覇王の最期
覇王は目覚めると、そこは真っ暗な雪原の上だった。冷たい地面の上に倒れ伏し、己の体が焼け石の如く熱くなっている。ここがどこなのか、今がいつなのか、もはやはっきりと覚えていない。
覇王は意識が病魔で朦朧としており、ただその胸が張り裂けそうな痛みが走っている感覚だけがはっきりと伝わってきた。それでも何とかその急な山道に両手をつき、大きな手の平の跡をつけながら立ち上がる。
歪み滲む視界で見渡すと、そこには自分と一緒に逃げていたデンガハクの姿も、愛馬である巨大な黒馬の姿もない。周囲には誰の気配も
覇王は
(水が・・・・・・水が飲みたい・・・・・・)
そして覇王は水を求めるべくフラフラと彷徨い始めた。その道中では何度も気を失いそうなほどの胸の激痛が走り、一歩歩き進むのもやっとの状態だった。
だが、不思議と覇王にはその感覚がまるで他人事のように思われて、全く己の体の状態に
覇王はその夢の中を泳ぐかのような朧げな意識の中で、それでも不自由にしか動かせぬ自分自身の足の重みを感じながら、降りしきる雪の中を進んだ。暗闇の中、蛍の光のように虚空を照らし出す降雪に導かれるようにして、覇王は震える足を一歩ずつ踏みしめる。
やがて地面に窪みとなって溜まった雪解け水を見つけた。その水面はゆらゆらと音もなく揺れており、薄い氷の破片が浮かび上がっている。
覇王はそのわずかな冷たい水溜まりに向かって歩み寄り、そっと跪いて蹲る。そのまま透明な水面の上に顔を寄せると、夜明け前のわずかな陽の光に照らされ、自分の顔が映し出される。
その反射された己の顔には、もはや偉大なる覇王の面影はない。ただそこには血の気が失せて窶れた、今にも死にそうな巨漢の顔だけが浮かび上がった。
(・・・・・・ああ、これが今の我なのか?・・・・・・なんと
覇王はその驚愕の事実に心にまで鈍い痛みが走った。もはや心根さえも深く傷つき再起不能となる。
それでも覇王は本能のままに水を掬い上げた。バシャバシャと浅ましい音を立て、欲望のままに水を飲み干す。その雪の水は覇王の高熱の体を透き通るように芯まで冷やし、とても美味いと感じられた。何度も何度も水を掬っては飲むことを繰り返し、生きた心地を蘇らせ全身に力を宿らせる。
だがそう生気を感じ取れた瞬間、覇王は水たまりに向かって勢いよく倒れ伏した。
「グハァッ!!」
覇王の胸には再び激痛が襲いかかり、肺から血反吐を撒き散らした。一気に澄み切った雪解け水が赤く醜い色に染まる。その毒の吐瀉物が混じった液体は、もはやもう一度飲みたいという欲求など起こさない。
覇王は惜しむ気持ちを堪えながら、再び生まれたての子鹿のように足をガクガクと振るわせながら何とか立ち上がる。先の見えない吹雪が更に強まる中、覇王はまた当て所のない山道へと覚束ない足取りで進んだのだった。
(・・・・・・今度は、暖かい場所が欲しい・・・・・・どこか雪の寒さを凌げる場所はないものか・・・・・・)
覇王は密集した枯れ木に手を付いて、それを杖代わりにしてよろめきながら、牛歩のように足を進める。ズサリ、ズサリ、とただ己の生の本能のままに、この極寒の雪山の中で安らげる場所を探し求めた。
天高く
覇王はかつて未来皇帝となる栄光の
その兄弟たちの絆を守るためならどんな覇道でも歩んでみせる。それがかつての若きデンガダイが掲げた絶対なる誓いであった。
だが今はその己に課した信念も潰えようとしており、覇王は険しい道すがらに涙する。その守るべき弟たちの姿はもうどこにもないのだ。レンは暗殺され、キンは惨たらしく殺され、そしてハクは今や自分とはぐれて行方知れず。
もはや覇王には、今何のために自分があの日の誓いを立てたのかすらわからなくなっていた。それでも覇王はこの死線のような山道を超えるしかない。それはただ、子供の頃の夢の残滓を追うような、儚く、侘しい、それでもたった一つしかない今己が生きるべき理由であった。
