21





 アルマは泣いていた。小さな身体を丸めて漏れ出す声は止めようのない嗚咽に変わる。


 アルマは心のどこかでこうなることを予期していた。それなのに、アルマの中に芽生えたわずかな希望は、現実とは掛け離れた泡沫の幻想ゆめを見せる。


 アルマに優しい言葉を掛けてくれたサイ。

 その全てが思い違いであったというのに。


 身じろぎ一つせぬアルマの身体の上に、はらりと一枚の葉が命の色を失くして落ちてくる。アルマは今、故郷であるハイアトの村の奥に存在する鬱然たる林の中、その中でも一際大きな木の根本にいた。そこはアルマの小さな身体がすっぽりと収まる巨大な樹洞じゅどう。アルマだけが知っている秘密の場所。


 何かがあった時にはいつも駆けこんでいたその場所で、アルマは枯れ葉が踏まれる音を聞く。ビクリと反応をしてゆっくりと顔を上げたアルマが、ぼやけた視界の中にそれを見つけたとき、美しい黄金の瞳は恐怖の色に染まる。


「なんだよ、まるで捨て犬みたいじゃねぇか」

 どこか人を陰気な気分にさせる掠れ声が、アルマの呼吸を止め心臓を鷲掴みにする。


「あ……」

「ずっと待ってたんだぜ。

 アルマを遥か頭上から見下ろすのは、骸骨のように窪んだ眼窩がんかの奥で真っ黒な瞳を向けるひょろりとした痩せぎすの男だった。


 アルマから日常を奪い去った男が、口元を曲げて不気味な笑みを浮かべる。





 * * *





「この先だ」

「……本当にこんな場所にアルマがいるんですか?」

 エレクは確信を持って放たれたサイの言葉を訝しげに思った。村長宅を後にしたサイとエレクの二人は、村を過ぎた先にある原始林の中を歩いていた。そこは僅かな光しか存在できない鬱々とした空間であった。大人であれば目的を持って足を踏み入れる事もあろうが、幼いアルマがこんな場所に居ると聞いて、エレクはサイの思い違いではないかと思った。


「ここを見ろ。うっすらとではあるが人の足によって踏みならされた形跡がある。足跡がそれほど深くない所を見ても、アルマのもので間違いはないだろう。それよりも、どういう状況なのか教えてくれるんだろ?」

 屈みこみ地面を指し示しているサイと、アルマがいるという確かな痕跡を目にしたエレクは、再度思案する。今から目の前のサイという男にエレクが話そうとしていることは、慎重に伝えなければいけない内容だからだ。


「……俺達の村は、悪魔のような男に支配されているんです」

 恐る恐るではあるが、村の禁忌に近い内容を口に出すエレク。言葉を舌の上に乗せて初めて、自分が取り返しのつかないことをしているのではないかという不安に駆られる。


「……悪魔、ね」

 サイの黒い瞳が、その奥底にて輝きを見せる。それを見たエレクは、唐突に雰囲気の変わったサイを見て息を呑むほどの緊張感を覚える。


「あ、あぁ。……あいつは突然俺たちの村にやってきたんです。最初はいつも村に来ている商人の代わりだと言っていた。だけど今考えてみれば、奴は最初から何処か様子がおかしかった……」


「様子がおかしい?」

「そうです。あいつはハイアトがどんな村と交易を結んでいるのかを事細かに知りたがっていた。商売の為だとあいつは言ってたけど、本当の目的は違ったんです……」


「……続けてくれ」

「あいつは。……いや、はこの村を孤立させて、自分達の物にしようとしていた」

「あいつら、ということは野盗のたぐいか?」


「野盗のように奪って終わりなんて優しいものですらなくて、あいつらは家畜として俺達を支配しようとしているんです。最初に逃げ出そうとした人間や、抵抗した人間は真っ先に殺された。父さんもその時に殺されました。俺達はあまりにも危機感が無かった。いや、危機感というよりも、そんな考えを持っている人間が存在するだなんて想像すらしていなかった。僻地とはいえ、村を丸々奪って自分達のものにしようだなんて……」

 一度出してしまった言葉はエレクの口から濁流のように流れ出す。エレク自身は目の前にいるサイに特別な何かを感じてはいるが、自分達を支配している悪魔のような男の力は強大だ。エレクが見たことのある取り巻きですら桁外れの力を備えていたし、組織立って動いている様子がある以上、ハイアトを取り巻く環境にどれほどの人間が関わっているのか底も知れない。


「……食い扶持をなくした野盗が思いつきでやれることではないな。アルマが売られることになった理由もそれか?」

「全てが奴の指示です。奴はアルマの瞳に執着していた。理由を話すことはなかったですが、何か目的を持っているように見えました。俺達は訳も分からず殺されるのが怖くて、あいつの言いなりになった。……アルマを見捨てたんです」


「自分を責めるなとは言わんが、今から変えられることもあろう。幸いなことにお前もアルマもまだ生きているのだからな」

「そう、ですね……」


「……母親とは折り合いが悪いのか?」

「あぁ、なんと言っていいものか。母さんを見ていると自分の心の弱さを見ているようで、辛いのかもしれません」

 エレクの言葉は迷いの中にある。サイはそんな暗闇の中で藻掻こうとしている青年を見て、遥か遠い己自身の過去が覗き込んでくるのを感じる。胸の痛みは未だに塞がることはない。それと同時にサイは耳鳴りのような音を捉える。薄暗い木々の合間を縫うように、急速に生み出された光が森の奥へと収束してゆく。


「魔導結界が反応している……アルマに何かあったか」

 サイが森の奥へと意識を集中させた、その時──


──ザッ


 風が鳴り、空気が揺れる。

 サイはごく自然な様子で上体を僅かに反らす。

 目の前を通り過ぎる銀の煌きに、エレクの必死な形相が続く。


「……どういうことだ?」

「すいません……アルマを救う為には、もうこれしかないんです」

 震えながら、短剣を両手で構えるエレク。

 息は荒く、思いつめた表情は獣にでも憑かれているかのような荒々しさを見せる。サイは少しだけ思案すると、腰に下げた剣の柄に手をやる。はばきが小さく音を立てると、真紅の刀身がゆっくりと鞘から開放されてゆく。


「そうか……。

 楕円を描き姿を晒した真紅の剣。サイは半身の状態で剣を構えそう呟く。サイの瞳に一切の揺らぎはなく、ずっとエレクを見続けていた。




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