22





 サイは周囲の様子に注意を払う。意識を向けることで鋭敏に研ぎ澄まされてゆく感覚は、空により近い所で枝のしなる音を捉えた。木々の合間に微かに漏れる呼吸。仄暗き薄闇の狭間において、空間の淵をなぞるように滲み出る悪意。


 眼の前にあるエレクのものとは全く違う気配が、サイも気付かぬうちに、その場に紛れ込んでいる。


 サイの思考の中に真実が投影される事で、今まで見えなかったものが見えるようになった。


 エレクの言葉に偽りはない。エレクの言っていた悪魔のような男と、と言っていた言葉の意味。エレクが本当に伝えようとしていたものはずっとそこにあった。


 必死にアルマを救おうとするエレクの想い。それは何者をも寄せ付けぬ力強さを持って、サイにひとかけらの勇気を示す。想いの強さゆえに悲壮感すら浮かんでいるエレクの表情。固く結んだ口元は、眼差しと同じ決意の色を見せる。


「そうか……。男だなエレク」

 サイの腰から放たれ、悠々と上段に掲げられた真紅の剣。それは仄暗い木々の狭間に在って尚、只二人の姿を鮮明に映し出す。ゆらりと傾いた刀身が、一度ひとたびエレクへと向けられる──瞬間、音が爆ぜる。


 サイの居る場所へと無数の矢影が重なる。一射、二射、三射と際限なく放たれる殺意が、凶悪無比な力を誇示し、サイが身に纏う白の道衣を貫いてゆく。まるで夏の日の通り雨のように、間断なく舞う矢雨うしが、人を殺す質量を伴って固い土を穿ち煙を上げる。


 数瞬前まで沈黙が支配していた原始林の中、弓弦の弾かれる音だけが重なるように鳴り響く。無尽蔵に放たれる矢は、一体今までどこに隠されていたというのか。事が起こる間際までひた隠しにされていた殺意は、サイとエレクを巻き込む暴力の激流を生み出しては地を揺らす。


 時間にして人が十を数えるくらいののち、事を終えたと確信した一人の男が、木の上から地上へと飛び降りる。身軽な動作で音もなく地に降り立った男。男は存在を擬態する為か、草葉と同じ色の衣服を身に纏っていた。見てくれだけで言うならばただの村人にも見えるが、鋭くギラついた瞳は隠しきれない剣呑さも持ち合わせている。


 人混みに紛れれば誰それと分からぬくらい特徴のない顔を持つ男は、動きやすいように切り揃えられた短髪を触りながら眉尻を下げて陰鬱な表情を浮かべる。


 男が髪を掻いている右腕には、とても小さいが精密に組み込まれた付きの篭手が備え付けてあった。だらりとぶら下がっている左腕の篭手にも同じものが存在している。男の腰には革に覆われた小さな矢入れがあるが、今しがたの連射のせいで心許ない残数になっている。男としては既に仕事を終えた気分になっているのか、そこを気にする素振りはない。


「これが噂に名高いグアラドラの導師かよ。聞いてたよりも随分と手応えのない……」

 全身を矢に貫かれた白く丸い物体を前にして、表情よりは幾分若めである男の声が降り注ぐ。どこか冷めたような口ぶりではあるが、口元からこぼれる笑みは、己の力が誇示出来た事への満足感と狂気を内包している。


「……ん?」

 暫く己の世界に酔いしれていた男は、目の前に不可解な事象を見つけて疑問符を並べた。


「ガキがいねぇ?」

 男の中に唐突に生まれる違和感。目の前にある白い塊が導師だとするならば、一緒に始末する予定であったもう一つの対象が見当たらない。


「それだけの力があれば、まともに生きる事もできるだろうに」

「!」

 男は背後からの囁きに呼吸を止める。心臓が締まる音と流行はやる鼓動のままに、男は矢をつがえたままにしていた左腕の弩を反射的に声のする先へと向ける。


 鈍色の鎧を晒しながら飄々と存在する痩さ男を視界の端に捉えた瞬間、短髪の男は右手で素早く弦を操作して矢を放つ。


──ギッ


 けたたましい音を鳴らし零距離で放たれた男の必殺必中の矢は、容易く赤い燐光に遮られる。


「くそっ!」

 そこで初めて男の表情に焦りが生まれる。男は地面を横目で確認するが、地にある白い物体はただの布切れであった。男は己の失態を理解する。目の前の鎧の男の後ろには、若い男が怯えるように立っている。睨みつけようとした男の視線を遮るように、深紅の剣を持つ男、グアラドラの導師サイ・ヒューレが口を開く。


