地上 その二の五

「ロシアは自国の宇宙ステーションへの交代要員搬送のために、二週間後に定期便を打ち上げる予定があり、三日以内に貸与可能な機材はないとのことです。アメリカも最短で四日の準備期間が必要だそうです。ESA(欧州宇宙機関)は調整可能かどうかの検討中、ただし可能性は低いと言ってきました」


 センター長室の椅子に腰掛けた富永は、報告者により次々と読み上げられる各国からの回答を、目を閉じたまま、黙って聞いていた。


 前任者が設置していた書棚や観葉植物、応接セットなどの調度品すべてが取り払われた室内は、組織幹部の部屋というよりは、囚人が塀の中での退屈しのぎに始めたというスカッシュのコートを思わせた。

 この寒々しい空間でデスク一つを挟み、蝋人形よりも反応がない富永と二人きりという状況は、できれば一秒でも早く解消したいと誰もが願うだろう。報告者の声は時折掠れ、徐々に早口となっていった。


「最後にインドからの回答です。現在、先日発生した事故の原因究明中であり、対応困難である。貴国の危機的状況に対し、協力できないことを遺憾に思う」


 富永の眉がぴくりと反応し、薄く開いた瞼の奥から、冷ややかな視線が投げかけられた。視線の先に立つ報告者は思わず背筋を伸ばし、唾を飲み込む。


「二週間前に事故を起こしたばかりの機関に依頼を出してどうする」

「申しわけありません」

「中国は何か言ってきたか」

「まだ回答がありません。中国もデブリ回収衛星の打ち上げ準備で、対応は無理なのではないでしょうか」

「君の憶測は不要だ」

「は、申しわけありません」


 富永は再び目を閉じた。

 退室のタイミングを逸した報告者は、次にとるべき行動を決めかねて、直立不動のまま目を泳がせた。指先をほんの少し曲げただけでも、再び富永の凍りつくような視線に刺し貫かれそうな気がして、呼吸さえも遠慮がちとなっていた。


 無音の時間が過ぎてゆく。


 終わりの見えない静寂に耐えかねて、喉も裂けよとばかりに大声を出したいという衝動が報告者の中でじりじりと高まる。

 あと一呼吸で臨界を越えるかと思われたとき、富永のデスクの上に置かれた内線電話がカチリと鳴り、続いて控えめな呼び出し音を響かせた。報告者はもちろん、天井、壁、デスクまでもが息を潜めて、澄んだ電子音に耳をそばだてるかのような緊張が走った。

 富永はごく事務的に右手を伸ばし、受話器を取り上げた。


 ――中国航天局のリン・チェンミン統括局長より電話が入っています。お取り次ぎしますか?


「もちろんだ」

 富永は受話器を左手に持ち替え「ハロウ、ミスター・リン」と軽やかな口調で電話を受けた。


 静寂の呪縛から解放された報告者は、そっと肩の力を抜き、固まっていた手指の関節を秘かにほぐしながら、電話に向かう富永を盗み見た。時折笑い声さえ交えながら流暢な英語で受け答えをする様子は、別人格が乗り移ったかと思うほどの変貌ぶりで、見てはいけないものを見てしまったという居心地の悪さが背筋を這い上って来る。すっかり小心者となった報告者は、一刻も早くこの部屋を逃げ出したいという欲求と、中国の回答内容に対する好奇心とに挟まれて、結局、身動き一つとれないままという状態は継続されることになった。


 延々と二十分近く続いた電話は、富永の「謝謝」の言葉で唐突に終わった。次の瞬間には、富永の顔にあった柔和な笑みは完璧に拭い去られており、代わりに眉間の縦皺が復活していた。日中友好ムードで緩んでいた室内の空気がぴんと張り詰め、報告者は反射的に気をつけの姿勢をとった。


「中国がシャトルの提供を申し出てきた。我々はこれを受けることにする。現在検討中というESAに提供不要の連絡を入れてくれ。中国の名前を出しても構わないが、失礼の無いように言葉を選ぶこと。それから――」

 富永は一旦言葉を切り、目を細めた。

「オペレーションセンターの近藤主任を呼んできてくれ。大至急だ」

「はい!」

 報告者自身が驚くほどの大きな声が出た。富永はもうデスクの上のディスプレイに向かっている。報告者は背中に定規を当てたような一礼の後、軍隊風の回れ右をして、ドアに向かって左足を踏み出した。これで仲間の命が助かるという喜びが、その足取りを弾ませた。



