海城王の愚かな息子

覇王軍が襲来したその日の夜、海城王は自室のベッドの上に座り、得物である両手剣を黙して研いでいた。ロウソク一つ分の火が灯るだけの暗闇の中、シャァァァという金属音が何度もこだまする。


その神聖な儀式のような研磨がしばらく続けられると、王の部屋に、コン、コン、という扉がたたかれる微かな音が響いた。


「誰だ?」


海城王は顔を上げ、警戒を潜めた声で尋ねる。


「父上、ユーグリッドにござります」


扉の奥からこれまた控えめな声が聞こえてくる。


「ユーグリッドか・・・・・・入るがよい」


父の許しを得て、息子のユーグリッド・レグラスは音も立てず扉から入室した。その面持ちはどこか緊張しており、わずかながら額に汗を掻いていた。


「どうしたユーグリッドよ? そのように体を縮こまらせて。親子の間柄にそのように畏まる必要はないぞ?」


「ええ、すみませぬ父上。やはり俺は覇王軍相手に緊張をしているようです」


ユーグリッドはそう言い繕うとそっと扉を閉める。そのユーグリッドの動作には一切の物音はなく、とても慎重な気配であった。そしてユーグリッドは足音も立てず父の元へと近づき、剣を研ぎ続けている父の姿を見据えた。


「・・・・・・父上」


ユーグリッドは静かに口を開く。


「・・・・・・父上は、いかがなさるおつもりなのですか?」


わずかに声を震わせたユーグリッドは曖昧に問い質す。海城王はその息子の問いかけにも顔を上げず、ひたすらに剣の手入れを続けていた。


「父上は、本気で覇王軍と戦おうとお考えなのですか!」


ユーグリッドは今度ははっきりとした口調で父に詰問する。海城王はその単刀直入な問いかけに手を止め、息子の顔を見上げる。しばらく息子の顔を見つめ沈黙したが、王は決然として答えを返した。


「ああ、私は覇王デンガダイと戦うつもりだ」


海城王は開戦の決意を息子に伝えた。父の答えを聞き届けると、ユーグリッドはグッと息を呑み、その不安を吐き出すようにして声を張り上げた。


「なぜでございますか! 父上もあの軍と兵器の圧倒的な数を目の当たりにしたでしょう! 到底敵うはずがありません! 勝てぬとわかっていながら、何故戦いに挑むのですか!!」


ユーグリッドは恐れを爆発させるようにして父に問い詰める。しかし当の海城王は、そんな取り乱す息子とは対照的に異様なほど沈着な態度であった。


「落ち着けユーグリッドよ。何も負けると決まったわけではないだろう。我らアルポート王国は海に囲まれた難攻不落の城塞だ。例え覇王の10万の軍を持ってしても攻め落とすことは容易ではない。我々が長期戦に持ち込めば、覇王軍の兵糧も尽き、奴らも撤退せざるを得なくなるだろう」


「ですが、覇王軍には投石機があります! 父上はあの大量の殺戮兵器に対して、何か打つ手があるのですか!?」


ユーグリッドは昼間に目の当たりにした、おぞましい光景を思い出しながら絶叫する。


「・・・・・・・・・・・・」


そこで海城王は押し黙ってしまう。顔を俯け暗晦あんかいな表情を宿す。その父の頼りない様子を見取り、ユーグリッドは絶望した。やはり父には何も打開策などなかったのだと確信する。


「父上ッ! 勝算がないのなら降伏すべきです! 一度戦争が始まれば、もはや覇王は降伏など聞き入れなくなります! これが最初にして最後の我々が生き残れる機会なのです! 父上、どうか明日覇王軍に降伏の受け入れを宣言してください!」


ユーグリッドは必死に父を説得する。そんな息子の一所懸命な様子を海城王はただじっと見つめ続けていた。そしてしばらくすると海城王はすくりとベッドから立ち上がり、息子の傍まで歩み寄った。


「ユーグリッドよ・・・・・・」


両手剣を右手に持ったまま、海城王は左手を息子の肩に乗せる。その大柄な体の頭を下げ、背の低い息子の瞳をまっすぐに見据える。


「これは、海城王としての意地なのだ」


そして海城王は静かに決然とした己の意志を示した。


「・・・・・・意地?」


ユーグリッドは父の爛々らんらんとした双眸を見上げ、目をみはる。


「そう、意地だ。我々レグラス家は元々貧しい武家の生まれであった。家はいつ取り潰しになるかもわからぬほど困窮し、そのために妻にも先立たれてしまった。


だが、そんな折に私は皇帝マーレジア様の目に留まり、あの御方は私を直属の兵として召し抱えてくださったのだ。その後に私はマーレジア様のご期待に応えるべく、数多の戦場を駆け、数多の武功を挙げ続けた。そしてその勲功がアーシュマハ大陸の全土で称えられ、程なくして私はマーレジア様のご寵愛を身に余るほどに授かることになった。


そして遂に私はアルポート王国の王となるご勅命を拝命し、それに伴い皇帝陛下より『海城王』の称号を賜ったのだ。


マーレジア様から受けたこの御恩は、このアルポート王国の海よりも深く計り知れない。マーレジア様への忠義を果たせるなら、例えこの命を投げ出すことになったとしても私は構わない」