覇王はもはや、その絶望的に希望がないこの生を繋ぎ止めるために、兄弟たちとの思い出に縋りつくしかなかったのだ。
覇王は瀕死の体で景色が歪む雪山を歩み続ける。やがて日が上り朝の露の気配が立ち込めると、急峻な山の坂道が終わりを告げる。覇王の眼前には広々とした白い平原が映し出された。そこには季節外れの百合の花の群れが満開に咲き乱れていた。
その圧巻な美しい光景に覇王は思わず見惚れてしまい、自分が病気であることすらも忘れてしまう。
「ああ・・・・・・なんときれいな光景だ・・・・・・」
覇王は感嘆の声を上げ、桃源郷に辿り着いたかの如く心を奪われる。そしてその花の中に包まれたならば、どれだけ暖かく心地良いだろうかと妄想を抱いてしまう。
もはや覇王は脳も病魔に蝕まれてしまっており、物事の正確な判断をする能力などとうに失われていた。ただ純粋無垢な子供の空想のように、思うがままに自分の最期の時を過ごすことしか出来なかった。
覇王は百合の花畑を掻き分け、その白い海に溺れるようにして寝転んだ。まるで柔らかな陽射しが差した雲の上で眠るかのような、居心地の良い感触が訪れた。
(暖かい・・・・・・暖かいなぁ・・・・・・)
既に熱が冷め冬の寒さで冷え切ってしまった体とは裏腹に、覇王はそんな幻想に取り憑かれる。もはや覇王の死期は間近まで迫ってきており、不死鳥が最期の時に輝きを増すかの如く、その生命が尽きかける瞬間を謳歌しようとしていた。
覇王は再び生まれたばかりの赤子に戻り、覇王となった偉業も、未来皇帝となる覇業も忘れて、大の字になって夢想の境地へと入り浸る。もはや今の覇王にとって、その花畑の白い大地が己の世界の全てだった。
だがその安息とした覇王の元に、突然不穏な足音が鳴り響く。ズサリ、ズサリ、ズサリ。覇王の百合の花の楽園を踏み荒らしながら、足並みを揃えて進む者たちがいた。
柔らかで穏やかな陽射しを浴びていた覇王は途端に目を覚まし、百合の花の群れからむくりと起き上がる。立ち上がった瞬間、また体に痛みが走りガクガクと震え出す。そして覇王は見たのだ。その何よりも恐ろしい形相をした男の姿を。
その者は黄金の鎧を全身に纏い、黄金の両手剣を腰に携えている。太陽の光に全身が曝されて、その堂々とした姿形がはっきりと照らし出されていた。
厚く合わさった唇の狭間は真っ直ぐに伸びており、気品のある柔らかな楕円の輪郭を描いていた。
髪は短く、艷やかで黒い総髪を後ろに流しており、そのなだらかで利発そうな額を露わにしている。ただ真ん中の髪の色だけは銀髪となっており、猛々しく獅子のような
肌は白く、頬は筋張り、首は太くて逞しい。その若き青年の威風堂々たる姿の正体は、誉れ高き海城王の子息にして、アルポート王国の偉大なる国王、ユーグリッド・レグラスであった。
かつて覇王に自らの父の首を捧げ命乞いをした惨めで臆病な面影はもはやなく、一つの国を背負う王としての荘厳たる覚悟を秘めた立ち居振る舞いを見せていた。
ユーグリッド王に従う臣下たちは、慎み深く王の後ろで控えている。後はただひたすらに、王が覇王を討てと勅命を下すのを待つばかりであった。
「・・・・・・ユーグリッドぉ・・・・・・」
覇王は震える背中を丸めたまま、ユーグリッド王と対峙する。だが、その足取りは立ち続けるのもやっとであり覚束ない。
「・・・・・・ユーグリッドぉっ・・・・・・!!」
覇王は背中に背負っていた大斧を
覇王はその武器の重みに耐えきれず、大斧の柄を滑り落としてしまう。ガラガラと鈍い金属音を立てて百合の雪原に落下させ、その黒々とした鉄の塊が無数の白い花びらを散らす。
覇王は再び震えが止まらない膝に力を入れ、身をかがめて大斧を拾おうとする。だが覇王は己の巨躯を支える力すら残っていないほど体が弱っており、のまま膝を折れば、二度と立ち上がることさえできないと悟る。
