地上 その一の一
仄暗いラウンジの中央にある円形のステージに、一人の女性が姿を現した。
深紅の生地に金の刺繍をちりばめたチャイナドレスに身を包み、深く切れ上がったサイドスリットを見せつけるように左右の足を交互に踏みだしながら、ステージの端に向かって進んでくる。
今夜の集まりにおける紅一点、ルナである。
ステージの縁ぎりぎりで立ち止まったルナは、大きく張り出した胸の下で細く形の良い腕を組み、薄暗がりの底に沈む他の参加者達を悠然と見下ろした。金と褐色の混ざり合った髪は固く結い上げられ、完全に露出した耳朶の下で三日月のイヤリングが揺れている。幼げな白く小さな顔立ちと一滴の血を乗せたような真紅のルージュの組み合わせが背徳的で蠱惑的だった。
「中国航天局の動向がわかったわ。来月からデブリ回収衛星二十機を四週間間隔で順次打ち上げるそうよ」
ほう、といういくつものため息が、ルナの足下から立ちのぼる。
ルナの発言を受けて、ラウンジのホストはステージの中央にホログラム立体投影の地球儀を映し出した。空中に浮かぶ直径約二メートルの球体は、複数の人工衛星から送られて来る地球のライブ映像を合成した、ほぼリアルタイムの地球の姿そのものである。今、日本を含む東アジア一帯は夜の地帯にあり、北京を示す円形のマーカーが、黒い半球のほぼ中央で、闇に潜む魔物の目のように赤く脈打っていた。
「これで中国はインドに恩が売れるし、アメリカには対応の早さと宇宙開発への貢献度で大きな差を見せつけることができるってわけね。そしてこの先数年間は、きっとデブリの軌道計算技術を持つ人間が重宝されるようになるわよ」
ルナは、自分の拾ってきた情報の持つ価値が参加者達に浸透するのを待つように、それきり口を閉ざした。
二週間前、インド宇宙局によって打ち上げられた人工衛星が原因不明のトラブルに見舞われ、地球の周回軌道上に乗った直後に爆発し、大量のスペースデブリ――宇宙ゴミ――を辺り一帯に撒き散らしていた。
二〇一〇年代後半以降、世界各国の宇宙開発競争が激化するのと歩調を合わせ、同様の事故が多発し、スペースデブリは急速にその数を増やしている。二〇三二年一月現在、軌道要素が確認されている大型のスペースデブリは約五千万個、軌道要素が不明なものまで含めるとその数は優に百億個を越えると推定されている。これらが稼働中の人工衛星や宇宙ステーションに衝突すると甚大な被害を引き起こすため、スペースデブリの回収は、各国の宇宙開発機構にとって最大の懸案事項となっていた。
「中国のデブリ回収衛星の映像を見つけたよ」
薄闇の奥から発せられた甲高い少年のような声はスバルのものだった。シャイなスバルは決して人前に姿を晒そうとはせず、「性別・男」というプロフィールだけを公開している。毎回奇抜な格好で参加するルナとは正反対のキャラクターであった。
スバルの発言を受けて、ラウンジのホストはステージ中央の地球儀を消去し、代わりに、朱と緑と青とに彩色されたトランペットのような形状の宇宙船を投影した。宇宙船は、巨大な漏斗状の吸入口を見せつけるようにゆっくりと回転し、側面に〈美船一号〉の金文字を輝かせている。その隣に立つチャイナドレス姿のルナは、まるで中国航天局主催のプレゼンコンパニオンにしか見えず、ラウンジのあちこちから忍び笑いが漏れた。
偶然のコミカルな演出にルナは機嫌を損ね、スバルが居ると思われるあたりの闇を睨みつけると、そのグラマラスな肢体を惜しげもなく、ステージ上から――削除した。
だが誰からも特段のリアクションはない。いつものパターンだと受け止められたのだろう。ここアストロラウンジは、ネット上に構築されたいわゆるバーチャルコミュニティで、参加者たちはアバターと呼ばれる映像的仮想キャラクターの姿で入室し、情報交換や雑談を楽しむことになっている。目立ちたがり屋はルナのようにステージ上でパフォーマンスを加えた発言を行うし、そうでないものはスバルのように発言のみの参加で済ませるのだ。
「それにしても宇宙船にこの配色、凄い色彩感覚だな」
「中華街のイメージじゃないか?」
「とにかくインパクトはあるな。夢に見そうだよ」
「吸入口の形状からすると、電場ネットを使った回収方式みたいだね」
