曇りの日のひと
朝川渉
第1話
彼はきれいな海や山を知っていて、ごく当たり前にふらっとそこに出かけてしまう。私はそうしてしまう彼の生理をそのときに考えようとするのだけど、それと同時に景色のことも考えている。そこは下の砂のひとつぶが見えるほどに澄んでいて、山にも排気ガスでくすんで笹なんかは生えていなければきれいな小川が流れていたりした。彼は多分日常的にシステマチックな仕事をしていて、その機械的な日常がもはや人格の一部になっていることを私は考えようとするのだけど、それよりも彼自身がいつもテニスを終えたような顔をして帰って来るのだった。考えてみれば普段、わたしは彼の仕事の内容も、同僚のことも、朝、ビルの玄関先でどんなふうに挨拶を交わしているのかも知らない。わたしと彼が付き合い始めたのは一年前のことで、それは、夏の終わりの頃だった。あの時に世界がいろいろと変わったから、普段なら覚えていないようなこともたくさんわたしは覚えている。一年前の記憶・・・それを思い出し、わたしは周りの人に説明したくもなるのだが、間違いなく、あれは彼からわたしの方に先に話しかけたのだった。
観覧車を回しきるように、、、、あの時、わたしはだだっ広い空に溶け込むソフトクリームが形を保つのを感じていた。それは彼とのセックスみたいなものだった。わたし達は沢山汗をかき、努めて、毎日毎日、それはこのことをふつうのことにしようと思ったが、わたしはなにひとつとして分からないままで一年が経ってしまった。
未だに、彼を見るたびにはじめて会ったときの光景を同時に見るような気持ちになっていた。わたし達は何度か会ったのに、いまもその事は変わりがないと思う。あったばかりのとき、彼は変なシャツを着ていた。彼と居て、彼の骨格が変な音を立てるのを聞いた。わたしならば逃げ出してしまいそうな諸所のわずらわしいはったりを彼がすいすいと切り抜けていくのを見た・・・わたしは女として彼と出会った。わたしはそうでなければならなかった。けれどもいつも、それから会話、人格、奇跡と言えるものが、不可解で漠然としてくるときの方が多かった。わたしは彼のことをよく、というかまったく知らないのだった。・・・わたしが知っているのは彼のことばの選び方、それからわたしのことを〇〇と名付けて呼んでいること、家を上から見下ろして書いたときの見取り図のみ。
わたしはもどかしくなるが、それよりももしかすると、かつてわたしに誰かが相対して居た時に感じて来たことを、味わされているのかもしれないと考えた・・・わたしはごくたまにそう思った。再来、と。過去と現実はぐしゃぐしゃにかき回され、わたしは遅れてから他人の不均衡だった平等を受け取る。わたしには彼が理解できないが、ごくたまに別の個所で彼の言っていることが分かったりすることがある。だから・・・とシャンプーをしながら首を振り、わたしは少し不快な気持ちになった。
わたしの環境を彼に知らせてもきっと何にもならないだろうと思う。ここにある液体はすべてプラスチックの容器に入れてあるし、わたしが電話口で彼に説明をしているときに、近くのスーパーの駐車場の音や学生たちの声、同居している老人の声が入ってくることを一生懸命わたしは隠そうとする。
彼がふらっとどこかへ出かけたくなる気持ち?もしかしたらわたしと同じなのかもしれない。けどわたしには手段も乗り物さえもない。ああ。不快。とてもとても不快になる。