もはや覇王は敵の王と戦うことを諦めざるを得なかった。覇王は無様にユーグリッド王に背中を向け、足を引き摺るようにしながら百合の花畑から逃げ出す。ずし、ずし、ずし。その重い体が進む度に百合の花たちは無残な姿となって散っていく。まるでそれは、覇王の栄光の牙城が残骸となって崩れて落ちていく瞬間であるかのようだった。
ユーグリッド王はゆっくりと覇王の背中を追う。一歩、一歩、一歩。その栄光を重ねてきたアルポート王国の礎を一段一段踏みしめるように王は前進する。その二人の王の崩落と軌跡の歩みは、朝霧の日光の煌めきを一身に受けながら儀式のように続けられた。
此岸と彼岸に分かつように、厳正なる陽の光は二人の王を明確な運命の岐路に立たせる。そして二人の王の決着の時が来た。
「ガハッ!!」
覇王は百合の花畑を抜けると、
視界が暗み、意識が極限まで閉ざされる。もはや覇王にはどれだけ敵の王が迫ってきているのか確かめる余裕すらない。ひたすら両の手足をわずかずつに動かし、冷たい地面の上に這いずった痕跡を轢くことしかできなかった。
(ハク・・・・・・レン・・・・・・キン・・・・・・)
やがて覇王の脳裏には弟たちの面差しが一人ずつ浮かんできて、縋り付くような涙を流す。そこには覇王の称号を与えられた偉大なる王としての面影などどこにもない。ただの惨めな終わりを迎える一人の男として、生涯が閉ざされようとしていた。
やがてその背後からは、ズサ、ズサ、ズサ、と雪を踏みしめる音だけが聞こえてくる。それは断頭台の処刑人、己の人生の全てを終わらせる死神の合図。
覇王は確かに己を殺そうとするユーグリッド王の気配を感じ取っていたのだった。その距離がだんだんと近づいてくる。それでも覇王は這い逃げることを止めるわけにはいかない。恐怖のままに、本能のままに、ただ己が生きたいという無様な欲のままに悪あがきの逃亡を必死で続ける。
だがその時、ユーグリッド王の足音が止んだ。静かに己を見下ろす殺気立った気配がする。やがて両手剣の鞘から黄金の剣が抜かれる音が耳元に
ユーグリッド王は今、太陽の光を一身に浴びて、アルポート王国の永遠の繁栄を齎す偉大なる一閃を振るおうとした。
だがその瞬間だった。
「・・・・・・うおおおおおおおおおぉぉッッ!!!」
覇王は突然、渾身の力を振り絞って咆哮を上げた。覇王は側面に体を回転させ、今まで上り詰めてきた山頂の急斜面から転がり落ちていった。その覇王の巨躯は瞬く間に雪の坂道に
雪に塗れ、血に塗れ、その巨大な塊は冷たく汚れながら体の肉を裂き、中身の骨を砕いていく。その赤い雪だるまと化した肉塊にはもはや人間の原型はなく、ただ化け物の無残な抜け殻だけが残った。やがて覇王は坂から転がり切り、仰向けに血だらけになりながら両の手足を広げる。
ユーグリッド王も後を追うようにして、雪の急斜面を慎重に駆け下りていった。その降下した先のなだらかな山道では、覇王デンガダイ・バウワーの残骸が倒れていた。顔中が流血しながら赤く染まり、その巨大な四肢があらぬ方向へと折れ曲がっている。体の下半身は捩じ切れて
その巨大な肉の塊には、もはや人間の生を証明できる物体などどこにも残されていなかった。雪は静かに降り積もり、その巨大なる覇王の存在を全て消し去ろうとしている。周りの虚ろな景色と同じように、真っ白に覇王の巨躯を染め上げていった。
その無情なる覇王の最期の光景を見取ると、ユーグリッド王は静寂の中、海城王の黄金の剣を鞘に収めた。
こうして、3月1日の朝6時、アルポート王国は長きに渡る覇王軍との戦争に勝利し、終戦を迎えたのである。
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