覇王の絶望は来たる

※このエピソードにはグロテスクな描写、及び性的暴行の描写が含まれています。


時は戻り1月28日午後4時、モンテニ王国から覇王軍が転身した8日後、デンガダイ・バウワーは絶望した。


10万の大軍がボヘミティリア王国に辿り着いた時、誰もが言葉を失っていた。


北側の巨大な鉄の城門があった場所は、洞窟のように大きな穴を開けて抉れており、城壁の最上部は流血が滴り落ちた無秩序な岩石の残骸と化している。目の前の歪な穴ぼこから覗かれるボヘミティリアの都の中は、どこもかしこも真っ黒な炭の色で染まっていた。


ボヘミティリア王国の空には暗雲が立ち込め、淀んだ重苦しい空気がこの何もかもを失った灰の国へと降り掛かっている。


「・・・・・・何だ、これは・・・・・・」


全軍の最前陣に立った覇王はようやくボソリと呟いた。雷鳴の如く豪快で恐ろしい覇気のある声をもはや発することができない。


隣にいるデンガハクも蛇の抜け殻のように心と声を失っていた。


長年戦を続けてきたバウワー家兄弟たちですら、こんな国家の惨状は初めて目の当たりにしたのである。


「・・・・・・あ、兄上。とにかくまずは中に入ってボヘミティリア王国の状況を確認せねば」


デンガハクは消沈した掠れた声のまま、何とかボヘミティリア軍が今やるべきことを事務的に伝える。


「・・・・・・ああ、わかっておる。キンは、キンは無事なのか・・・・・・」


もはや弟の名前を口に出すことさえ、ためらわれ喉が詰まるのを堪えながら、覇王が号令をかける。


「全軍、ボヘミティリア王国を調査せよ! 2時間後に再びこの北門に集合し、都の状況を把握する! 生き残りを発見した場合は、直ちにこの北門まで引き連れて救助せよ!」


そのいつもは天を裂くほど大きなはずの怒号はもはや勢いをなくしており、まるで百獣の王の雄叫びが家を失った子犬のような泣き声に変わっていた。


覇王の軍は行進する。だが戦をするためではない。そこに覇王の力強い天下統一の大義はなく、ただ縋り付きたい一縷の希望を、やはりなかったのだと再確認するための虚しい作業だけがあったのだ。


そしてボヘミティリア王国の廃城に入ると、やはり絶望の重しが覇王軍にし掛かる。


地面を埋め尽くすほどの死体の山、そのどれもが胎児のように丸まって裸の黒い炭人形となっている。


兵士が死体の1つの体を起こし、つぶさに顔を確認する。それが自分の家族であるかどうかすらもはや判断できない。


ただその確認作業の中で、その死体が一様に皆、男も、女も、子供も、何故か鼻を削ぎ落とされていることがわかった。どうしてそんなことになっているのかは理解できない。ただその顔の欠損が、いかにアルポート王国の兵士たちが残虐で非道な真似をこの国で働いていたのかを証明している。


兵士の一人がボヘミティリアのあまりの惨たらしさに嘔吐した。白い吐瀉物が黒い大地の上に垂れ流され、まざまざとその汚物の粘液が曇り空の下に晒される。


だがそんな一人の兵士の粗相など誰も気にも止めない。皆人間の肉が焼けた蛋白質たんぱくしつの腐臭に鼻を覆っており、その地獄の釜の底のような光景に眉をひそめていた。


その後、言葉を失った覇王の代わりにデンガハクが各軍にボヘミティリア王国の東西南北にばらけるように命令した。


その覇王の側近の言葉に将兵らは、亡霊が彷徨うような足取りで各地に散らばる。もはや何のためにそんな命令が下ったのかすら理解できていない。ただ茫然と習慣的に上官の命令に従っただけだった。


