そして王は毒牙を突き立てる

2月22日の夜に覇王軍に伝染病が流行していることが発覚し、アルポート王国との戦争を一時休戦することが決定されてから数日後、やはり感染症は治まらなかった。


24日目の夜時点ではその感染の規模は2万人にも上り、覇王軍4万の軍の半分の将兵が立ち上がることすらできなくなっていた。中には病死者まで出てきており、もはやこのまま病気が蔓延すれば覇王軍が滅びることは必至である。4日前のアルポート王国への勝利の確信から一転、覇王軍の陣営は再び絶望の渦に包まれていた。


そんな覇王軍の惨状の中で、デンガハクの部隊だけは誰も病気にならず生き残っていた。デンガハクが部隊に命令して、決してユーグリッドの米を食べるなと命じていたのである。だが代わりに皆空腹に喘いでおり、伝染病が蔓延している不安とともにすっかり生気が失われていた。


(やはり、ユーグリッドの米を食べていない我々だけが伝染病に掛かっていない。とすれば思った通りユーグリッドの米に何か仕掛けられていたのだ。もはや毒が仕込まれていたことは確定的。この事実を早急に兄上に伝えねば!)


デンガハクは覇王がいる本陣へと急いで赴く。だが、そこで兄から浴びせられた言葉は叱責だった。


「ハク! いい加減にせぬかッ!! ユーグリッドの米に毒など入っていないと言っているだろう!! それにお前は何故部下たちに、食料も与えずに兵の活力を奪うような真似までしている!? お前も一軍の将であれば、兵の離心を招くことがどれだけ危険なことかわかっているであろう!?


もはやお前の当て推量など邪魔なだけだ!! 今後お前が米について意見することを禁じる!! さもなくば弟のお前と言えど、流言飛語の罪で牢に打ち込むぞっ!!」


取り付く島もなく、デンガハクは本陣を追い出された。もはやこれ以上兄の方針に反対すれば、弟の自分とて命が危ういだろう。デンガハクは諫言かんげんを諦めざるを得なかった。


そして己の陣営に戻ると、信じられない光景が目に入った。何と部下たちが自分の命令を無視して米を食べているのである。デンガハクは忽ち怒りが湧き上がり、部下たちに激高した。


「おいっ、お前たち!! 何故ユーグリッドの米を食っている!? 俺があれほど食ってはならぬと命じたはずだろッ!?」


デンガハクは炊事の焚き火を囲む兵たちに向かってズカズカと進み歩く。


兵士たちは困ったような顔をして上官の顔を見上げた。


「も、申し訳ございませんデンガハク様。ですがこれは覇王様直々の伝言なのです。『ハクが何を言って来ようとも、うぬらはきちんと米を食べろ』と。我々も流石に5日間水だけしか飲めぬというのは無理でございます。どうか米を食べることをお許しください」


兵士たちは米の入った茶碗を大事そうに持ちながら、奪われないようにとペコリと頭を下げる。


その部下たちの懇願の言葉を聞き、デンガハクはもはや兄が自分のことを全く信頼していないことを理解してしまった。今の自分はただの風評被害を撒き散らすうつけ者としか見られておらず、誰からも相手にされていないのだ。覇王軍の副総大将の発言力は著しく低下しており、ただの軍の統率を乱す足手まといと化してしまっている。


デンガハクはそこでとうとう自分が今の覇王軍の獅子身中の虫であることを自覚してしまい、あまりの己の不甲斐なさに拳を震わせてしまった。デンガハクは不安そうな目で眺めてくる部下たちに背を向けてしまう。


「・・・・・・好きにしろっ!!」


結局部下たちを説得できる根拠もないデンガハクは、自陣からも消え去ってしまった。


それから3日の間、デンガハクは一人で何とか飢えを凌ぐ方法を模索していた。トカゲやネズミを捕まえて焼いたり、慣れない釣りをしてみたり、食べられそうな雑草を見つけて煮炊きにしたりした。


だがどれも結局思ったような効果は得られず、空腹の日々に喘いでいた。陣中の部下たちの様子をこっそり覗いてみても、皆美味しそうにユーグリッドの米を食べている。


この流行り病の厄災に陥ってしまった覇王軍にとって、唯一の楽しみが食事であった。皆目の前の悲惨な現実を忘れたくて、無我夢中で食事に没頭して心を慰めようとしている。


だが、その日27日の夜時点で、ついに感染者は3万5000人にも上っていた。もはや覇王軍のまともに動くことができる残りの兵は5000人だけであり、アルポート王国1万2000の軍の城を落とせる状態とはとても言えない。もしかしたら、このまま流行り病が全軍に及び、全滅してしまう危険性すら孕んでいる。


