地上 その二の三
「なぜ〈もちづき〉の高度低下の件を伏せられたのですか」
地上管制センター現業部門の総責任者である近藤は、記者会見会場から出てきた富永センター長を廊下の隅に引き込み、押し殺した声で問いかけた。感情を抑えた口調ではあったが、目には凄みのある光が宿っている。宇宙飛行士養成センターの教官時代には、研修生から鬼軍曹というレトロなあだ名を付けられ、恐れられていた近藤である。感情が高ぶると無意識のうちに放射する威圧感は少しも衰えていない。
「なぜ、だと? 君はあの記者たちと同レベルの質問をするのか」
富永は不愉快そうに目を細め、詰め寄る近藤に氷柱のような視線を向けた。細く整えられた眉がわずかに歪んで軽蔑を乗せている。だが近藤は臆する風もなく、さらに半歩を踏み込み富永の眼前に迫った。
「最優先で公表すべきは、すでに解決した事象ではなく、今まさに進行中である高度低下の事実でしょう」
「何もわかっていないな」
ふっと短い息を吐き、富永は肩を落とした。
「どういう意味ですか」
「君もいずれ組織の長となるつもりなら、これを機会に情報発信のタイミングというものを学習するがいい。高度低下に関しては、その原因も、我々の対処方針も何も決まっていないのだ。そんな状態で、状況のみ公表してどうする? 必ず出てくるくだらん質問に何も答えられないとなれば、馬鹿な記者どもが憶測ばかりのニュースを流し、騒ぎが大きくなるだけだ。公表によるメリットは何もない」
「ですが、いずれわかることです。あとでこの件だけを遅れて公表すれば、なぜあのとき隠していたのかと誰もが思うのではないですか」
「今回は、流星との衝突が直接的な原因となった被害を公表したのだ。しかも調査が完了したのは全体の四十パーセントで、被害の全容解明にはまだ時間がかかるというコメントも添えている。そこに原因の特定出来ていない高度低下の件を含めなかったからといって非難される筋合いはない」
「それは部内の事情であって、世間から見れば〈もちづき〉に発生した事故・異変であることに変わりありません」
いつの間にか、近藤の背後には手すきのセンター職員たちが詰めかけ、二人のやりとりを無言で見守っていた。富永は顔を上げ、一人一人を値踏みするように廊下の奥にまで視線を投げていく。そして今度は、ふうと深く長いため息をついた。
「大半の者が、近藤君と同じ意見のようだな。――では、私の考えをすべて話そう。その上で異議があるなら、言ってみるが良い」
富永は二十人を超える人間の無言の圧力に怯む素振りも見せず、いやむしろ好戦的な光を目に宿らせて、蕩々と語り始めた。
「君たちは専門家であり、技術者でもあるから既に承知していると思うが、〈もちづき〉の高度低下はすなわち周回速度の低下を意味する。つまり何らかの要因により、〈もちづき〉にブレーキがかかったのだ。タイミングとしては、今回の流星との衝突が疑われるし、なにより流星の出現数が記録的なものであった。だから一見、流星が怪しい。しかし、現在までの解析によれば、〈もちづき〉に衝突した流星の総運動エネルギーは、〈もちづき〉ほどの質量を持つ物体の周回軌道にほとんど影響を与えるものではないことがわかっている。突進するゾウに、何十匹かのネズミが体当たりしたようなものだ。いや、スケールからいえばクジラにメダカが衝突といったところか。とにかく、流星との衝突は、〈もちづき〉の高度低下をもたらした直接的な原因ではない。――ここまでは良いな」
誰一人として発言する者はなく、富永の声だけが廊下の奥へと吸い込まれていく。近藤は一言も聞き逃すまいと耳に神経を集中させている。少しでも論理に破綻があれば、そこを突破口にして反撃に出るつもりだった。