「・・・・・・兄上、行きましょう。キンの無事を確認しなければ・・・・・・」


「・・・・・・ああ、わかっておる」


覇王は生返事をしながら、先頭に立った弟のデンガハクの後に付いていく。


デンガハク自身も気を失いそうなほど今の惨状に心が傷ついていた。だが、今すぐにでも崩れ落ちそうな覇王を引き立たせるには自分しかいないと思い直し、何とか兄を引き連れて黒い廃墟を歩く。


バウワー家兄弟たちの部隊はボヘミティリア王国中央の大きな井戸の前へと差し掛かった。


「・・・・・・これは、ひどい。火から逃れようとして皆井戸に身を投げ込んだのだ・・・・・・」


デンガハクは死者たちが沈む泥沼のような井戸を覗き込み、その水で皮膚が白く剥がれ落ちた真新しい水死体の群れを確認する。デンガハクは井戸に備えられた釣瓶つるべを落とし、死体の隙間を縫って水を汲み上げる。そしてそのまま自分の手に身に着けた篭手に水をつけ、わずかにそっと死体で濁った水を舐める。


「・・・・・・やはり、毒が入れられている。アルポート軍は我々を徹底的に叩きのめすつもりだったのだ・・・・・・」


その屈辱の事実に怒りすら湧いてこない。かつてアルポート王国に傲慢で絶対的な支配者として高圧外交をしていた頃の自分の姿など、とうに忘れている。さらにデンガハクは井戸の近くにあった田畑の土をそっと舐める。やはりその砂粒は酸のように酸っぱくて痺れるような味がして、毒が撒かれていることが確認できた。


もはやボヘミティリア王国には、人間が食べられるものなど残っていない。野犬や鴉が人間の焼死体の肉を食い荒らしに来るだけだった。


「・・・・・・兄上、次へ進みましょう。ボヘミティリアの王城がどうなっているか調べなくては・・・・・・」


「・・・・・・ああ」


覇王は弟に言われるがままに付いていく。まるで大きな子供の迷子が補導されているようであり、それほど今の覇王は覚束ないものだった。もはや偉大なる王としての、天下を統一する未来皇帝としての威厳など、どこかに置き忘れていた。


やがて兄弟たちの部隊はボヘミティリアの王城に辿りついた。


北門と同じように王城の城壁が抉れている。いくつもの大きな穴が壁に蜂の巣のように空いており、その戦争がいかに激しく悲惨なものであったかを物語っている。


兄弟たちは残酷な真実を知る瞬間を覚悟しながら、ゆっくりと城門の下を潜っていく。


そして王城の中の惨劇は、真っ黒な外の焦土よりも、遥かにアルポート軍の無慈悲さを証明するものだった。片腕、片足、そして千切られた腐敗した内蔵。その人間の無数の断片がそこかしこの通路の上で散らばっている。身分も性別も年齢も関係ない。ボヘミティリアの人間だというだけで、こんなにも残忍な処分が下されたのだ。


兄弟たちは屍の群れを避けることもできず、その血や内臓の非人道的な感触を踏みしめながら城の中を進むしかなかった。


そして彼の者たちは玉座の間に着いた。


そこには無残なバウワー家の一族が無秩序に転がっていた。安らかに眠れた者などいない。皆一様に裸にされ、鼻を削がれ、装飾品を剥奪されている。その苦しみと怨嗟えんさに歪められた形相は、覇王が10万の大軍を遠征したことを責め苛んでいるかのように見えた。


その恨みつらみの群れの中に一人、大きく腹の膨らんだ女がいた。


「ミカムッ! ミカムッーー!!」


覇王の隣で突然弟のデンガハクが叫びながら駆け出した。弟はその裸の女を抱き上げ、川の氾濫のように涙を流す。


「・・・・・・なんてことだっ!! やっと俺たちの子供を授かったばかりだと言うのに・・・・・・」


裸の腹の中からは、悪魔の鎌で切り裂かれたかのようにに赤い胎児の姿が見えていた。その無辜むこであるはずの赤子にも、何の罪状が見咎められたのか、幾十にも刃が突き刺された形跡が残っている。蛙のように膨れ上がった目玉が抉り取られ、生まれる前から光を失っていた。