誰しもが皆抱えきれないような荷物を持ち合わせて居ることを知っているが、わたしも同様でそれは欲や金だったりするのではない。わたしの場合は多分それが病気と呼べるものだと、朝、起きてから今日はそう思わされていた。時々はイヤリングや装身具それを仕事に行くときにかるがるとつけていたときのことを、わたしは思い出そうとする。なぜかというと病気の人間は平時と病気の境目を他のこと以上に大切にしているからで、わたしもそうしなければならなかったからである。朝や昼間にははりつめた水のようになる神経、それがわたしの生理そのものであって、このことをだれにも知らせることはなかった。それは公園が手入れされていない状態を見た時のように何の前触れもなく次第に尖って来た。わたしはあまりにも多くのことに気付かされて、それは殆ど悲鳴なのだが、例えばこうなること】を予定になぜ組み込まなかったのか、楽観主義と同じさまにいま成り果てるのか、わたしはまた、過去帳を開くのだが、昨日のこと、他人のアドバイス、評価、女を見る目、ただそれだけのこと…それが未だ「とても気になって仕方がない」くらいまで神経がナイーヴになっていることにわたしは泣きたくなる。わたしはわがままでこうなったわけでも、何かがどうしても欲しいと喚いているわけでもなく、ただ単に、そうしたくないと誰かから引っ張られているように感じているのだ。誰かーーそれはわたしであった。
わたしは数学者ではないから、あらゆる行動と感情の決済がいま、ここで対価としてわたしを奪い去ろうとしていることを説明し尽くせないことに対して、二重に腹を立てる。わたしが足元にあるものを蹴飛ばしたくなるのはそういうときだった。わたしは他人に対して不満をあまり言わない方だが、事実として誰とも慣れえないとかんじていた。
・・・・
わたしは、結局泣きもしないが、大抵はある場所に電話をかける。そこはいつもどこにも繋がらないで、電話受付番の明るすぎるアナウンスが流れて来る。崩壊直前の国家のアナウンスはこんなふうにいつも場違いで、わたしは、正常だから狂うのだという言葉を吐きたくなった。
わたしも、あの人も、彼も、もう既に、文化的に狂っているだろう。むしろ、演芸場の上にあぐらを書いている人は、結果として狂うのではなく、人から借りた衣服を着ているのに違いない。何故そのことに疑問を感じないのか・・・それからわたしだけが感じていなければならないのか・・・
「もしもし?」
この受付嬢の声を聞きながら、あるいは、それを解き明かそうとしてみてもよいのかもしれない。わたしは、彼からアドバイスをもらったりもするが、大抵はこの事にいちにちじゅう顔を付き合わせて考えているため、多分、そう言う時は朝化粧をして来た顔とは違って見えているんだろうなと思ってしまう。わたしにはいくべき場所もやるべきこともまったくないのよ。いや、そうじゃなくって、逃げ込む場所がもうないの。それなのにあなたはそれを、わたしが気ままに選択してきたんだと思ってるの?・・・・そう言いかけて、水が流れる音とともに自分の顔を見上げて見る(恐ろしいのではじめは下を向いている)と、そこにはいつも通りの自分がいた。
まったくそれはいつも通りだった。
とんとん、とドアを叩いて、彼のアパートまで来ていた。「どうぞ」
ドアが開く。彼は玄関口に立っていて、わたしたちは顔を合わせていた。このアパートは町中にあるが駅から7分ほど歩かなくてはならない場所にあり、単身者向けの背の高いアパートはそこにいっぽん生えた木のように電車の窓からは見えていた。
彼はごく普通のシャツを来てそこに立ち、わたしを出迎える。
「早かった?」
「うん。いいよ」
これは彼の機嫌がよいとき。わたしは喜び、部屋の中に入るために、靴を脱いであがる。
彼はこう言う訪問を既に数え切れないほどしているのに、知人には「数回しか会ってない」と説明しているのだった・・・わたしは彼の後ろを見ながら鞄をかけ直すが、何を入れて来たのかそれはとても軽く感じた。わたしには疑問符がやまほどある。心地よいものもあれば不快で重いものもあるが、それは彼の不機嫌は関心のなさと同じようなものだろうと思う。
部屋に入ると家はいつもと様子が違い、彼はわたしが今回来る前に模様替えをしたようだった。ソファが窓際に置いてあり、ベッドが入ってすぐの場所にあったので、ドアを全開しようとするとぶつかってしまったので、わたしは驚いた顔で彼の方を見てみる。
