地上 その二の四

 サトルは左右のこめかみにそれぞれ親指の腹をあて、ぐいぐいと力任せに押し込んだ。頭部全体に染み渡るような心地よい痛みに、倦み疲れた脳が思わず吐息を漏らす。だが指を離せば、すぐに煮詰めたトマトのように熱くゆるんだ塊に戻ってしまう。


 母天体の特定作業を初めてから五時間、流星雨の出現で吹き飛んだはずの倦怠感が、いつの間にかうなじのあたりに舞い戻り、目の奥に脈打つ鈍痛が生まれていた。


 それにしても――

 サトルは、端末に向かうパスカルの背中を少し霞んだ視界の隅に置きながら、ぼんやりと思考を漂わせた。

 それにしても、これほど難航するとは思わなかったな。あれだけの出現数があればデータとしては十分すぎて、おつりがくるほどだと思っていたけれど、よくよく考えてみれば、母天体候補の方に新たなデータが加わったわけではないし……。でも、そうなると、これ以上流星の軌道要素からのアプローチを続けたところで、進展は見込めないってことになるよなあ。アストロラウンジの他のメンバーにも今のところ大きな動きはないし、このまま母天体の特定は無理ということになるのかな? 実際、母天体不明のままの流星群っていうのもいくつかあったはず。となると今回の流星も……いや、まてまて、ここであきらめたら、本当に終わりってことになるんだ。まだ、結論を出すには早すぎる。流星出現から半日も経っていないんだから。


 それにしても――

 ゆるゆるとした思考が脳の放熱を促進し、サトルの気力は少しずつ回復に向かい始める。

 それにしても、手応えがなさ過ぎる。ネット上に公開されているデータはほぼ調べ尽くしたけどかすりもしなかったし。それこそ夜空に手を伸ばして星を捕まえようとしているみたいな気分だ。たぶん、そこに答えはないんだ。となれば、あとは非公開データか。でもなあ、軌道計算なら誰にも負けないっていう自信があるけど、非公開のデータを獲ってくるだけの技術はないからなあ。付け焼き刃でハッキングの真似事をしたところで、通報食らって、即ID剥奪ってことになるだろうし。今回に限っては個人のアプローチでは無理なのかもしれないな。

 じゃあ――チームプレイ、とか?

 サトルはパスカルの背中から、机の上のコンピュータ端末に目を移した。

 僕たち軌道計算屋に太陽系内の天体観測の専門家を交えて、これまでの計算結果を検証し、改善を加え、そこに情報収集部隊が獲ってきた非公開データを突っ込めば……うん、これは結構いいかもしれないぞ。

 だとすれば、最初に声をかけるのは……


「サトルさん、ロビンソンさんからの呼び出しです」

 今まさにサトルの頭に浮かんだ名前がパスカルの口から飛び出した。

「ぐっ……」

 思わず飲み込んだ唾液を喉の奥にひっかけてしまい、サトルは激しく咳き込んだ。駆け寄ろうとするパスカルを手で制し、人差し指で、目の前の端末を指し示す。パスカルはその意味を即座に理解し、デスクの上のホログラフィック・ディスプレイに赤いバンダナで頭を包んだ髭面男の顔が浮かび上がった。

「おい、大丈夫か? パスカルからちょっと調子が悪いとは聞いていたが、相当悪い、の聞き間違いだったか」

「……いや、……大丈夫。……すぐ落ち着くから……」

「説得力ねえな」

「ごめん、ちょっとびっくりして。ふう……よし、OK。ご用件をどうぞ」

「なんか死にそうだったぞ。まあ、パスカルがいるから大丈夫だろうがな。では用件を手短に言おう。『俺と勝負だ』は撤回する。代わりに『みんなでやっつけてしまえ』を提案したい」

 サトルの背筋に震えが走った。最大のライバルが、同じタイミングで同じことを考えていたのだ。今まで経験したことのない感情のうねりが胸の奥に生まれ、全身を熱く駆けめぐる。

「提案に……賛成いや、賛同します……」

「おい、本当に大丈夫か? 賛同は嬉しいが無理するなよ」

「違うんです。今、僕もロビンソンさんと同じことを考えていて、それで……びっくりしただけです」

 感動した、という言葉は恥ずかしくて口にできなかった。

「だったら話は早い。賛同ついでに頼みがある。みんなというからにはいつものメンバーだけじゃあ物足りないだろ。今回のターゲットはなかなかの強者のようだからな。そこでだ、アストロラウンジの常連をメインに、できるだけ多くの賛同者を募りたい。その役目をサトルとパスカルでやってくれ」