「見張りのようだが、詰めが甘かったな。お前が盗賊の一味か」

「うるせぇっっ!!」

 一段冷めた口調とともにサイ・ヒューレは冷徹な視線を男へと送る。指摘を掻き消すように、男は右腕の弩をサイに向ける。


「……え?」

 緊迫した空気の中、どこから出たのかもわからない素っ頓狂な男の声。

 サイに向けた男の右腕は、肘から逆方向に折れ曲がっていた。


「斬り落とされなかっただけ感謝してもらいたいものだが、納得してはくれないか」

 目の前の出来事をこともなげに呟くサイ。肩に乗せた深紅の剣が殊更ことさら異様な存在感を示し男の目を奪う。男が放った矢を弾いたと同時に、剣の側面で腕を折られたのだと理解する男。


 状況を認識して初めて、神経を切るような痛みが男に押し寄せる。奥歯を砕きそうになるほどの痛みに耐えながら、憤怒の表情のまま、男は残った左腕で腰に差していた剣を抜く。


「……ちっ」

 半身だけ鞘から抜いた剣をそのままにして、己の首元にある真紅の剣を見て男は舌打ちをする。今にも命を奪いそうな冷たい感触は、首筋から流れる血の熱さを鮮明に理解させる。皮一枚をいた死神を前にして、息を吐きだすと男は観念したように座り込む。


「負けだ負けだ。勝手にやってくれ」

「命までは取らんさ。お前が洗いざらい吐いてくれればな」

「甘いな……だが、一番大事なのは自分の命だ。俺としては別に喋ってもいいが、いくらあんたでも一人であの村の状況をどうにかするのは無理だと思うがね」

「どういうことだ?」

「あんたの想像以上に、根が深いってことさ」

 予想外に往生際の良い男の反応を見て、男の言葉の意味をサイは考える。


「村長……」

 ずっと背後で様子を見ていたエレクがふいに言葉を漏らす。

 エレクの言葉につられて村へと続く道を見たサイは、農具で武装した村の男達五人を引き連れた、ナム村長の姿を見つける。


「で、……どうするね?」

 目の前まで来たナムを見て、サイは村人達が何をやろうとしているのか測りかねた。反応を促すためのサイの問いかけに、ナムは神妙な表情のまま重い口を開く。


「奴に事が露呈する前に全部終わらせる。お主が始めた戦いだ、最後まで手伝ってもらうぞ。サイ導師」

「……ふむ」

 ナムの姿は覚悟を決めているようにも見えるが、サイの目からみても危うさが抜けきれない。


「ふん、俺達が生み出す利益を享受していた屑どもが、揃いも揃って手のひらを返すか。てめぇらも同じ穴のムジナだってことを忘れたんじゃねぇだろうな?」

 座ったままの男がナムの姿を見て顔をしかめながら、言葉を吐き捨てる。


「薄汚い盗賊共が何を抜かすか。こいつらには酷い目にあわされた、こちらで人質にさせて貰うぞ」

 サイの了承を得る前に、ナムは村人に目配せをして男を拘束する。


「事はもう起きてしまった。一度村に戻って作戦を立てる。それでよいな?」

「いや、その前にアルマを見つけねばならん」

 ナムの申し出に、サイは首を横に振る。サイ達が此処に来たのはアルマを探すためだ。


「それでは駄目じゃ。サイ導師、お主が村人全ての命を巻き込んだんじゃぞ。全てが解決した後であれば構わんが、今はこちらの指示に従ってもらう」

 あまりにも強引なナムの言葉。サイはナムに付いてきた村人達の表情を一人ずつ見てゆく。年若い者から年配の者まで、多種多様ではあるが、一様に浮かべている表情には翳りが見える。


 断ればアルマを見つけることは出来るが、物事の本質的な解決には程遠い。村人達の気勢を削ぐことにもなるから、サイは己が取るべき行動を慎重に見定める。


「そうか、……だが断る。俺は世界の全てを救う英雄ではないし、大切なものの優先順位をたがえる事もない。お前達が本気で何かを変えようとするのならば、状況に流されるのではなく、お前達の意思で行動を起こすことだ。アルマや、ここにいるエレクのようにな」

「なんと傲慢な……」

「分からんなら別にいいさ。行くぞ、エレク」

 そう言ってその場を去ろうとしたサイは、背にチクリと痛みを感じる。サイが振り返ると、そこに居たのは胸元で短剣を握ったままのエレクだった。


「エレ……ク……」


「良くやったぞエレク。……心配するなサイ導師、獣に使う神経毒じゃ。血に交われば身体が痺れ半日は動けなくなる。我らとてグアラドラと敵対する気はない、少しの間大人しくしてもらうぞ」

「ごめんなさい、サイ導師。アルマは俺が何とかします、サイ導師は──」

 近くにいるのに遠く聞こえるナム村長の声と、エレクの声。


 急速にグルグルと回ってゆく視界の中、サイの思考は闇に閉ざされてゆく。サイの意識が途切れる間際、強く手を握る誰かの温もりが、サイの内側に残る。





「アルマ……」




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