ノーリアクション。
わたしは気を取り直して部屋を見回してみる。それから本心で「素敵」と言う。
「そんな事ないよ」
彼は言う。わたしはベッドを避けるように歩いてから荷物を置こうとして、あたりを見回す。ソファに置こうかベッドに置こうか、それとも、床に置いて行ってしまうか迷うが、いつの間にか音を立ててテーブルの上に置かさったのでわたしはびっくりしてしまった。
「かっこいい。こういうものを置いてあるのもいきなり模様替えに凝り出すのも…」
しーっと彼は言い、わたしに向かって「それ以上話さなくてもいいよ。わかってるから」と言う。
わたしはごめんなさいと応える。
わたしは周りの音に耳を澄ませてみている。いわば、いまここが私たちにとっての地球の中心にあるとして、わたしは足りないものはなにか…言うべきことは何なのかを考えさせられる。
「コーヒー入れる?」
「うん」
わたしは、そのテーブルの前にある椅子を引いて座ってみる。これが、いつものわたし達だった。
初めは、こういった事を彼が遠慮しているのだとか、緊張しているのかと思った。こういった事とはつまり、わたしという人間がおんなだということに苛立っていて、いつもする解釈や選択を気まぐれや気分でしているんだと感じているのだと思っていた。
世の中にあるあらゆるきちがいじみた秘密を彼と共有していることーそれから、彼が喜んできちがいを演じることが、いまはこの国が見えない壁といくつもある十字路に時に沿って歩かなくてはならなく理由を説明することに等しく、わたしはそのことを知っているだろう彼の文節を探しては、わけを私の言葉にし始めていた。ー彼が必要なことを隠しているように。
誰もが、いっぽんの細い綱の上を歩いているに過ぎない…人生とはそういうものだった。金持ちは金で方向性を買い、若者はカリスマに従うが、わたしのような市民はいつも気分でそれを選ぶのだった。なぜなら草原にいる草食動物も皆そうしている。だからわたしは、今ここで電話に出ようとしない彼とわたしはもう既に、国家の大事な運命線上に乗っかって居るのだと既に知っていた。わたしは母や姉のように微笑み、そのことをいかにも無造作に、人格をはらみながら裏付けたいが、でもそれが出来ないせいであらゆる困ったことが押し寄せて来る。もしも、わたしが例えば彼の衣服や買ってくるものに何か物足りなさを感じたり、不満を感じたりしてもその喧嘩は関係を決定づけるものとしてというよりも、単純なゲームとしてあるのだろう。こんなふうに友達とできるわけがなかった。わたしは彼の綱渡りを見て、それが揺らぐのをを見たが、それは彼が初めて私に声を掛けて来たときのようにわたしのその予感は揺らぐことはなかった。それをあるときは、他人からおかしな目で見られたとしても…わたしはこう考えたのである。「それは、彼がいま我慢をするように決められて居るんだから仕方がない」…
わたしは一年間本当にそう考えていたのだった。
カレーを食べ終わり、彼がシャワーに入ったのでわたしも続けてシャワーに入った。ぽたぽた足元に垂れ落ちる水を見ながら、ここから出た後でたとえばこれから起こることがベルトコンベアーの出来事のように感じられたとしても、そのいたたまれなさを表すような言葉を使わないでおこうと思う。数年前まではこんなふうに考えるようなことはなく、わたしは異性に対してはいつも相手の鼻面を折ること、相手の服を奪い去ることだけを考えていた。お互いの領域をもったままで、鏡を覗き込むこともなく、、、大抵はわたしが男役で、相手が女になるのでしかない。
いったい何秒後に彼がそれを口にするのかーーでもその賭けは、いつも無残に打ち砕かれて、わたしは生理が終った直後だったから燃えていて、彼の方は食事をしたばかりだったせいかいつも新しいことをして私のことを驚かせたから、ベルトコンベアーのことは考えるひまもなかった。わたしは布団の中で服をぬぎ、下着をぬぐことがおっくうだと感じなかったし、わたしが相手のいうことすべてを先回りして言ってしまうようなことにもならなかった。その後で自分がしなきゃいけないことを想像してため息をつきたくなるようなことにも、大抵は、ならなかった。
