地上 その一の二
……トル…………サト……さん……サトル……
白い霞がかかった視界の中心に、エメラルドグリーンの光点が二つあり、それをぼんやりと見つめるうちに意識の輪郭が次第にはっきりし始めた。
ああ、目が覚めかけている。そう自覚したとたん、サトルは先ほどから繰り返し聞こえていた何かが、自分の名前であることに気がついた。
「お目覚めになりましたね。お休みのところ申しわけありませんが、緊急事態と判断しましたので、起きていただきました」
緊急事態?
さっと晴れた霞の向こうに、見慣れたパスカルの顔があった。
パスカル――汎用型生活支援ロボット――の、灰白色で繋ぎ目のない滑らかな頭部に嵌め込まれたカメラアイのフローライト製レンズが、透き通った緑色の光を放っている。緑色は国際ロボット規格のセーフティーカラーだ。ならば緊急事態とはいっても、サトルの身に危険が及ぶ類のものではないはず。パスカルの第一優先事項はサトルの保護なのだ。何も心配することなどない。
いつの間にか固く張っていた肩の力を抜いて、サトルは再び目を閉じた。まだ微熱があるのか、後頭部から背中にかけて、怠さを帯びた筋肉痛が留まっている。つい先ほどまで見ていたらしい夢の、不快な焦燥感だけが澱のように頭の中を浮遊している。気怠い。何もする気になれない。
「失礼します」
声と同時に、ひやりと冷たいものがサトルの首筋と膝の裏に差し込まれると、いきなり身体がベッドから引き抜かれた。夢の中で空を飛ぶような浮遊感の後、背中と腿の裏側に、一日の大半を過ごすロボットチェアの堅い座面が当てられた。間をおかず、身体の前面に蓄熱毛布がふわりと掛けられる。
サトルは七歳の春に交通事故で下半身の運動機能を失い、以来十年間、パスカルが日常生活のサポートを行ってきた。サトルの寝起きの反応が鈍いこと、急激な移動が軽いめまいを誘発することはもちろん、ここ数日のサトルの体調を良く知るはずのパスカルにしては強引過ぎる行動だった。
驚いて目を開いたサトルに向かって、パスカルは左右の掌をぴたりと合わせ、軽く頭を下げた。
「時間がないのです、ご理解ください。今から外へ出ます」
「外?……」
事態が飲み込めず、言葉を失うサトルを乗せて、ロボットチェアはベランダに面した窓に向かって滑るように動き出した。パスカルがその先へ回り込み、壁一面分ある偏光ガラス製の窓のロックを解除する。虹色の縞模様を浮かべていた窓の中央に、縦に一筋、漆黒の亀裂が走り、悪魔の口笛のような音とともに氷点下の外気が吹き込んできた。一瞬で蓄熱毛布の表面が真っ白に毛羽立ち、思わず目を閉じたサトルの睫毛に微細な針状の霜がおりる。ロボットチェアが唸りをあげて座面の温度を上昇させるが追いつかない。
サトルが咳き込むのにも構わず、パスカルはそのまま窓を全開にすると、地上百二十メートルの空間に突き出たベランダに向かってロボットチェアを一気に走らせた。室内での移動とは思えない加速がサトルの背中を座面に押しつける。そして急停止。前のめりに倒れそうになる。
なんだよ、これは?
強い違和感に、サトルの全身から嫌な汗が噴き出した。
まさか、AI(人工知能)の暴走?
サトルは、先週パスカルに追加した中古のメモリチップがやけに安かったことを思い出した。違和感は嫌な予感へとシフトする。ロボットチェアのアームレストに取り付けられた緊急連絡用スイッチを、右手の親指が無意識のうちにまさぐっていた。押せば警備会社の武装スタッフが一分以内にやって来る。
今すぐ押すか、もう少し待つか?
その時、冷たさに痺れる右の耳朶が仄かな暖かさを感知した。パスカルが耳元に口を寄せてきたと知り、その絶妙なタイミングにうなじの産毛が逆立った。
「サトルさん、目を開いて、空を見てください」
空?
サトルは反射的に顔を上げた。
「これは……」
夜空が壊れた?