諸侯たちのほとんども謎の病に伏せっており、今まともに行動ができるのはデンガハクだけであった。ここで自分が倒れてしまっては、もはやこの戦で兵の指揮を取ることができる将がいなくなってしまうのだ。


デンガハクは必死で自分の健康管理に気を配る。だが、デンガハクの空腹もとうとう限界に来た。


(アレは二度とやりたくなかったが、俺も腹をくくらねば・・・・・・)


そしてデンガハクは自分の陣営に戻ると、一人で巡回していた兵に声を掛けた。


「おいっ、そこの者! 少し話がある。俺の後について来い」


突然の上官の命令に、そのぼんやりとしていた巡回兵は驚いてしまう。その兵士はあたふたとたじろぎ、また米を食うなと指図してくるのではないかと身構える。


「デ、デンガハク様・・・・・・私に何の御用でしょうか?」


「いや、そう構えなくていい。別に大した用事ではない。今後の俺たちの部隊のことで秘密裏にお前に話しておきたいことがあるのだ」


「わ、私に話ですか?」


その下級の兵士は完全にデンガハクに不審を抱いてる。その蛇のような不気味な面構えに、身じろぎして一歩足を引いてさえいる。


「ああそうだ。今は伝染病が流行していて動ける兵たちが不足していてな、だからお前を巡回隊長として緊急で昇進させようと考えているのだ」


「しょ、昇進!?」


そのまたとない好機の話に巡回兵は飛びついた。この絶望的な状況の中でも出世欲だけはあるようだ。


「ああ、詳しいことはあの天幕で話す。俺の後を付いてこい」


「は、はいっ」


巡回兵はいそいそとデンガハクの後を付いていき、天幕の中に入っていく。だがその瞬間、兵士は口を塞がれて短剣で首を掻き切られた。


「ングゥッ!!」


声にならない悲鳴を上げ、そして憐れな男は新鮮な肉の塊となった。


デンガハクは冷厳な目で短剣を鞘に収めながら、その真新しい死体を見下ろす。


(許せよ。俺とて死ぬわけにはいかんのだ)


そしてデンガハクは死体を肩に担ぐと誰もいない陣営へと足を運んだ。


しばらくして27日の9時の夜、デンガハクは火焚をしながら悩んでいた。隣には自分が殺したばかりの裸の味方兵が横たわっている。それを本当に食するかどうかを迷っていたのだ。


(人間を食べるのはこれが初めてではない。俺も昔にあった戦で飢餓に襲われたことがある。だが、あの吐き気を催すほど気持ちの悪い味は今でも忘れることができない。


あれを食べた後俺は1週間悪夢でうなされてしまったのだ。俺が殺した兵が生きたまま俺の肉を食い殺す夢だ。まるで正夢のように、食いちぎられた肉が離れる感覚や激痛がまざまざと感じ取れた。俺の人生の中であんな気味の悪い羽目に遭うことは二度とないと思っていたのに、またあのような地獄の釜のような味を味わわねばならぬのか・・・・・・)


デンガハクは焚き火のパチパチという一定の律動を聞きながら、額に大きな汗を流す。あの腐って粘ついた蛋白質の感触が口の中で蘇り、今からでも吐き出してしまいそうになる。


だが、デンガハクはついに決心して死体の隣に腰を下ろした。鋭利な短剣を抜き出し、その死体を仰向けにして胸の真ん中に突き当てる。


(覚悟を決めるしかない! 俺とて食べねば死んでしまうのだ!! 吐き出さぬように、焼いた肉を一気に水に含んで飲み干す! ただそれだけだ!!)