その日、わたしたちの周りを小さな虫が飛んでいた。その羽音が、食卓にいたときから近づいてくるときに彼がなんていうのかをずっと考えていた。やるべきことはこの食卓がきれいに保たれるように彼が立ち上がってそれを処理することで、大抵は皆がそういうことを願ってここに来るのに違いないと思う。彼もそうする。彼も彼も彼もそうするし、そうしないのならきっと口の中で聞こえないように舌うちをしているのに違いない。そのことを考えると実際、ここが完璧にきれいじゃなくてもよかったと思わされるのだった。翌朝、家を出るとき、彼に虫が飛んでることに気づいていたかどうか聞いてみると、彼は「うん」と言った。わたしは、わたしはあの虫のことをずっと、ベッドにいるときも、食卓にいるときも彼の方から叩いたりののしったりするべきじゃないと感じていた。
憂鬱と感じられることはいわばこのすべてのことに対していつ、だれの口から目を覚ますようなことを聞かされるのかということで、それを知っているふりさえできない相手だったとしたらそのことはもっと憂鬱に感じられる。
わたしは何度もそれを見て来たし、そうなってしまえば相手もわたしに対しての世話を求めるだけになってしまう。
この町に建っている大学の実験室のモルモットのことについて考えてみるに、モルモットは普段飼育部屋に数匹が飼われているのだけど、ここでは数日に一回置きの実験がある。研究員は実験に使われる動物にエサを与えたり、自然環境とまではいかないけれどそれなりの環境を用意している・・・実験が終わり、帰って来たモルモットの器具を外してまたもとの飼育箱に入れようとしている。モルモットに肌触り、それは多分実家に置いてあった絨毯よりはよいものに違いない。わたしはそれを見ていた。曇りの日の起き抜けみたいにしてそれをわたしはわたしのままで眺めていた。
手何度も握ったテニスラケットのグリップみたいな感触がする。モルモットにはいろいろな見えない損傷があって、わたしはそのことをどう把握してどう彼に手渡せばいいのか考えている。彼は、戻ってきたものを見てすぐに「でもその方がモルモットらしい」と言ったのをわたしは聞いていて、それをもう一度聞き取ろうとする。「なにもかわりない」わたしは、身の回りにある実験道具やコンピューターのディスプレイで彼の疑問に対して、すべて答えを持ち合わせているような気持でそれを見ていた。すべてを・・・?いぶかしんで考えてみた。わたしはそれをすべて言い表せると今まで感じていた。「モルモットらしいモルモットだな」彼の言うことばはわたしを元気づけた。
都内にある木々の深いところに建っている実験室の印象をわたしは毎日起き抜けに思い出すけれど、晴れている日はどうしてもそれが思い出せなくなってくるのが、不思議だった。わたしはそこにあることを知っていながらにして、今ある、人間関係にそれをごく普通の人間のやるせなさのように埋没させることが出来るのだろうか、、、もしこれが、永続的に曇りの日だったなら、彼がもっとたくさんのことについて話したいと思っているなら、わたしはそのことを忘れられないだろうと思った。それから、部屋の中へと入ってくる。彼がいる。モルモットの世話をしているだけの彼に対してわたしはコーヒーを入れてあげたくなる。それからできれば、抱きしめてほしいと思っているのだった。あるいは、わたしはいつも考えるのだが、彼にとってもまたこの実験室は単なる日常の延長線上の端っこにある部分でしかないのかもしれないと考えてみた。手段。手段。手段・・・・・それが草に根を這わせて枝が手のように伸びていくのだ。周りの人もきっとそうだったろうが、わたしがこう考えている間に、モルモットの実験室が正常に脈打っている間にも、彼は彼の家族や友人や恋人たちと話をし、明日の予定の心配をしているのかもしれない。