「スバルさん、何か性能がわかるようなデータはなかったの」
「今のところ、この映像しか見つかりません」
「よし、次は誰が諸元データを獲ってくるかだな。勝負するか?」
アストロラウンジに集うのは、主として太陽系内の天体の軌道計算を趣味あるいは収入の糧とする、いわゆる「軌道計算屋」と呼ばれる種類の人間達で、広い意味での天文マニアである。
ルナの推測通りに事が進むなら、確かに彼らの特技への需要が増すかもしれない。そんな期待と新しいモノへの野次馬的関心で、ラウンジの空気は徐々に熱気を帯び始めた。
――ロビンソンさんが入室しました。
ホストが新しい参加者の入室を告げた。
赤いバンダナで頭を包んだ髭面の大男が、デブリ回収衛星を押し退けるようにしてステージの中央に姿を現した。大航海時代の海賊そのものの出で立ちが、野次馬的雑談で盛り上がっていた軽い空気を一瞬で制圧する。ロビンソンのこの仰々しいアバターは作り込んだキャラクターではなく、本人の実写を取り込んだものらしいという噂もあり、参加者の中にはロビンソンが入室するだけで怯えてしまい、口が利けなくなるという者もいた。
ステージ上のロビンソンは、静まりかえったラウンジをぐるりと見渡すと、「全員、今すぐラウンジを出て、外を見るんだ」と低く吠えた。前置きもなにもない命令口調は、のどかな春の花壇にいきなり投げ込まれた巨大な岩のように異質で暴力的だった。
「おい、何やってる。もたもたするんじゃねえ」
駄目押しの高圧的な物言いに、参加者たちはしばしの沈黙の後、一斉に反発した。
「なんですか、いきなり」
「何様のつもり?」
「わけわかんねえ」
ロビンソンは殺到する抗議を平然と聞き流し「急げ、でないとお前ら全員、一生後悔するぞ」と怒鳴り返した。
「後悔するのはお前だ」「こんな奴、ID剥奪してしまえ」
ロビンソンの態度に、参加者たちの発言も徐々にヒートアップしていく。
「やかましい。おい、今夜のホストは誰だ。今すぐ屋外の空の映像を、ここにいるやつらに見せてやれ」
「ホストは私です。日本上空のリアルタイム映像を投影するのですね」
「おう、パスカルか。お前さんがホストならちょうどいいや。早く頼む」
「おい、パスカル、そんなやつの言うこと聞くな」
「ここから追い出せ」
「デリート!」
「デリート!」
「デリート!」
――現在の日本上空の実写映像を天井に投影します。
パスカルと呼ばれたホストのフラットな声がラウンジに響くと、ステージ中央に立つロビンソンは胸の前で大きく腕を組みなおし、天井を見上げた。頭に血を上らせた参加者たちのアバターも、その自然な動きにつられて一斉に首を反らせてしまった。
それぞれの視線の先、ラウンジのドーム型天井に映し出された夜空の光景に、誰もが息を呑んだ。一呼吸おいて、声にならないどよめきがラウンジの隅々にまで伝播していく。
信じられない。
誰かの発した言葉が一つだけ、発言ログに記録された。
やがて参加者たちのアバターは、一人、二人と、無言のままラウンジから姿を消し始めた。その様子を確認したロビンソンは、小さく頷くと、ホストのオペレーションエリアに向かって穏やかな声で話しかけた。
「パスカル、今夜はお前がホストで良かったよ」
「ロビンソンさんは今どこに?」
「マレーシアにチニ湖っていうのがあってな、そこに浮かべたボートの上だ。暖かいのはいいんだが、蚊が多くてかなわんよ」
「わざわざ、ここのみなさんに知らせにきていただいたのですね」
「ふん、サトルに教えてやろうと思っただけさ。で、肝心のサトルはどうしてここにいないんだ?」
「三日前からちょっと風邪気味で、それ以来体調を崩されているのです。ですが、今から知らせます」
「早く教えてやりな。そのあとで、俺と勝負だ、と伝えてくれ」
「了解しました」
いつの間にかラウンジの参加者は、ロビンソンとパスカルの二人だけとなっていた。
「じゃあまたな」
ロビンソンの姿がふっと闇に溶けて消えた。
パスカルは自身のホスト権限を解除し、ラウンジを自動対応モードに切り替え、退室した。
〈二〇三二年一月十日、午後十時五十三分 入室者なし〉が、ラウンジの管理ログに記録された。
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