サトルの視界に飛び込んできた光景は、パスカルへの疑念を跡形もなく吹き飛ばすほど衝撃的なものだった。
数十、いや数百個の星が、白い残像のような尾を引き連れて一斉に空から落ちてくるのだ。落ちても落ちても星はなくなるどころか、次々に新たな星が生み出され、また落ちる。時には足元に影が生まれるほど明るい光を放つものもあり、途中で二つ、三つと分裂するものもあった。
サトルは思わず顔の前に手をかざし、首をすくめて星を避けようとしたが、よく見れば、どの星も地上に到達することはなく、遥か上空で空に吸い込まれるようにして消えていく。
まだ夢の続きを見ているのだろうか。
言葉を失い、空一面に展開される異様な光景を見つめるうちに、地球そのものが、宇宙の一点を目指して高速移動をしているような感覚に襲われた。それはサトルの立ち位置を先頭に、地球が星々の海を突き進むイメージで、これもまたあり得ない状況だ。
サトルは頭の中に広がる非現実的なイメージを払拭しようと、強く目を閉じ頭を左右に何度も振った。深呼吸を二回。ゆっくりと目を開く。だがそこには、無数の星々が次々に空から落ちてくるという悪夢のような光景が変わらずに在った。加えて、これだけの光景が無音で展開されているということが、非現実感に拍車をかけていた。
世界の終わり? 地球の暴走?
いや違う。
サトルの理性は、押し流されそうになる常識を必死でくい止め、状況の分析を開始した。
よく見ろ。星は無秩序に落下しているのではないぞ。降り注ぐ星たちの軌跡を逆に辿れば天頂に到り、そこにはぎょしゃ座のカペラがある。冬の大三角がいつものように正三角形を保ち、オリオンが堂々たる体躯を誇っているではないか。そう、星座を構成する星たちは本来の位置にある。ギリシャの神々の住まう星空は壊れてなどいないのだ。
つまりこの現象は――カペラ付近を放射点とし、まるでシャワーから迸る無数の水滴のように降り注ぐ星は――
流星雨だ!
サトルの頭の中で、目の前の状況と知識と理論の歯車がカチリと音を立てて噛み合った。
流星雨。天文マニアなら、誰もが生涯に一度でいいから遭遇したいと願う華やかな天体ショーである。一時間に千個以上、すなわち三秒に一個の割合で流星が出現すれば流星雨とするのが目安だが、今、目の前では、一秒間に百個近い流星が出現している。このペースが続けば、一時間に三十万個以上という途方もない数字になる。まさにバースト状態と言ってよく、流星雨などという表現では生ぬるい。これはまさに流星嵐と呼ぶべき現象だ。
サトルの知る限り、このような大出現の記録は、一七九九年十一月十二日に、南米のベネズエラで一時間に百万個の流星が見られたというしし座流星群だけである。だが今日は一月十日。この日に大出現の可能性を持った既知の流星群はない。しぶんぎ座流星群の極大日が一月四日と近いが、放射点が明らかに違う。そして何より出現の規模が桁違いであった。となれば今夜の流星嵐は、これまでに知られていない未知の流星群によるものと判断するしかない。
ふと浮かんだ「未知の流星群」というフレーズが、サトルの頭の中を駆けめぐった。熱い興奮が胸の奥底から湧き上がり、全身に力が漲ってくる。鼻の奥を刺すガラスの切っ先のような冷気も気にならなくなっていた。
「サトルさん、今さらながらですが、お体の方は大丈夫ですか」
サトルの右後ろからパスカルが遠慮がちに話しかけてきた。サトルの視界を妨げないよう、いつの間にかその位置に移動していたらしい。
「うん、ありがとう。ショック療法になったみたいで、すっかり良いよ」
サトルは一向に衰えようとしない流星の嵐を見つめたまま、背後の気配に向けて答えた。
「安心しました。実はサトルさんの今夜の体調では、こんな形で外にお連れしようとすれば、私に設定されているセーフティーガードが働いて抑止がかかってしまうのです。それで禁止事項とは承知していましたが、事前にガードを解除させていただきました」
サトルは思わず振り向いた。
まるでサトルの動きを予測していたかのように、パスカルはじっとこちらを見下ろしている。
絶え間ない流星の光に照らされ、白く浮かび上がる滑らかな卵形の頭部。高感度集音マイクを内蔵したヘッドフォンタイプの耳。淡い緑に光るアーモンド型の目。その無機質なレンズの向こうには明確な意思の存在を感じることができる。