「速度低下の主たる要因が外部からの力によるものでないとすれば、〈もちづき〉自身がブレーキをかけたと考えるしかない。これは姿勢制御用のエンジンを使えば可能だが、通常、そんな操作は行わないし、姿勢制御装置の操作ログにも当然記録はなかった。そして、ここから先は現在調査中ではあるが、一番可能性の高い原因として、搭乗員の事故復旧作業中における人為的ミスが考えられる」
近藤の頭に、後輩である長谷川と教え子の原田の顔が浮かんだ。
「現場の責任者である私は、そのような調査まで行われていると、聞かされていませんが」
近藤は鼻の穴を膨らませ、富永を睨んだ。
「だから今ここで教えているではないか。記者発表前に人為的ミスなどという言葉を君たちの耳に入れるわけにはいかないだろう」
「私たちが信用できないということですか」
「君たちが信用できないのではない。人間というものが信用できないのだ。人間は恥知らずな嘘は平気でつくくせに、必要なときに限って嘘のつけない、やっかいな動物なのだ」
近藤は何か言おうとしたが、適当な言葉が出てこず、そのまま口をつぐんだ。
「いいか、今の段階で、〈もちづき〉に異常な高度低下が見られること、原因として人為的ミスの可能性もあることを世間に公表したとする。その結果どういう事態が発生すると思う? いや、答えなくても結構。誰にでもわかることだ。先ほどの質疑応答の比ではない抗議や非難が殺到し、今頃その対応に時間をとられ、本来やるべき〈もちづき〉の事故対応が疎かになるのは明白だ。せめて原因を突き止め、対応方針を決めてから、事実を公表すべきである。そうは思わないか」
背後に集まった人々の間から「なるほど」という呟きがいくつも漏れたのを、近藤は聞き逃さなかった。
「君たちは優秀な技術者だ。さきほど私は人間を信用できないといったが、それは心の弱さの部分を指す。君たちの技術力そのものは百パーセント信頼しているのだよ。その能力を十分に発揮してもらうためにも、心を乱す情報は極力君たちの耳には入れたくなかった。だが、今は違う。この先は、君たちの技術力だけでなく、我々の仲間の命を絶対に救うという、強い意志が必要なのだ。そう判断したから、全てを話している。問題解決のために残された時間は少ない。君たちの持てる技術力、経験、そして日本宇宙機構の職員であるという誇りを見せて欲しい。以上だ」
自分の言葉の威力を確かめるように、富永は再び一人一人の顔に視線を当てていった。いつの間にか廊下には、静かな熱気が満ち始めている。近藤はこれ以上、反論や追求をすることの無益を悟った。現場の職員たちが納得し、やる気になったのなら、それで良しとすべきであろう。
「質問がなければ、それぞれの持ち場に戻ってもらいたい。今後の作業指示は近藤主任を通じて行う。――では、解散」
富永の言葉に弾かれたように、人々は散った。近藤も一礼し、オペレーションルームへ戻ろうと富永に背中を向けた。
「近藤君、君にはあと少しだけ話がある」
振り向くと、つい今しがたの熱弁が夢であったかと目を擦りそうになるほどに冷め切った表情の、富永の顔があった。
「現場の責任者である君には、今後の見通しを知っておいてもらおう」
「はい」
「これから各国の宇宙機構に〈もちづき〉への往復が可能な人員輸送用シャトルの貸与を依頼する。万が一、高度回復が望めない場合の搭乗員の救出用だ。当然のことだが、これは水面下で行う極秘事項であるから君までのこととして留めておいてくれ」
「えっ、なぜですか?」
「おい、正気か? シャトルの貸与を要請したことが表沙汰になれば、今度はいったい何があったのかと、さっきの記者連中が大喜びで舞い戻ってくるに決まっているだろう」
「いえ、そのことではなく、〈もちづき〉には搭乗員の緊急脱出用カプセルが装備されています」
「それが制御不能となっている、と、つい今しがた報告があった」
「は?」
「高度低下が判明した直後に、地上から、緊急脱出装置への動作チェックを行ったのだが、応答がないということだ。現在、地上からリモート制御を試みている」