 近藤の目に映る富永の姿は、四時間前に二十数名の職員を鼓舞した時のそれと比べて、明らかに憔悴の色合いを深めていた。

 中国からシャトル貸与の回答が得られたという先行き明るいはずの展開の裏で、何か問題が進行しているのだろうか。富永が自分を呼んだのは、そのことに何か関係があるのだろうか。

 近藤は自分を呼びに来た職員の活力に満ちた笑顔と、目の前にある富永の険しい表情とのギャップに、これから語られる話が、決して良いニュースではないだろうことを予感した。

 呼びつけた近藤を立たせたまま、デスク上のディスプレイに視線を走らせていた富永は、何かを吹っ切るように鼻から息を吐き、顔を上げた。


「待たせて申し訳ない。中国からシャトルの提供を受けるという話は聞いているな」

「はい」

「緊急脱出装置の復旧が不可能というのは」

「それも聞いています」

「なら良い。中国航天局では四十時間後のシャトル発射に向けて準備を開始した。我々の方はまず、〈もちづき〉が原因不明の高度低下状態にあることを公表する。その中で、高度低下の原因調査と状況改善に全力で取り組んでいるというコメントを添える」


 古い情報だが、内容に嘘はない。

 情報発表のタイミングに関しては、もう富永にあれこれ言うつもりはなかったので、近藤は黙ったまま富永の口の動きを見ていた。


「これを受ける形で中国航天局が、今回の〈もちづき〉のトラブルによって、さらに不測の事態が発生した場合には、全面的な協力を行う準備がある、という内容のコメントを出すことになる。その後、こちらでタイミングを計って、緊急脱出装置の不具合発覚を公表する」


 なるほどと思う。

 万策尽きた時点で、素早く中国が搭乗員救助用のシャトル提供を申し出るというシナリオなのだ。他国の宇宙機構も事前に打診を受けており、しかも提供不可能あるいは困難との回答を行っているから、口出しはできない。特段の波乱もなく事態は推移していくことだろう。見方によればあざとい演出ではあるが、いかにも中国好みの展開だった。この対応に加え、先に発表しているデブリ回収衛星の打ち上げとの合わせ技により、宇宙開発への貢献度という面で、中国がライバルのアメリカを大きく引き離すことになる。その結果、間違いなく中国の発言力は増す。当面の自国のシャトル発射スケジュールに若干の変更が余儀なくされるとしても、十分メリットはあるだろう。


「と、ここまでは表向きな動きだ」

 富永がつまらなそうな口調で言う。

 表には出せない根回しの部分を聞かされていると思っていた近藤は、まだ話が本題に入っていなかったのだと知り、掌にじわりと汗をにじませた。

「搭乗員の長谷川君は君の後輩、原田君は教え子だったな」

「あ、はい。そうです」

 いきなり話が個人的なレベルに下りてきて、近藤は流れを読めないまま、あわてて返答した。

「では今から話す内容を彼らに伝える役目を受けて欲しいのだ。そして矛盾するようだが、今回に限りその役目を断ってくれても構わない。その場合、私が直接彼らに伝えよう」


 まわりくどい。富永らしくない。いやな予感はますます高まる。

「中国が貸与を申し出たシャトルは、宇宙ステーションへの物資運搬に用いられる貨物専用有人シャトルなのだ。よって基本的に人員の輸送は想定されていない。通常、操縦士と副操縦士の二名が乗り込む仕様となっているが、今回は緊急事態ということで、地上からは操縦士一名のみが搭乗し、〈もちづき〉搭乗員の救助に向かう。――つまり、そういうことだ」


 つまり、どういうことだ?


 定員二名のうち、一名分は操縦士に割り当てられる。操縦士は当然往復ともにこの枠を使用する。となれば帰還する搭乗員のために確保されている席は一名分――

 つまり、そういうことなのか。

 近藤には言うべき言葉が見つからなかった。


「高度低下が解消されず、大気圏突入が不可避と確定した時点で〈もちづき〉の二人にこのことを伝える。中国のシャトルで帰還する一名は、国際宇宙規則に従い下位者の原田君となる。長谷川君の家族には私が事情を伝えよう。そこで――」

 近藤は次に発せられる言葉を聞くために顔を上げ、目を大きく見開いた。

「〈もちづき〉の二人には、君からこの事実を伝えてもらうのが一番良いと思うのだが。いかがだろうか」


「私が伝えます」


 即答だった。近藤に迷いはなかった。この役目だけは自分がやらなければいけないという確信があった。こうして呼び出してくれた富永に心から感謝した。

「よし、ではこの話はここまでとする。すぐに現場に戻って、引き続き高度低下の原因究明、及び高度回復措置の指揮を執ってもらいたい」


「はい!」


 腹の底から声が出た。直後、近藤の全身を武者震いが走り抜けた。

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