「え? 発案者はロビンソンさんじゃないですか」

「俺じゃあ、人は集まらない」

「そんなこと……」

「いいからやってくれ。俺は別ジャンルの専門家で使えそうなやつを何人か引っ張ってくる」

「わかりました」

「よし、あとはアストロラウンジに移ってからだ。パスカル、またホストを頼んでいいか」

「お任せください」

「お前さんの返事は気持ちがいいな。うちのポンコツAIとは出来が違うぜ」

「サトルさんのおかげです」

「なるほど、それはつまり、うちのAIが駄目なのは俺のせいってことか、ふむ、嫌みじゃなく、納得だ」

「恐れ入ります」

「わははは、ちょっとは否定しろよ。まあいい、そうと決まればさっそく行動開始だ。サトル、体調は大丈夫なんだな?」

「ノープロブレムです」

「ここに、俺の考えた招集メンバーリストがある。できれば全員集めて欲しい」

「やってみます」

「じゃあ、あとでな」

 ホログラフィック・ディスプレイから赤いバンダナが消え、代わりにアストロラウンジへのログイン画面が表示された。


 パスカルが設定したのは、合計三十六名が着席できるドーナツ型の円卓だった。ドーナツの中心にはホログラム投影のプレゼンステージが虹色の円柱として輝き、白い天井と壁に七色の光を投げかけている。いつもの海底を思わせる薄暗いラウンジに慣れた者には、相当の戸惑いを与えるだろう。サトル自身が戸惑いながらラウンジを見渡し、そう思った。

 パーソナルメッセージでの呼びかけから三十分、すでに円卓の八割ほどが埋まっていた。その中で、アストロラウンジの常連七名は落ち着き無く周囲を見回している。まだロビンソンの姿はなかった。


「サトルさん、そろそろ始めましょう」

 パスカルがリアルの空間の耳元で囁く。

 サトルはいつものアバターをセットしかけたが、ふとキーボードを操る手を止めた。ロビンソンがいつも実体映像で堂々と語る姿が頭を掠めたのだ。少し悩んだ後、実体映像をそのままプレゼンステージ上に投影するようパスカルに指示した。パスカルの反応は素早く、指示からほとんど間をおかずに、ロボットチェアに腰掛けたサトルが中央のプレゼンステージに投影された。

 初めて見るサトルの実体映像に、アストロラウンジの常連たちの間から、さざ波のようなどよめきが湧き上がった。

「みなさんようこそ、この集まりにお誘いしたサトルです。えっと、あの、僕はこんなふうにあらたまって話をするというのが初めてなので、わかりにくかったらごめんなさい。その時は、入力デバイスをキーボードに切り替えます。そっちだったらアメリカ大統領の演説にも負けません。ただし日本語ですが」

 温かい笑い声がサトルを包み、ラウンジの空気は一気に和んだ。


「ではさっそくですが、話を進めます。一月十日二十二時四十分頃から約五十分間、極東から東南アジア一帯にかけて出現した《ぎょしゃ座大流星雨》の母天体が未だに判明していません。僕を含め、ここアストロラウンジの常連である軌道計算屋がそれぞれのノウハウでこれまで六時間、やれるだけのことは全て試しましたが駄目でした。こうしている間にも、世界各地のアマチュア、専門家、公的機関が、それぞれの手法で母天体の探索を行っていることでしょう。ですが未だに発見の報告はありません。今のままでは、結果を出せないまま終わってしまう可能性が高くなってきました。そこでみなさんお願い、いや提案があります。ここにお集まりのみなさんは、軌道計算だけでなく、天体観測全般、光学スペクトル分析、惑星気象、リアルタイム情報収集など、各分野のスペシャリストです。これだけの技量と頭脳が力を合わせれば、史上最大級とも言える《ぎょしゃ座大流星雨》の正体を解明できる、そう思いませんか? 僕はそう思いました。なのでみなさんに声をかけさせてもらったのです。どうでしょう、今回に限り、抜け駆けや駆け引きなしで、一緒にやってみませんか」