「流星との衝突が原因でしょうか」
「まだ因果関係はわからない。だからこれも公表リストには載せていない。君も知っているように、緊急脱出装置の電源は普段落としていて、リアルタイムでの障害監視は行われていない。なので不具合発生のタイミングが不明なのだ。確かなのは、三週間前の定期セルフチェックでは異常なしとの報告がなされている、ということだけだ」
「当然〈もちづき〉の二人には、そのことを……」
「まだ知らせていない。障害ログが多すぎて彼ら自身も気づいていないだろう。気づけばすぐに報告があるはずだ。とにかく今は、電力供給の復旧が先決だ。十分な電力がなければシステムの制御能力がフルに発揮できない。緊急脱出装置の件は、電力復旧後、上でも調査をさせる。だから現段階のシャトル要請はあくまでも保険だ」
「ちょっと待ってください。万が一、緊急脱出装置の復旧ができなくても、我々の保有するシャトルで二人の救出は可能です」
「間に合わないのだ」
富永の声がわずかに沈んだ。
「我々のシャトルが、三ヶ月後の定期フライトに向けたメンテナンス中であることは知っているだろう」
「はい。予定では、あと二日でメンテナンスは終了します。今すぐ工場に連絡を入れて作業を急がせれば半日は短縮できます。その後の発射台への移動、燃料注入を計算に入れても、三日後に発射、四日後には〈もちづき〉の軌道に乗ることが可能です」
富永はすっと顔を寄せ、近藤の耳元でささやいた。
「四日後では遅いのだよ。〈もちづき〉は約七十二時間、つまり三日後に大気圏に突入する」
「七十二時間? 百二十時間ではなかったのですか」
顔のすぐ横に富永の体温と整髪料の匂いを感じながら、近藤は小声で聞き返した。
富永自らが、管制センターのオペレーターに〈もちづき〉の大気圏突入は百二十時間後である、と伝えたのを確かに聞いている。その情報はオペレーターによって、〈もちづき〉の二人にも伝えられたのだ。
富永は近藤の問いにすぐには答えず、一歩退いて近藤の真正面に立ち、冷ややかな笑みを浮かべた。
「人間は助かる見込みがないと知ったときでも、正常な判断や行動ができると思うか?」
「〈もちづき〉の二人に嘘をついたのですね」
「彼らの能力が百パーセント発揮出来る環境を整えたのだ。誤解があるといけないから言っておくが、彼らを見殺しにするつもりはない。最後まで高度回復の方策を検討し、緊急脱出装置の復旧を試みる。それと平行して、救助のための協力を各国に要請する。シャトルの調達に目処がついた時点で、〈もちづき〉の二人には正確な残り時間を伝えよう。だから――」
富永は右手を伸ばし、近藤の左肩に掌を乗せた。
「君にも協力してほしい」
見え見えの演出だと思いながらも、肩から伝わる富永の体温は、近藤の自尊心をくすぐり、職務に対する士気を鼓舞した。そうなればもう、この上司に従うしかない。
「では今から現場に戻ります。〈もちづき〉への今後の指示はどうすればよろしいでしょうか」
「彼らには、帰還準備のための作業を絶え間なく与え続けるのだ。事故関係の調査は全て地上で行うと伝えればいい。とにかく先のことを考える余裕を与えるな。向こう三ヶ月で予定していた作業をどんどん前倒しにすればいいだろう。大気圏突入までの百二十時間で〈もちづき〉に最大の成果を出させてやれ、とでも言うんだ」
敵わない。
近藤は完全に戦意を喪失した。富永という人間は、そもそもの目線が違うのだ。
――君もいずれ組織の長となるつもりなら、これを機会に情報発信のタイミングというものを学習するがいい。
富永の言葉の意味が少しだけ理解できたような気がしたが、自分には組織の長など到底無理だということも同時に思い知らされた。
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