気してるのが見なくてもわかる。和奈の輪郭や肌触りをやけに意識してしまう。和奈の吐息も体温も汗も心拍も声も制服も指先も匂いも何もかもが鮮明で、津波みたいに脳内に押し寄せて満たしていく。全神経が一瞬にして、和奈を感じ取るための回路に置き換えられたみたいだった。

 なにこれ。なに、この思い。この感情。わからない。知らない。苦しいけど嬉しくって。怖いのに心地よくって。このまま和奈の胸の中にズブズブと沈んでいきたいって衝動に駆られて、逆に腕を振り払って走り出したいようにも思えて、頭の中がガラス棒でかき混ぜられたみたいにグチャグチャになっていて。

 ゆっくりと後ろを向いて、目があって。

「もしかしてまだ眠い? なんか、ぼうっとしてるけど」

 ぷに、と。ほっぺたを指先でつつかれた。

 くっきりと刻まれた笑窪。愛嬌のある目元。鼻先をくすぐる前髪。

 可愛い。触りたい。もっと見たい。誰にも見せたくない。

 蒸気みたいに沸き起こる未知の情念の奥底で、春風じみた感情が心の中を駆け抜けた。

 あ。私、和奈のことが好きなんだ。

 気づいてしまったら、手遅れだった。

 これは友情。そもそも女同士だし。自分に言い聞かせるようとすればするほど、心の奥深い部分がカラカラに乾いていって、和奈に触れたいって情動に襲われた。触れて欲しいって願ってしまった。泥沼にでも嵌ったみたいに、足掻けば足掻くほど好きという感情にズブズブと溺れていった。

 和奈にとってあの行動は、大した意味を持ってない。じゃなきゃ、あんなことしない。中学の時にも仲の良い女子同士がベタベタしてるのを見かけることはよくあった。その度に私は、幼稚な奴らってその子らを見下していた。けど本当は怖かったのかも知れない。自分の中にある欲望を直視するのが。自分は女が好きなんだって現実を思い知るのが。

 なんで好きなのと問われたら、なんでだろうね、と返すと思う。

 それでも私は、和奈に恋をしている。それだけは、紛れもない現実だった。

 とはいえ、私は別に和奈と付き合いたいとか思ってるわけじゃない。いや嘘だ。付き合えるものなら付き合いたい。でも、無理だってわかってる。和奈は私みたいな人じゃないって知っている。だから私は、少しでも長く和奈の隣にいられればそれでいい。それだけで、いい。

 そのためにも、私はどうしてもCメンに選ばれなくちゃいけなかった。Cメンとそれ以外とじゃ練習内容も違ってくるし、精神的な隔たりだって否応なしに生まれてしまう。新入生も入ってきた以上、和奈との距離は大きくなる一方なのに。

 八つ当たりだって、わかってる。けど、どうしても思ってしまう。

「……浜野の奴、なんで吹部なんか入ったんだよ」

 折角梳いてもらった髪の毛は、いつの間にかグシャグシャになっていた。

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