そう思い、わたしのすることはただそこに置いてあるコーヒーを眺めることだけになる。コーヒーは湯気を立て、それからしばらくして冷めてしまう。それからずっと、コーヒーのカップにあらかじめある染みをわたしは見つめるだけになった。
起きてからテーブルの上にレモネードが置いてある。それは夏の終わりのさなかに汗をかいてテーブルの上へと落ちていっている。「れもねーど」彼が発音するのを私は聞き、わたしは彼に一度成りきってみる。彼は昔いいところまで行ったことのある女と一年越しに会っていて、二人は友人として会話しているのである。わたしは彼の手とテーブルの上に置いた自分の手の指先を重ね合わせていた。そうしなきゃいけない」誰かが言い、わたし達はそれに囚われていたといっても過言ではない。レモネードが汗をかき、白濁しない液体がひとつの果物を摘んできたままである。その飲み物は、果汁を入れただけの炭酸飲料で、わたしたちにとっては英語の教科書に出て来る子どものストーリーとして記憶している。赤毛のアンに出てくる食べ物みたいに、わたしはそれがとても彼の近くにあるように感じている。ジューサーを使う店員が、レモンの皮を綺麗に洗ってすりおろしているのである。わたしは、「皮が重要なの。だってそれが、…レモネードなんだから」そう言い、わたしになった彼は「うん」と答える。「でもなぜ?」「皆が知らないことよ。それがレモネードで、レモンチキンで、それがレモンケーキでレモンクッキーなの。皮なの。」
「レモンの匂いが凄いする」
彼が言い、わたしは、それはそうでしょうよと思う。それが狙いなのだから。
「それがすべてなの。」
「え?」
「いいえ…ちょっと、言い過ぎた。あなた…じゃなかった、君がいて君と話していることがこういう」
僕がそのグラスを手で持ってみせる
「行為なんだ」
「うん」
「わたしたちがここに来るまでの何にもならなかったことを、わたしは何度も何度も思い出す。そうすると、あの人がそれをすりおろしてここに入れる」わたしはうなずき、レモネードを飲む。おお、すっぱい。わたしはもっと格好つけようとしてみる。腕時計を正してから、自分はこの相手と何回セックスしたのかを思い出してみた。
話がこのテーブルまで辿り着くまで、本当はもっとたくさんの説明が必要になってくる。抵抗の記録は、とても長くて正直言ってここには書ききれない。日常や人生というものをもし、ゲームに例えるとするなら、それはわたしが負けるために用意されているもので違いないのだが、わたしは、何に言われるまでもなく、人としての欲求のように次の日も次の日もずっと、同じことを繰り返す。同じことを繰り返し過ぎて、そこにもそれなりの人が集まるようになっていた、、それにも関わらず、あいかわらずわたしの引く手札といえば、クズ。「ジョーカーばっかり」……わたしは言い、それは本当のことだったが、そのゲームに、つまり誰かの人生へ入れ込まれることにあきあきしてくる。それでも、ある時は希望を持って、山から手札を引いてみる。それで当てたのが彼で、それも一年前の冬の終わりころだった。彼は会った時からわたしにとってスペードのエースみたいな人だった。わたしはそのカードを何度も裏表にして眺めてみる。
選択というのものは偶然ではなくそれ以上のちからを持つ。運、価値。わたしの人生…わたしはいくつもカードを引いたが、思うにそれが働こうという意思を持っていなくてはならなかったのだ。わたしにはなぜかそういう星周りが巡ってくることはなかった。5年…10年、いやもっと長い期間。そうしてカードを引いてすぐダメにする人もいるのに、わたしはちゃんとそのときに限ってはゲームが出来ていた。わたしはそれが、たしかに誇らしかった!