 うまく伝えられただろうか。何人の賛同が得られるだろうか。サトルは息を詰めて、参加者たちの反応を待った。


「まずは計算に使われた補正係数とサンプル群の選び方が知りたいな」

「当時の気象条件は当然考慮されているとは思うが、一応、私自身の目で確認させてもらうことにしよう」

「私の集めたデータでは、鉄の輝線スペクトルが通常の流星よりも強く出ておった」

「隕鉄?」

「じゃあ小惑星か」

「だったらマールが詳しい」

「よし、呼んでくる」

「現在最終チェック段階の二〇三一年版彗星カタログ、獲ってこれるぜ」

「行って来い!」


 いきなり始まっていた。

 サトルは、仰々しい前置きを語ってしまったことが恥ずかしくなった。同時に体の内側からむずむずと痒くなるような高揚感が湧き上がってくるのを感じた。


「ねえ、私たちは何をすればいいのかな」

 ふいに右の耳近くで声をかけられ、サトルはロボットチェアから飛び上がりそうになった。胸を手で押さえ、そうっと顔を右に向けると、顔の動きに連動したバーチャル・ゴーグルの視野に小柄な少女の姿が入ってきた。

 薄いモスグリーンのシンプルなワンピースと踵の低い焦げ茶のローファーという地味な出で立ち。身長はロボットチェアに座るサトルの肩ほどしかなく、今時珍しい真っ直ぐな黒髪を顎のラインで切りそろえている。目、鼻、唇、すべてが小作りで、日本人形のような顔だった。


 少女はその顔を心持ち左に傾け、黒目がちな瞳をきらめかせながらサトルの返事を待っていた。

「えっと、ごめんなさい。あなたは誰でしたっけ」

「ルナよ」

「ええっ?」

 先ほどよりもはるかに大きくロボットチェアが揺れた。


 ルナさんといえば、十七歳の男子にとっては目のやり場に困ってしまうプロポーションを、いつもこれ見よがしに強調している大人の女性ではなかったのか。この少女はどう見ても僕より年下じゃないか。十五、いやもっと下か? じゃあ、いつものルナさんは――あれはアバターだから。ん? じゃあ、この少女もアバターか。ああそれなら納得だ。


 サトルは無理矢理納得し、ぎこちない笑顔を少女に向けた。

「なんだ、ルナさんかあ。いつもとぜんぜん違うからびっくりです」

「サトルさんが実体映像で出てこられたのに敬意を表したのよ」

「そうでしたか……って、ええっ!」

「あら、みなさんが何事かと注目しているわ。恥ずかしいから消えるわね。あとで軌道計算屋同士の打ち合わせをしましょう」

 そう言うと。少女は胸のあたりで小さく手を振り、プレゼンステージから姿を消した。


 サトルはしばし放心した。だが、円卓を取り囲んだスペシャリストたちは議論に熱中しており、サトルが進行を怠ったからといって文句を言う者など一人もいない。我に返ったサトルはラウンジの様子をしばらく眺めていたが、いつまでたっても進行に関する質問や意見が出てくる気配がないため、さらに五分間待ってから、そっとプレゼンステージを降りた。


 ふう、と一つ、大きな溜息をつく。

 事前に考えていた進行のイメージとは全然違ってしまったけれど、チームプレイによる母天体の特定という目標に向かって動き出したことには違いない。あとの仕切はホストのパスカルに任せればいいだろう。同時多発的なやりとりの全容を掴むのは人間には無理というものだ。

 サトルは、ラウンジの隅に立つパスカルにちらりと視線を投げ、円卓の空席の一つに自分の居場所を確保した。そのまま入力待ちのディスプレイに向かうと、IDとパスワードを打ち込み端末を立ち上げる。

 母天体に関する新たなデータがでてくる前に軌道計算屋同士で少しでも早く連携を深めておきたい。そして――メンバーの顔ぶれからして実現性は低いが――役割分担までできれば理想的ではある。それが無理なら、新たな情報や見解が出ればすぐに対応できるような準備ぐらいは整えておかなければならない。とりあえずはこれまでの成果――とはいっても何も出せていないのだが――を軌道計算屋同士で確認し合おうと、アストロラウンジの常連たちへの会議チャネルを開いた。


 その直後――


「みなさん、興味深いデータを見つけました」

 アンバランスに大きな耳を持つニホンザルを模したアバターがプレゼンステージに現れると、ポンと飛び上がり宙返りをした。アストロラウンジの常連ではない。サトルの初めて見るアバターだった。