女の胃腸は肉の皮ごと玉座の間の外に掻き出されており、その股ぐらの穴からは男の白濁液さえ溢れている。


無様で凄惨な妻の亡骸を見せつけらたデンガハクには、もはや今再起をする力が残されていない。膝を折り、泣き崩れ、そこに兄である覇王がいることすら忘却の彼方に飛んでいる。


覇王はその弟の変わり果ててしまった姿を見て、ハッとして我に返る。そして視線を必死でキョロキョロと動かし、玉座の間の裸の死体を何度も見渡す。


(・・・・・・いない。ここにキンはいない・・・・・・キンは、キンは一体どこに行ったというのだ?)


覇王は泣き崩れる弟を置いて、無我夢中でボヘミティリアの王城を駆け回った。幾つもの部屋の扉を開け、机の下や棚の裏まで隅々と探し回る。


だが、病弱な弟の姿などどこにも見当たらない。最悪の場合、敵に拉致され死よりもひどい責め苦を味わっている可能性もある。


(そうだ! キンは病気だ。自分の部屋の中で療養していたのかもしれない)


錯乱していた覇王はやっとその推理に辿り着き、弟のデンガキンの部屋へと走る。


扉の錠にはこじ開けられた形跡があり、口が呆けたように木の扉が半開きになっている。


覇王は丁番の金具が取れてしまうほどの勢いで、バタンッと音を立てて扉を全開に開く。


そしてその時真実を見てしまった。弟の何もかもが露わとなった姿を。


デンガキンはベッドの上で死んでいた。腹から腸が飛び出し、部屋全体に吐瀉を撒き散らしたかのような異様な臭いが立ち込めている。服は剥ぎ取られ、細い体が剥き出しとなり、顔には何度も玩具のように殴られた跡が残っている。


その臓器が飛び出した腹部の上の胸部には、「次は覇王、お前の番だ」という血の伝言が抉り彫られている。股間の局部は切り取られ、その小さく縮み上がった男のソレがベシャリと床に叩きつけられていた。


もはやデンガキンは男でありながら、女のように陵辱され、アルポート兵から恨むべき覇王の弟として、最大限考えられ得る屈辱を受けていたのである。唯一救いがあるとすれば、その恥辱がデンガキンが自殺した後に起こったということだけだろう。


「・・・・・・ああっ・・・・・・ああっ!!!」


デンガダイはその戦を知らず、無垢なはずだった弟の変わり果てた姿を見て声を上げる。今までの人生の中で発したことがない、情けのない震えた声だった。もはや偉大なる覇王としての風格は脱ぎ去られ、ただ弟を残虐の果てに失った兄として大粒の涙を流す。


その巨漢の男は全身をわなわなと震わせ、兜を脱ぎ捨て、覚束ない手で弟の亡骸を抱き上げる。横長の瞳から溢れる大量の雫が、苦しみ抜いた末に死んだ弟の絶望の面差しに降り注ぐ。


覇王はただ、何の面目も威厳もなく弟のために慟哭した。その死後の魂がせめて安らかな場所に行けることを願うしかない。それが己の判断の過ちのために、ボヘミティリア王国を失い、未来皇帝への道を失い、そして愛すべき弟すらも失った、デンガダイが縋れる最後にして唯一の希望だった。


もはや己が皇帝となる天下統一の覇道など関係ない。デンガダイは覇王の栄光を捨て去り、ただ復讐の炎だけがその身に宿り始める。ヒシヒシと、ゴウゴウと、全てを失った男の体の中に、憎悪の火車だけが燃え広がる。


やがてその心の中には1つの純然たる怒りだけが爆発する。復讐鬼は弟を抱きながら天を仰いだ。


「おのれユーグリッドオオオオォォッッッッ!!!!」

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