かたん、とテーブルがなり彼が咳ばらいをする。まるで空気が暗転するかのように・・・彼はわたしのそういう思い込みについていけないと言った。わたしはわたしで、だったらそのことを伝わりやすく説明するべきかどうかを考えあぐねていた。
わたしは彼という鏡が、ーもちろんそれは今ではなく一年前のことーわたしにとって何を意味しているのかを数ヶ月間ずっとみつづけていた。話はもとに戻っていまはテーブルの上に手を置いて、指の温度からその意味を推し量ろうとする。彼は自分には恋人がいるという。
それからわたしはわたし外の話を聞かされることになった。こうなってしまうと平時にあることはわずらわしい諸手続きばかりなのだわと思わされるのだけど、わたしにとって収穫だったのは彼がもうわたしに対して気を使わなかったということ、それからごく当たり前の周りの出来事が未だもって歪んで見えていたということだった。けどまだ、わたしにはその全てが重過ぎた。そのとき、安定を保っていた天体が墜落するような感じがした。驚いた」わたしは声をあげてしまった。彼も驚いたみたいだった。わたしはこれほど不義理を起こして連絡もしなくても彼がわたしに気を遣うはずだとずっと思い込んでいたのだった。たとえばバイト先の上司みたいに、部活動の先輩みたいに、彼といるときにあった他人行儀の心地よさはいったいどこへ行ってしまったの?・・・それがそのときから数日は全く元に戻らなくなってしまったのだった。
そこに客が入ってきて、店員が何度もテーブルを行き来して、彼が煙草を吸い、レモネードを空にするまでずっと、不自然な思いを味わいつつ考えていた。失恋…失望、わたしは彼と大した話もした事がなかった。だから、どう考えてもそう言ってしまうのはおかしいのだった。わたしは店を退出する直前に、もっともちかい気持ちを禁句みたいにして言い表そうとしてみた。「興味」……わたしは言い、彼がなるほどと応える。
彼はわたしと寝たことがあるという。
興味?いったいこの、無味無乾燥なことばな何なのだろう。わたしはこころのなかでお互いの選択に失笑してしまった。それからセックス、それが搾取と一体何が違うのかもはや分からなくなって来る。
ああそう、と言い、わたしはまったく話したことのない相手のふてくされた顔を見ることになる。彼だって取り分をもらえると思っていたのだろうから、ここまで持ってきた荷物を手にぶら下げて家まで戻らないことを不快に感じているに違いない。けどわたしは男の子じゃなかったから、彼に対して帰宅するための電車賃は払わなくてもいいと思っている。彼は請求してくるかもしれない。自分が払ってきたことに対する代償を・・・わたしはそこに座ってレモネードのかすを見ながら、それが背景に溶け込むようにあしらってあることを感じながら、過去の男たちのことを思い出して考えてみた。わたしが与えたものと、彼らがわたしに与えたと思っているもの、それが釣り合っていないといまここで、わたしから主張しはじめてもいいのだろうか。
「あのさ、セックス・・・・ってなんだと思う」
わたしは聞いてみた。なるべくとても自然に響くように。
「とても気持ちがいいもの」
彼は無邪気に応える・・・
ゲーム、オセロ、競馬、
マーマレードマフィン、てんぷらうどん、牛丼・・・・
そうしてわたしはわたしのためのレモネードをストローでかき混ぜ始める。ぐるぐるぐる・・・・
「うまく行ってるんだ。彼女と」
「うん!」
・・・わたしは色々なお伽噺を思い出してみる。それは色々な起承転結があり、紆余曲折があり、何かが原因となって結論が出てくるようだったのに、わたしには、何かよく分からないままのわだかまりが、名前が付けられないままで出来てしまったように思えた。わたしは本当に真面目に彼がバイト先の金庫のカギを開け閉めしている姿を思い出していた。わたしはあんなふうに律儀に扱われてみたいといつも考えていた。1から10までの手続きを飛ばしてしまうんでなくって、それがまるで儀式みたいに、ノートに書いてあるまま、面倒だから皆が悪態をつくようなことまで、ゆっくり本当はやるべきだといつも感じていた。
わたしはレコードをかける。
天気予報を聞く。新聞を読む。
そうしてまた数日後、やっと他人の声が腑に落ちて来る。
わたしにとって必要なことはレコードの音源に針を落とすようなことではなくって…やっぱりモルモットの実験場だったように思えてしまうのだった。