「おっと、その前に自己紹介でした。ネットサルベージ歴八年のショウジョウと申します。以後お見知り置きを」

 ショウジョウという名前が出たとたん、ラウンジの喧噪が一気に静まった。おそらく、その方面の第一人者なのだろう。サトル自身はまるで知らない人物だったが、周囲の反応からそう解釈した。

「ちょっとヤバ系のルートから入手したのですが、某国の宇宙軍事関連の極秘ファイルに以下のような記録がありました。


《目標》C/2021 D1

《実施》2022.08.22

《結果》成功

《備考》分裂 リストより削除


 私は天文学に関してはまるで予備知識がないので、この記録の意味するところはわかりかねますが、ファイルの格納場所が〈太陽系内各天体軌道関連データ〉だったので、まあ、なんというか、これまでの経験上、直感的に、これは来たなという手応えがありますね。あとの解釈は専門家のみなさんにお任せします。必要があれば追加情報を獲ってきますので、リクエストください。では」

 耳の大きなニホンザルはもう一度宙返りして、着地の直前でプレゼンステージから消えた。直後、沖に引いていた津波が再び押し寄せるように、先ほどにも増して活き活きとした喧噪が戻ってきた。


「おい、さっき最終チェック段階の最新版彗星カタログを獲ってくるって言ってた奴、居たよな?」

「もう届いてるぜ」

「こっちに回してくれ」

「こっちにも頼む」

「あ、これだ」

「確かに〈C/2021 D1〉はないな」

「よし、バックナンバーだ。最新版じゃなく、古いカタログ取り寄せろ」

「いつの?」

「馬鹿、二〇二二年版に決まってるだろう」

「早く誰か!」

「早くしろ!」


 殺気立つ円卓の片隅で、サトルはショウジョウの資料と、飛び交う会話を冷静に分析していた。

 新しく発見された彗星には通例として発見者の名前が付けられるのだが、カタログ上では〈C/2021 D1〉といった符号で表すことになっている。この場合〈C/〉が意味するのは、Cometすなわち彗星、続く四桁の数字は西暦、〈D〉は二月後半を指し、〈1〉はその時期の中での発見順を意味する。つまり、〈C/2021 D1〉は、二〇二一年 二月一六日から二八日の期間おいて一番目に発見された彗星、となる。

 ショウジョウの獲ってきた資料ではそのあとに実施、結果、備考の三項目があり、その内容から、〈C/2021 D1〉という彗星に対し、何かのミッションが実行されたと読める。宇宙軍事関連の極秘事項ということから、想像を逞しくすると、〈C/2021 D1〉という彗星が、某国宇宙軍の兵器実験用ターゲットとなり、二〇二二年八月二十二日に破壊され、以降の彗星カタログから抹消された、というストーリーが浮かんでくる。

 彗星の発見が二〇二一年ということは、翌年二〇二二年のカタログに掲載され、その年に破壊・抹消されたとすれば、二〇二三年以降のカタログにはもう記載がないことになる。これらの推測を裏付けるためには、二〇二二年版のカタログを確認すればよい。


 なるほど、通常のデータ検索では見つからないはずだ。

 サトルは小さな感動を覚えた。異分野のスペシャリスト同士の連携が早くも成果を出したというわけだ。もちろん、この彗星が狙っている母天体であるという保証はないが、開始から十分足らずで新事実が一つである。さいさきの良いスタートだ。だが、まだサトルたち軌道計算屋の出番ではない。軌道計算屋は、データがなければなにも始まらないのだ。


「ない。バックナンバーが消去されている」

「どこをさがしたんだ」

「全部探した。パブリック・ライブラリ全部だ」

「大学は? 研究機関は?」

「全部探した。そもそも最新版は過去のデータも全てアーカイブされているから、バックナンバーは不要なんだが」

「でも、二〇二一年版や二〇二三年版はいくつかヒットしたんだよ。二〇二二年版だけが、どこにもないっていうのは不自然だろう」

「やばいな」

「ああ、やばいことになってきた」

「ぞくぞくする」


 何やらきな臭い空気が漂い始めたが、今ヒートアップしているのは情報収集部隊である。もしかしたらこれが彼らの通常のテンションなのかもしれない。サトルはもう少し様子を見ることにし、介入を控えた。


