屈辱の降伏
4月1日、覇王デンガダイは黒馬の上で己の懐中時計に目を凝らしていた。時刻は午前11時30分、正午の時間になるまでに後30分という時間にまで迫っていた。
「ふむ、どうやら海城王には降伏の意志はないようだな。流石皇帝の権威なぞを盲信している時代遅れの王なだけはある。所詮くだらぬ忠義心など、今の戦乱の時代にはそぐわぬ代物よ」
覇王が東の陣の前方でせせら笑う。そこへ覇王の次弟であり、右腕であるデンガハクが馬を駆らせてやってくる。
「兄上、そろそろ時間です。戦の準備を」
「うむ、ハクよ。後陣の投石機部隊に命令し、前方の陣まで投石機を運ばせよ。5分後に攻撃を開始するぞ!」
「御意にございます! 兄上ッ!!」
デンガハクは威勢のいい返事をして後陣へと馬を走らせていった。
「さて、約束を少々違えることになるが、温情は十分にかけてやった。我が軍門に下る兵の数は、これで仕損じてしまうことになるがやむを得ない。アルポートの者どもよ、無能な主君の決断を呪うことだな」
そう覇王が言い切ろうとした時だった。
突然、頑なに閉ざされていたアルポート王国の跳ね橋が動き始めた。海水で満たされた水堀の上に橋が架かり、覇王軍が陣取る地平へと繋がる。
覇王軍の兵士たちが臨戦体勢を取る。アルポートの敵軍が打って出るものだと思われたからだ。前陣の兵士たちが緊迫する中、跳ね橋の奥に隠された城門が開かれる。
しかしその鉄の城門から出てきた人影はたった一人であった。
(む? あの者は?)
覇王が馬上から目を凝らし、かの者の出方を
(何ともちんまいな体つきの男であるな)
覇王はその人影が改めて一人しかいないことを確認すると、陣の最前衛まで馬を走らせた。
その男は礼服をまとってはいるが、顔はどこか窶れており、涙の跡さえ窺われた。年は若く背は低く、到底覇王の軍を一騎当千に撃破できる者とは思えない。その男は武器すら携えていない様子だった。
やがてその男は跳ね橋の前まで来た覇王の元にまで到着する。それと同時に跪いて台座を高く上げた姿勢を取る。その男は春の温かい季節だというのに震えていた。覇王はその男の様子を見て、まるで氷雨に打たれた子犬のようだという感想を抱いた。
「うぬは一体何者だ?」
冷淡で荘厳な覇王の声が男に浴びせられる。
「海城王ヨーグラスが嫡男、ユーグリッド・レグラスにござりまする」
震える声で男は名乗る。
「そうか・・・・・・ならばユーグリッドよ。うぬの父は今どこにいる? まさか息子のうぬを置いて逃げ出したわけでもあるまいな?」
覇王が疑念を抱いて問うと、ユーグリッドは突き出すようにしてまた台座を高く上げた。
「父は・・・・・・この台座の上におります」
ユーグリッドが消え入りそうな声で受け応える。
覇王はしばらくその弱々しい若者を静かに見下ろすと、台座の上の錦の布をバサリと取り払った。
するとそこには目を閉ざし、死に化粧を施された海城王ヨーグラスの首があった。
「・・・・・・ほう、どうやら城の中で随分と面白いことがあったようだな。まさか戦が始まる前から海城王の首が飛ぶとは思わなんだわ」
ククッと覇王は口元を歪めて笑う。
ユーグリッドはひたすら頭を下げたままの姿勢を取り、石像のように固まっていた。
「それで下手人は誰だ? 誰が主君に手をかけたのだ? 戦をする手間が省けた分その者に礼をせねばならんなぁ」
覇王は海城王の息子であるユーグリッドを
「それは・・・・・・」
ユーグリッドは唇を噛み、目をきつく瞑る。
「それは
ユーグリッドは自らが親殺しの罪人だと打ち明ける。その予想外の告白に覇王は一瞬黙り込んでしまう。だが次の瞬間には万雷のような笑い声をあげた。
「フハハハハッ! ハハハッ! フハハハハッ! そうか、息子のうぬが海城王を殺したのか! フハハハハッ!」
悪魔のような笑い声がアルポートの平原に響き渡る。覇王は外れてしまいそうなほど顎を開き、潰れてしまいそうなほど喉を
「フハハッ。ユーグリッド、これほど我を笑わせた男はうぬが初めてであるぞ。うぬは父親を殺してまで、我の奴隷になりたいというのか?」
覇王は一度収まった笑いの衝動がこみ上げてきて、再び吹き出してしまった。あまりにも愉快、あまりにも滑稽。その巨大な体躯を揺らして、その侮蔑の感情をまざまざと全身で表現していた。
ユーグリッドはひたすらに沈黙を貫いていた。
「フフフ、さて、そろそろ本題に入らねばな。うぬらが降伏するといっても、タダで応じるわけにはいかぬ。うぬらが我に服従したいのならば、こちらが提示する条件に従ってもらわねばならぬな」
覇王の高圧的な要求に、ユーグリッドは思わず頭をあげそうになる。だがユーグリッドはぐっと耐え、微かに動いた頭を力づくで抑え込んだ。
「ここまでの外征をするのにも莫大な金がかかっている。そして戦に参加した兵たちにも相応の報奨を出さねばならんのだ。我々覇王軍は今巨万の富がどうしても欲しい。この意味がわかるな、ユーグリッド?」
覇王は嗜虐的にユーグリッドに欲望を曝け出す。もはやアルポート王国の生殺与奪の権は覇王によって握られていたのだ。
アルポート王国にそれを覆す力はない。ユーグリッドはひたすらに耐え忍び平伏していた。
露ほども動かぬユーグリッドに、覇王は右の手のひらを地面に向かって広げ、馬上から高らかに宣告する。
「100万金両。それを今日の夕刻5時までに持ってこい。それがうぬらアルポートの者どもの降伏を認める交換条件だ!」
覇王は一方的に請求をすると、台座の上の海城王の生首をぞんざいに引っ掴んだ。髪を乱暴に鷲掴みにし、そのまま後陣へと引き返していく。
ユーグリッドはそこで初めて顔を上げた。父の無残な首だけの姿が陽炎のように揺らいで消えていく。ユーグリッドには、その父の亡骸がどんな恥辱を受けるのかわからない。
ユーグリッドの体は震えている。それは覇王への恐れからではなく、己に対する怒りからだった。
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