天気の方は未だにどうなるのかは分からないが。優越感…それがまるで笑い声みたいに思えるが、それはわたしがまだわたしのままだからだ。レモネードの炭酸がはじけ、それは何をすることもなくおさまる。「もしそれがないならば…それは作りものだよ。プロセスチーズと同じまがい物に僕は思える」
プロセスチーズ?ちょっと笑いそうになっている彼を見ながら、わたしは腹を立てるでもなく、まあわたしがもし彼を演じるのなら、こんなもんなのかなと考えていた。
ーーーー
彼から返事をもらった後で日常を送ると言うのはこういうことなのかと思った。わたしはもっと日常に対して重きを置いて生きていかなければならないという思いがずっとあったのだった。たとえばこんなふうにセックスと自分の日常と、それからごくたまに自分が神様のようなつもりになって人や自分の感情が取りこぼされないようにと願うようなこと、そのどれもをたった一人をベースにしてやっていくようなことは、果たして成り立っているんだろうか・・・と考える。
「わたしの研究は」と言いかける。それからまるで彼らのように、自分のしてきたことの対価を、手のひらをあげながら求めるような言葉を探し始める・・・こんな体で。こんな、顔で・・・わたしは恋人の方を見て、彼が「成れの果てだよ」とつぶやき始めないかと一瞬思う。わたしたちの間にはまだ愛情があったから、それがきっとわたしのわだかまりやアラや文句を未だ、許せる範囲に押しとどめているのかもしれない。そう考えるに私の中でがらくた同然になってしまったものに対する対価や鎮魂のことばを自分はそれと同時に見つけることが出来るのだろうかと一瞬、不安になる。
「セックスだよ。」
彼は言い、わたしは彼がまったく別のことをしているのを見る。床の掃除やふろ場にカビ取り剤を散布している姿を見て、彼の頭蓋骨の硬さや腕の筋肉がいま思っている以外の意味しか持たなくなることもあるんだろうかと、小雨が降る中で考えていた。
また、コーヒーのしずくが落ちるのを眺める。これが平時というものだろうか・・・
けれどよく考えてみれば、私の方が彼よりも10歳以上は年上なのだった。そのことを考えてから翌朝起きてみるともう自分ははっと目覚めたときには実際よりも50くらいは年を取る可能性だってあるのじゃないかという気分になった。
わたしは街の中にあるアパートの一室にいてぶかぶかのスエットを着ているが、そこからはみ出ているそれほどもう若くはない手を見ながらにして考える…自分と会ったことのある年上の異性も同じような気持ちを持っていたのかもしれないが、そんなことを顔に出したりもしていなかった。
ふと、恋愛っていうのもひとつの信仰みたいなものだったと思った。神なのか、異性なのか、その対象にちがいはあるにせよ。「変わりがある?あなたとわたしって」私は聞き、彼が「共感だよ」と応える。
「共感?って、あなたはわたしと会ったときから考えていたの?」
・・・彼は考え、たぶんわたしたちが初めに会ったときに、彼が持っていた傘の柄をいまだに私が記憶していることを、同時に思い出している。
「うん」
「でもどうして、そんなこと急に考えたの?」
彼は水槽の中に入っているザリガニにエサをやっている。
「環境だよ・・・・」
彼は言い、わたしは環境、と繰り返す。
「考えさせられたんだ。危機にあったから。」
そうしてわたしもザリガニみたいになって彼にぴったりとくっついてみる。共感・・・それがこんなふうにお互いのそばで耳を澄ませて、いま、すぐに欲しがっているものを与えて来ること、そしてそこからコインみたいなものがもらえるものだったとしたら、確かにそれは彼の実感は当たっているのかもしれない。
「じゃあセックスは?」
「ああそれは、やりたくなるもの。」
「わたしがそれほどやりたくなかったとしても?」
「それは、関係ない。そういうとき僕は赤ちゃんみたいになっているから、君が慰めてくれればいいんだよ」
慰め・・・わたしは彼にくっつきながらザリガニの餌やりを眺めていたが、彼の考えている暴発するロケットの存在みたいなものを感じていた。可哀そうに。わたしはそう考える。たしかにわたしも時々、あらゆる他人の態度にやるせなくなったりはするけど、定期的に暴発するロケットを抱え込みながら生きたことなんかない。わたしはたしかに、可哀そうは愛情に似ていると思った。ほれ、ほれと彼はざりがににエサをやり、そこからぷんと海みたいな匂いがただよってくる。
恋愛は宗教みたいなものだったかーーーそれとも、家庭なのか。
「ねえ」
「ん?」
「子供が欲しいって思う?」