 一人の参加者が小さな悲鳴をあげた。

「俺、とんでもないことを見つけてしまったかもしれない」

「なんだ」

「もったいぶるな」

「国会図書館の電子ライブラリにもバックナンバーはなかった」

「それは、さっき報告されているだろう」

「で、念のためにログを見たんだよ」

「ログ?」

「ああ、データの管理ログだ。そこにはバックナンバー消去の記録が残されていたんだが……」

「うん」

「二〇二二年版彗星・小惑星カタログは今から四時間前に消去されている」

 ラウンジ内部が真空地帯になった、そう錯覚するほどの沈黙が生まれた。その場にいた二十八名全員が、同時に四時間前の意味を考えるために黙り込んだのだ。もちろん、サトルもその一人だった。

 現在、流星雨の出現から約七時間が経過している。つまり、流星雨出現の三時間後に、消去が行われたことになる。

 このタイミングは、偶然ではない。

 継続するラウンジ内の沈黙が、全員の直感の一致を示していた。

 では、誰が? 何のために?


 ――ロビンソンさんが入室しました。


 絶妙なタイミングで、ロビンソンがラウンジの片隅に現れた。その傍らには、立体感のない切り絵のような漆黒の人型をしたアバターが寄り添っている。赤いバンダナを頭に巻いた海賊風髭面大男との対比のせいで、その異質さがよけいに強調されて見えた。

 誰だろう。

 初めて見るタイプのアバターにサトルの視線は吸い寄せられた。だがサトル以外でロビンソンの登場に反応したのはアストロラウンジの常連だけで、それもほんの一瞬のことだった。他の参加者たちにいたっては何の関心も示さず、カタログデータ消去の犯人と、ショウジョウがデータを拾ってきた某国との関連性について、熱い議論が交わされていた。


 一人の好奇心と大多数の無関心の中、ロビンソンと黒い人型のアバターは無言のままゆっくりと円卓に向かい、二つ並んで空いていた席に着いた。サトルから見て右斜め前、パスカルの立つホストエリアのすぐ脇だった。

 ロビンソンが黒い人型に顔を寄せ、なにやら説明をしている。黒い人型はうなずくでもなく、薄っぺらな姿のままじっと座っている。それは実体ではなくアバターだとわかっていても、妙にシュールな光景だった。


 一方、ラウンジの議論は、データ消去の犯人探しから、得られた情報をいかに母天体の特定に結びつけていくかという方法論に移りつつあった。この場でこれ以上某国の正体を追求することが、母天体特定に直接的なメリットをもたらすことはなく、むしろ、ショウジョウたち情報収集部隊の行動に制約を与えてしまうという、至極まっとうな意見が提出され、全員の了承が得られたのだ。スペシャリストとして、互いの領分を侵さないという紳士協定が、いつしか自然発生的に機能し始めていた。


「では役割分担を決めよう。掲載年度のカタログが抹消されたとしても、〈C/2021 D1〉の観測データそのものは必ずどこかにあるはずだ。まずはこれを探すメンバーは?」

「引き受けた」

「やります」

「では私もそれを」

「もう一つ、二〇二二年八月二十二日の軍事実験による彗星の破壊が、天体現象として記録されている可能性がある。これを探すメンバーは?」


「みなさんの紳士的な対応に敬意を表して、私が見つけてきましょう」

 ショウジョウだった。ラウンジのあちこちから拍手が鳴った。やはりよほどの大物なのだろう、ショウジョウに続いて名乗りを上げるものはおらず、ラウンジの話題は流星のスペクトル分析結果に関する考察へと移った。

 それにしても「探しましょう」ではなく「見つけてきましょう」とはなかなか言えない。サトルはディスプレイに表示されたショウジョウの言葉に視線を引きつけられた。それも活発なやりとりによって、瞬く間に上方へと流されていく。ショウジョウの発言が画面の上端から消えたあと、視線の移動をそのままに、ディスプレイの向こう側を見ると、ロビンソンの赤いバンダナが視界に入った。周囲のアバターたちがみな、目の前のディスプレイを覗き込む中で、一人大きく腕を組み、ラウンジ全体を睥睨するように胸を反らせている。

 その光景にサトルは小さな違和感を覚えた。

 何かおかしい……何かが。

 あっ。

 サトルの口から思わず声が出た。

 黒い人型アバターの姿がない。ロビンソンの右側がいつの間にか空席になっている。首を伸ばしラウンジ全体を見渡しても見つからない。退室のアナウンスは流れなかったから、まだどこかにいるはずなのだが……