海城王は懐かしむような顔をして滔々とうとうと過去を語る。その面差しは何かを悟ったかのようで、とても穏やかなものだった。


「ユーグリッド、このアルポート王国はマーレジア様が私を信頼してお与えくださった栄誉たる国なのだ。その誉れある皇帝陛下の国を侵略者の手に渡すことは、マーレジア様のご信任を踏みにじることに他ならない。


かような逆賊への屈服は、皇帝陛下より授かった『海城王』の名にかけて断じて認めることができぬ。だから私は最後の時まで、この国を守るために覇王と戦うつもりだ」


海城王はそう締めくくり語り終える。その述懐は海城王が皇帝マーレジアをどれほど慕っているのかを、十分に理解できる切実な告白であった。


けれどユーグリッドには同時に、その打ち明けがまるで父の遺言のように感じられていた。明日父は確実に戦場に行って死んでしまう。


そのことがわかっていながらも、ユーグリッドはもはや父の無謀を止める諫言かんげんの言葉を何も思いつかなかった。


「・・・・・・さあ、私の決意はわかったであろう。お前も明日には戦場に行かねばならん。お前の初めての戦いになるが、せめてレグラス家の名に恥じぬ華々しい戦績をあげよ、ユーグリッドよ」


海城王は息子の肩からそっと手を離すと静かに背を向けた。剣を持ったまま元いたベッドのほうへとゆっくりと戻っていく。


だが次の瞬間ーー


海城王の体は大きく弓なりに仰け反っていた。全身に電撃が流れたかのように硬直し、その大柄な背中にはひやりとした感触が走る。


そして海城王がその痛みに気づいた時には、左胸から血塗れの剣の切っ先が飛び出していたのだった。その刃が引き下げられた瞬間、海城王は黄金の剣を床に落としベッドの上に両手をついた。


「ユーグリッドォッ・・・・・・」


海城王は苦しげに息子の名を口にする。だが返事はない。わなわなと震える体を無理やりに起き上がらせ翻す。


するとユーグリッドが両手を震わせて血塗れの短剣を構えていた。


「ユーグリッドォッ・・・・・・!」


海城王は息子を怨嗟えんさの籠もった目で睨めつける。右手で押さえられた左胸からはドクドクと血が流れ続けている。


「父上・・・・・・俺はあんたの意地というものがわからない。あんたがどれほど皇帝を敬愛しているのかもわからない。だが俺は生きたい。こんなところで犬死はしたくない。だから俺は、こうするしかなかった・・・・・・」


ユーグリッドは顔を伏せ、震えた声で己の真意を告げる。


「ユーグリッドォッ・・・・・・この大馬鹿者めがぁッ・・・・・・!!」


海城王は左胸から手を離し、落ちていた両手剣を拾い上げる。だが既に心臓に致命傷を負ったため、その大剣を振るうことがもはやできなかった。


海城王は荒い呼吸を続けながら短剣を構えるユーグリッドを睨み続ける。


「わかっているのか? ユーグリッド・・・・・・お前は父親殺しの大罪を犯した。そんな親殺しの王など、臣下も領民も誰も付き従いはせん。結局お前は覇王の奴隷となり、国の者たちから忌み嫌われる死よりも恐ろしい生を選んだのだ。


お前はその覚悟があって、この私を殺したのかぁッ・・・・・・!!」


瀕死とは思えぬほどの咆哮を海城王は上げる。


ユーグリッドはその気迫に思わず一歩、二歩と後ずさる。


「ユーグリッド・・・・・・私は貴様を許さんぞぉ・・・・・・このアルポート王国を逆賊の手に渡す貴様を許さんぞぉッ・・・・・・呪ってやる・・・・・・貴様を呪い殺してやるッ・・・・・・!」


そこまで言った時、海城王は喀血かっけつしてその場に倒れ込んだ。カラカラと音を立て両手剣が手から滑り落ちる。


「父上ッ!!」


ユーグリッドは短剣を放り出して海城王の元へ駆け寄ろうとする。


「近寄るなァッ・・・・・・!」


だが瀕死の海城王は苦しそうな声で制止する。ユーグリッドはその声に気圧され、ピタリと足を止めた。


「裏切り者の憐れみなど必要ない・・・・・・貴様など、もはや皇帝陛下の逆賊も同然だ・・・・・・愚かな反逆者の介添えなど受けるくらいなら・・・・・・私はこのまま、皇帝マーレジア様の家臣として死ぬッ・・・・・・」


海城王は這いつくばったまま両手の拳をわななかせ、ユーグリッドに血に塗れた顔を向ける。


ユーグリッドはただその憎悪の籠められた眼光を冷水の如く浴び続けることしかできなかった。


「はあ・・・・・・はあ・・・・・・だが、最期に一つだけ、貴様に・・・・・・言っておきたい事がある」


海城王はぐっと顔を上げ、呆然と立ち尽くすユーグリッドを見上げた。


「私を殺して、王になるからには・・・・・・せめて立派な王になれ・・・・・・我が息子よぉ・・・・・・」


その言葉を最期に海城王は絶命した。握られていた拳の力は抜け、もはや完全に血の海に顔を突っ伏していた。


ユーグリッドは慌てて海城王の元に駆け寄る。


「父上ッ、父上ぇぇぇッ!!」


ユーグリッドは父の亡骸を抱き慟哭した。

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