「ううん」
「どうして?」
「できてから考える」
その瞬間、わたしは恋人のあたまをトンカチで殴りたくなる。
「・・・イスラム教って知ってる?」
「何が?」
「いろんな考え方があるっておもうけど、責任の取り方っていう意味で考えればもう十分すぎる位に払っている気がするんだ・・・」
彼は言い、わたしはイスラム今日の偶像崇拝禁止について思い出して考えることになってしまった。
わたしだってそんなに強くはないのに・・・・
なんだか悲しくなった。わたしには声を掛けてくれる従姉妹や友人がいたはずなのに、もうそれがひとつの信仰みたいなものとして象徴がごくわずかに残っているだけになってしまった。わたしはいくつも失敗をし…わたしはもっと彼らと頻繁に会って、話して、テニスやなわとびをやって汗を掻いて顔が破けるくらいに笑いあって居たいのに、わたしだけそうすることが許されていない。わたしは日常を体現していく。そうしなければならない。それが唯一、わたしが理想でも空想でもなく、他人ごとでもなく、実感として求めているものだったからだ。彼がまた、台所で何かをしているのを見、わたしはほっとした。わたしは彼の持ち物やロケットがわたしたちの大切なものを多分壊さないだろうと思った。
ザリガニの使徒たちもきっとこう思うだろう「あんなに賢い人が、なぜ」わたしは考えてきたが、じゃあ賢さとはいったい何なのだろうか。彼は「共に感ずることだよ」と言いゴキブリに見えるざりがにを持ち上げるのだが、わたしはあやまって誰よりも先に赤ん坊を取り出してしまうのだ。彼も賢かったが・・・わたしだって、彼が心変わりするだろうことを考えていた。だったらお互いがどうしようもなくならないようなものを彼やわたしが見続ける先に、この手で作ってしまえるのだ。本当なら。
「あっ」と彼は言い、天気雨の中でさす傘を探し始める。
わたしの恋人になった人はそうして、自身はテーブルに座ってコーヒーを飲みながら、私が快速で走る自転車をこぎ続けるのをある時は眺めることになる。
わたしはイスラム教徒でも家庭の中にいる母親でもなかった。単なるひとりのわたしはそうやって、自分のためのレモネードをかき混ぜ続けていた。
信仰は確かに人を救う相互作用だけれど、別の国へ行ってしまえばかすかなろうそくの火なのでしかなくなってしまうのかもしれない。
彼の若さはきっとわたしの夢想の中では満足出来ないだろうとその日は考えていた。無論それは数ヶ月は無理して合わせるようなことはしてくれるだろう。ああ、私の病・・・この日はそれについてばかり考えていた。新聞を開き、本を開き、スケジュール帳を開き、文を追ったあとは今度はその対象がものに向かった。虫やオイルのボトル、それからたくさんの買ったものやもらったもの・・・これらは一体何なのだろうか。わたしはそれに名前やラベルを付けるようなことはしないが、じゃらじゃらと取り出してみてその金額とわたしの所在地があっているのかどうかを確かめたいような感情になった。まるでそれは水の入っていない鍋が煮え立つ、木曜日が週にばらばらと突如あることのように思えた。わたしは電話の番号を押してみて、それが最後の番号に来るまでを何度も繰り返した。そのどれもが、まったく彼にも彼らにも伝わっていないだろうと思った。だって伝えるようになんかしていないのだから。
それでもそれが次第に母にしているみたいになり、病人にしているみたいになり、わたしが、あまりにも違いがあることに対して腹を立てながら、自分の姿を見てハッとするに違いない。この信仰は、もしかして若さを土台にしてあるものだったんじゃないか…わたしはその答えをノートに書きこんでみた。それはわたしも彼もずっと知っていたことだったみたいに思えた。
けれど未だ、何もかもが平等なのに違いなかった。わたしは彼が欲しくてそれを選んだのだから、そうなる事を見えないふりをして居たのに違いない。
わたしは彼が買ってきたというお土産のおきものを見ながらその時の気持ちを想像してみた。彼は出発する。晴れた昼下がりに、わたしのことを考えながら彼はこれを買い・・・・
そうして待つ人のことを考える。わたしはそのことが凄く羨ましくなる。彼は自由に異性を選べるし、話す言葉も、今日何をするかも選べる。それに、夢想の中では待つ人が居るのだ。
曇りの日のひと 朝川渉 @watar_1210
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