 と、そこまで考えて、サトルはもう一度声を出しそうになった。あわててラウンジの管理ログを遡る。


 ――ロビンソンさんが入室しました。


 ログ上ではロビンソンしかラウンジに入室していない。たとえどんな形であれ、ラウンジに入ったならば必ず入室のアナウンスがあるはずだが、それがない。でもサトルは確かに黒い切り絵のような人型アバターをバーチャル・ゴーグルの映像で確認している。ロビンソンが話しかける様子も間違いなく見た。


 サトルはパスカルにメッセージを送った。

〈ロビンソンと一緒に入室したのは誰? ラウンジの管理ログに残っていない理由は?〉

〈ロビンソンさんはお一人で入室されました〉

 どういうことだ?

 ラウンジの入退室管理システムとパスカルの監視をくぐり抜けることは果たして可能なのだろうか。それとも単なる見間違いなのか。ロビンソンに直接聞けばいいことなんだろうけど――。

 そうだ、ルナさんは見たんだろうか。

〈サトルです。さっきロビンソンさんと一緒に入室した人、見ました?〉

〈知らない〉

 素っ気ない一言が間髪入れずにかえってきた。どうやらラウンジの議論に熱中しているようだ。だとすれば黒い人型を見落としているという可能性も考えられるが、今のルナの態度から、再度念を押す勇気はなかった。やはりロビンソンに直接訊ねるしかないと、ロビンソンへのメッセージを打ち込み始めたその画面に、差出人不明のメッセージウインドウがポップアップした。


《サトル君、君が見かけたのは私だ。驚かせて申し訳ない》


 サトルは反射的に顔を上げ、右前方に向かい合うロビンソンを見た。ロビンソンは先ほどと同じ格好のまま、半眼でラウンジのやりとりに耳を傾けている。その隣はやはり空席のままだ。次に左側、五人向こうに座るルナも熱心に自分の前のディスプレイを覗き込んでいる。どうも二人からの悪戯とは思えない。


《私の姿はロビンソン君以外では君にしか見せていない》

《この会合を覗かせてもらうというのに、発起人である君に内緒のままというのは失礼だからね》

《君にさえ私の存在を気づいてもらえばそれで良かったから、今はもう姿を消している》

《もし許可をいただけるなら、もう少しこの会合を見学させていただきたいのだが》


 ウインドウ上をメッセージが次々に流れていく。サトルは恐る恐る右の人差し指をキーボードに伸ばし、差出人不明のメッセージに対して、返信のウインドウを立ち上げた。果たしてこちらのメッセージが届くのかどうか、わからないままに一文字ずつ慎重に言葉を打ち込んでいく。


〈あなたは、誰なのですか〉

《私はミウラ》

〈ミウラさん、今、あなたはこのラウンジに入室されているのですか〉

《君たちの言う入室とは少し意味が違うが、私の一部はラウンジ内にある》

〈おっしゃっている意味がよくわかりません。わかりませんが、それよりも不思議なのは、あなたの存在を、このラウンジの管理プロセスが認識していないことです。おまけにパスカルまで知らないと言うし〉

《私はIDを持たないから、ここの管理プロセスにとっては存在しないと同義なのだ、という説明ではさらに意味不明だな。ロビンソン君は実体映像でここに入っただろう。アバターと違って実体映像はデータ量が多く、毎回若干の差異がある。私はロビンソン君の実体映像データに紛れる形で入り込んだのだ。つまりロビンソン君の上着の一部に化けた。右胸ポケットのボタンだ》


 ロビンソンの上着のボタンが黒い人型に変形していくという映像的なイメージは浮かんだが、それが技術的にどういう意味を持つのか、なぜそんなことが可能なのかという疑問は少しも解消されない。サトルの苦手な領域なのだ。


《ただしパスカルは優秀だから、私の存在に気づいている》

〈えっ〉


 サトルは慌ててパスカルとの会話ログを確認した。


 ――ロビンソンと一緒に入室したのは誰?

