軌道上 その七
こつんと固い音がして、パスカルの額が小さな窓にぶつかった。窓の向こうには、暗い朱色に染まる積乱雲の頂が視界の果てまで連なっている。時折眼下に現れる雲の切れ目の奥には、磨かれた黒曜石のような海面が姿を見せる。
〈もちづき〉は、間もなく夜のエリアに差しかかろうとしていた。
「もし、軌道変更が無事に終わって、残り時間があるようでしたら、ここを使ってみてください。あなたの体は私よりも小さいから問題ないと思います。そして、ほら、あの一番奥に窓があるでしょう。あそこから地球を眺めることが出来ます。とても綺麗なんですよ」
帰還用シャトルへの工場生産物の積み込み作業を終えた原田が、パスカルの手を引いて居住モジュールを案内し、原田専用コンパートメントの使用を奨めたのは二時間前のことであった。
サトルとの交信を終えたパスカルは、その時の原田の奨めに従い、連絡通路を移動し、居住モジュールのドアをくぐり抜け、小さな体を細長い円筒形のコンパートメントに滑り込ませたのだった。
夕景の地球から夜への移り変わりは一瞬で行われ、パスカルは額を窓に押し付けたまま、黒く巨大な球体の表面を飽かず眺め続けていた。
黒い円弧の縁に小さな光の連なりが現れた。パスカルのカメラアイは即座にその数を二十と把握した。二十の光点はタイミングを合わせて点滅を繰り返している。
モールス信号だ。
パスカルは点滅のパターンを解析し、復文を試みた。
BYE BYE PASCAL
パスカルは頭の角度を変え、点滅する光点を視野の中心に捉えた。そしてもう一度、光の点滅パターンを復文し、メモリに格納しようとした。
その時、暗い夜の地球に眩しい光が差した。小さな光の点滅はその中に埋没して消えた。夜明けには早すぎるタイミングだった。窓から差し込む光はすぐに白から黄色へと変わった。やがて窓のすぐ外をいくつもの火花が飛び去り、ガラスは見る間に黒い煤で覆われ、コンパートメント全体がガタガタと激しく揺れ始めた。
大気圏への突入が開始されたのだ。
ひときわ激しい揺れが来た。パスカルの体は前後左右に揺すられ、頭部が何度も窓に打ち付けられた。右のカメラアイに亀裂が入り、同時に右腕が鈍い音を立てて折れ曲がった。遠くで地獄のラッパが鳴り響いている。コンパートメント内部の温度が急速に上昇していく。ぱっと蓄熱毛布が燃え上がり、周囲が鮮やかな朱色に染まったが、パスカルの目にはもう何も映らなかった。
さようなら、サトルさん。
パスカルは、最後に使用した音声ファイルをメモリーの中で一度だけ再生すると、かろうじて動く左手を腹部に伸ばし、探り当てた全機能停止スイッチを強く押し込んだ。
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