意思を持つこと自体は良い。ただし、ロボットである限り、それは制限をかけられた意思であるべきなのだ。自分で解除出来る制限ならば制限としての意味を持たない。たとえそれが、パスカルの保護対象であるサトルにとって、好ましい結果をもたらすものであったとしてもだ。
サトルはさり気なく目線を外し、パスカルの全身を観察した。
ポリカーボネイトのカバーで覆われたアイボリーホワイトの四肢と胴、および各関節部分を保護する黒い柔性ポリマー樹脂。どこにも外見上の破損は見あたらない。そして腹部にあるインジケーターランプはすべてブルー。異常なし。さらにサトルの視線は、腹部の中央にある赤いプラスチックカバーで覆われた丸いスイッチを捉えた。
全機能停止スイッチ。
万が一ロボットが暴走した場合に備えて設置されているそれは、軽く押し込むだけで瞬時にすべての機能を停止させることが出来る。ただし、この緊急停止に伴って、記憶装置や中央処理装置の破損が高い確率で発生するという、リスクの大きな安全装置である。
「どうかされましたか」
「いや、なんでもない。それはそうと、流星の記録はとっているよね」
「ご心配なく。全天監視装置と自動軌道計算装置がリンクして稼働中です。光学系の記録機器もすべて作動させています」
「OK、完璧だ」
「ですから今は、純粋に楽しみましょう。記録媒体に残るのは単なるデータに過ぎません。リアルタイムに、肉眼で、耳で、肌で感じるという体験は一度きりしかできません」
やはりおかしい。
サトルは再び強い違和感に襲われた。パスカルの発言内容そのものに矛盾はなく、この程度の人間臭さはAIのチューニング次第でどうにでもなる。だがサトル自身、パスカルに対話の柔軟性を向上させるためのトレーニングは行ってきたが、発言内容に教訓的な偏向性を持たせる設定を施した記憶はない。だとすると、サトル以外の誰かがパスカルに手を加えたか、もしくはパスカル自身が設定変更を行ったということになる。先の制限解除も不可解な現象だ。パスカルに一体何が起こったというのだろう。いやそれ以前に、そもそもそんなことが可能なのだろうか――
「サトルさん、後ろを!」
慌てて振り向くと、あたりを昼間のように明るく照らす大火球が出現していた。
「パスカル、部屋に戻ろう。この流星群の母天体を誰よりも早く突き止めてやろう」
「でもまだ流星はたくさん出現していますよ。こんな機会はもう二度と……」
「もう十分堪能したよ。それよりも、こんなものを見せられたら、いつまでもぼんやりしているわけにはいかないじゃないか」
「日本には一期一会という言葉があるのをご存じですよね」
「僕に説教するのか? いいかパスカル、僕は軌道計算屋だ。この分野での第一人者という自負があるんだ。だから誰にも負けるわけにはいかない。それは僕のプライドが許さない」
これ以上反論してくるようなら全機能停止スイッチを押す、という覚悟でパスカルのカメラアイを睨みつけた。
五秒、十秒――押すか?
「……了解しました」
どさりと音を立て、座面と背もたれがサトルの体重を受け止めた。無意識のうちに肘掛けを握りしめ、両腕を突っ張っていたのだ。
「よし、じゃあパスカルはこれまでに蓄積されている自動軌道計算装置の計算結果を精査してくれ。僕は彗星・小惑星カタログと太陽風の観測データを取り寄せる。で、先に作業が終わった方が――」
「サトルさん、風も出てきました。続きは部屋の中でお願いします」
「ああ、確かにここはちょっと寒すぎるね。ん? どうした」
パスカルが身をかがめ、サトルの視界から消えた。
「座面ヒーターに電力を使いすぎて、ロボットチェアのバッテリーがもう残っていないようです」
「そりゃ大変だ。急いで部屋に戻らないとパスカルまで停止してしまう」
ようやくサトルに笑顔が戻った。
パスカルはロボットチェアの背後に移動しオートドライブをオフにすると、手押しグリップを握った。すっと前に出るときの滑らかな加速が心地よい。
パスカルが自らの手でロボットチェアを押してくれるのはいつ以来だろう。
ゆるゆると進むロボットチェアに身を任せ、サトルは初めてパスカルが家にやってきた日のことを思い出していた。
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