デンガハクは荒々しく兵士の胸を真っ直ぐに切り裂いた。そしてその傷口に両手を突っ込み、力任せに赤い肉の筋を引きちぎり、パックリと胸の肉壁をこじ開ける。だが、そこでデンガハクが目にしたものはとんでもない光景だった。


「な、何だこれはッ!!」


思わず素っ頓狂な声を上げて、デンガハクは引き裂いた胸の中に短剣を差し入れる。その異様な色をした内蔵と繋がった一本の管を、ノコギリのように動かして切断する。


目の前の赤い肉塊の裂け目からは肋骨や心臓、そして2つの肺がありありと見える。その2対の肺臓が醜怪で恐ろしい有様に成り果てているのだ。


デンガハクは切り取った1つの肺を焚き火の明かりの前に翳し、つぶさにそれを観察する。


その臓器には全体に黒いまだら模様が走っていた。まるで炭で焼かれたような黒い大きな化膿部が、皺だらけの老人のような顔となってあちこちに蔓延っている。元々は綺麗な薄紅色をしていたはずの肺は柔らかな弾力を失い、表面が黒雲母くろうんもの石のように固くなっている。それはもはやまともに呼吸の機能を果たすことができなくなっていただろう。


その滅茶苦茶に壊された内蔵からは、まるで人間の命を弄ぶかのような残虐な思惑が垣間見える。その蹂躙された命からは嘲笑いが聞こえてくるかのように奴の顔が浮かんでくる。


これはもはや自然の災害などではない。明らかに人為的な策謀によって巻き起こされた大虐殺だ。


(こ、これは毒だッ!! 俺も暗殺の心得があるから理解できる!! これは毒によってできた内蔵の腐食作用だッ!!)


それに気がついた瞬間、デンガハクは飛矢の如く馬に乗り本陣へと駆け出した。右手には発見したばかりの黒い肺を握リ締めている。あっという間に本陣の天幕に着くと、見張りの兵たちを突き飛ばして中に入った。


すると覇王が大盛りに盛られた四季咲米しきさかまいを沈黙した様子で食べているのが目に入る。覇王もこの逆境の中、食事だけを唯一の楽しみとしていたのだ。


だが、その大きな茶碗をデンガハクは有無を言わさず払い飛ばした。瞬く間に砂の地面には大きな米の白い粒が散らばった。


覇王は突然の弟の蛮行に驚いて目をみはる。


「ハクッ!! 貴様何をするのだッ!? 我の食事を邪魔するとはどういう了見だッ!!」


覇王はとうとう堪忍袋の緒が切れて立ち上がり、弟の無礼に怒鳴り散らす。だがそれよりも大きな音声でデンガハクは懸命に訴えかけた。


「兄上ッ!! その米を食べてはなりませんッ!! それはやはり毒なのですッ!! 全て吐き出してくださいッ!!」


「貴様ッ!! まだそんな世迷い言を抜かすつもりかッ!! 貴様はどれだけ自分が略奪した米を疑えば気が済むのだッ!! 貴様の勘ぐりに付き合うのももう飽き飽きだッ!! 我が貴様を叩き切る前にさっさと去ねッ!!」


覇王が弟に対して容赦なく唾棄の言葉を吐く。


だがデンガハクは命懸けで兄に食い下がった。


「いいえ、それはできませぬ兄上ッ!! これを見てくださいッ!! 俺が自軍の部隊の兵を解剖した時に発見したものですッ!!」


デンガハクは怒りが爆発寸前の兄に対して、右手を高々と突き上げる。


その醜怪な黒い塊は覇王の憤怒を一瞬で冷ますものだった。


「・・・・・・なんだ、その気持ちの悪い塊は? 何故お前はこんなものを我に見せる?」


「これは人間の肺ですっ!! 先程俺が死体を調べた時に見つけたのですっ!! 見てください、この凶々しい黒い斑点をっ! これは明らかにただの病気によるものではありません! 毒を取り扱ったことのある俺にはわかります!! これは確かに毒による内臓の腐食反応です!!」


デンガハクは必死に兄に米が毒物であった事実を訴えかける。その弟の言葉は真に迫っており、嘘偽りではないことがはっきりと伝わってくる。


その瞬間、覇王の顔がさっと青ざめる。覇王はそのあまりにも生々しい物的証拠に思わず狼狽うろたえ、わなわなと全身を震わせる。一歩、ニ歩と後退りし、その恐ろしい驚愕の事実に頭の中を放心させた。


「・・・・・・まさか、ユーグリッド。あの男が、我々全軍に、毒を仕込んでいたとーー」


それに気づいた瞬間、覇王は喀血かっけつして地面に倒れ伏した。

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