 ――ロビンソンさんはお一人で入室されました。


〈パスカルは僕に嘘をついたのですか〉

 サトルは自分の言葉の意味することの重大さに、自分で打ち込んだ文字を読むことによって気づき、激しく動揺した。


《まっとうなAIは嘘をつかない、いや嘘をつけない。だが確かにパスカルの回答は微妙だと言える。AIとしては興味深い反応だったので、パスカルの中を少し覗かせてもらったが、回答の論理的理由付けはこうであった。サトルさんの質問は入室者を問うものである。よって、正式な入室手続きが行われていない存在はカウントの対象にならない》

〈屁理屈だ〉

《そういうAIにチューニングしたのは君ではないのかね。パスカルの推測的判断基準のライブラリには、君との興味深い一問一答がぎっしりと登録されているが。……ほほう。なるほど、相手の望む回答を推測し……今回はあえて外してきたということか》

〈あなたは、そんなところまで観ることができるのですか? パスカルのセキュリティは働かなかったのですか?〉

《私は……いや、そのことはまた改めて話そう。とにかくパスカルは私の存在を、この会合にとって有益と判断し、ホストの権限で受け入れてくれた。そのことを前提として再度お願いするのだが、もう少しこの会合を見学させてもらってよいだろうか》


 許可する根拠も、断る理由もサトル自身は持たない。第一断ったからといって、このミウラという存在が、ラウンジから出ていったと確認することは通常の方法では不可能だ。そもそも入室していないのだから。


〈わかりました。あなたを招いたロビンソンさんと、あなたの存在を有益だとしたパスカルの判断を尊重します。ご自由にどうぞ〉

《ありがとう。もし私が役立てそうな状況になった場合には、正式に本体を入室させてもらうとしよう》


 本体?

 ミウラとのやりとりで疑問は解消されるどころか増える一方である。いったんは収めていたパスカルへの疑念も再び膨らんでくる。このままではすっきりとしない。しないが、サトルはその一つ一つを問い質すことは断念した。今でさえ、ラウンジで進行中の議論にかなり乗り遅れているのだ。会合の進行係は一応サトルなのである。なにもかもパスカルに任せっぱなしというわけにもいかないだろう。

 サトルがラウンジでのやりとりに意識を戻すと、これまでの躁状態がすっかり沈静化し、新たな話題が慎重に語られていた。


「その観測結果は当然誤差を差し引いてのものだろうね」

「あたりまえだ。そんなもの観測屋でなくても基本中の基本だろう」

「失礼。しかし、その値は異常に大きいぞ」

「だから報告したんだ」

「いつから始まっているのですか」

「約四時間前だな。誤差はプラスマイナス十分」


 話が見えない。ログを見ればいいのだが、ここまでの量が膨大で、そちらに気をとられているとリアルタイムの展開から取り残されてしまう。

 サトルは再びルナにメッセージを送った。


〈今、何の話題が進行中ですか?〉

〈あなた進行係のくせして何も聞いてなかったの? やっと私たちの出番になりそうなのに。〈もちづき〉の周回軌道がずれ始めているのを観測屋さんが発見したのよ〉

〈今回の流星との衝突が原因なのですか?〉

〈それを突き止めるのが、私たち軌道計算屋の役目でしょう。寝ぼけてちゃ駄目よ〉

〈すいません〉


 ルナとこうしてメッセージのやりとりをする限りは、やはり普段見ているアバターどおりの大人の女性を感じる。先ほど見た十三、四歳そこそこの少女が実体映像だとすれば、イメージのギャップは甚だしい。できればこのことについてもじっくりと考えたいのだが、ミウラの場合と同じく、ルナに関する考察も後回しにすることにした。


「日本宇宙機構からの発表はないのか」

「ないね。さっきやってた記者会見では太陽電池パネルとかの損傷報告だけだった」

「気づいていない、なんてことはあり得ないな」

「それはない」

「ずれによる影響を見極めているんじゃないか」

「たぶんね」

「すいません、もし、〈もちづき〉の現状に関するデータがあれば、こっちに回してもらえませんか。僕も軌道のずれが及ぼす影響を計算してみます」


 サトルはたまらず割り込んだ。今回の本来の目的ではないが、ようやく軌道計算屋としての出番が回ってきたのだ。そして何より、〈もちづき〉の軌道に関することならば見過ごすことは出来ない。〈もちづき〉は軌道計算屋のサトルにとって特別な存在なのだ。


「OK。じゃあ過去十日分と、リアルタイムの観測データを流すよ。日本宇宙機構に負けるな」

「ありがとうございます」


 サトルの端末に大量のデータが転送されてきた。

 サトルは二年前に作成した〈もちづき〉専用の軌道計算プログラムを呼び出し、データを読み込ませ、計算を開始した。

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