はらぺこあおむしの歌

増田朋美

はらぺこあおむしの歌

寒い日だった。けど、少しづつ日は伸びている。もうすぐ春になる日が近づいているということだろう。そうなると、また暑い季節がやってくるのかなという気になって、ちょっと、憂鬱な気持ちになる時がある。なんだか、テレビやインターネットとか、そういうもので、情報が入ってくると、疲れてしまって、なんだかすべてのものを絶ってしまいたいという気になることがある。ときには、こんな事知らないほうが、良かったのではないかと、思うくらい落ち込むことがある。ときにはそれがとんでもなく不安を呼び覚ましてしまうことだってある。

その日、御殿場の「こくぼほうりつじむしょ」に、一人の客がやってきた。小久保さんは、応接室に彼を通して、彼の話を聞いてみることにした。なんでも、杉ちゃんが、連れてきたらしいのだ。そのお客さんは、ここに来たのは、はじめてのようだったから。

「えーと、中山正春さんですね。まさは、正しいに、春はスプリングの春と書いて、正春さん。今回は、奥様のことについて、お願いごとがあると伺いましたが、一体どのようなご要件でしょうか?」

と、とりあえず、小久保さんはそう言ってみるが、その奥さんが何をしたのかは、報道で知っていた。なんで、こんなしつこく報道するのだろうか、と、小久保さんは思っていたから、報道機関も、よほど好奇心が強いと見られる。確か、その奥さんの名前は、中山真奈とか言うような。彼女が、違法薬物で捕まったことも、テレビでは盛んに報道していた。

「はい。もううちの妻が捕まった事は、ご存知だと思うんですが。中山真奈の事です。」

と、正春さんは言った。

「ええ、事件のことは、報道で知りました。あのようにダイレクトに報道されていては、もう、公判はとうの昔に始まっていると、思ったんですが。ちがいますか?」

小久保さんは、正直に言った。確かに、こんな田舎の法律事務所に、わざわざやってきたのか、が不詳だった。あれだけ報道されたんだから、もうとっくに、自分より腕の良い弁護士が付いているはずだ、と思っていたので、正直、困っている。

「ああ、やっぱり、引き受けてくださいませんか。」

と正春さんは小久保さんの顔を見て言った。

「いや、そんな事ありません。しかし、あれだけ報道された事件ですから。ワイドショーとかで、かなり細かいところまで報道されていましたよね。それなのに、弁護士が、よってこなかったというのが不思議なんです。」

小久保さんがそう言うと、

「はい、説明不足で申し訳ありません。何人も弁護士を用意しましたが、妻のほうが、事件のことについて何も言わないものですから、ほとほと、困り果ててしまっておりまして。昨日話をしていただいた弁護士の方からは、ご主人がしっかりしてくださらないと困りますと、叱られてしまいました。しかし、私の方は、何も知らないのです。何度もいいますが、妻が、危険な男と付き合っていたなんて、一度も聞いたことがありませんでしたし、全く知りませんでした。警察の方にも、検事さんにも申し上げましたが、私は本当に何も知りません。事件のあった日は、静岡へ出張に行っていて、何も気が付きませんでした。」

と、正春さんは、早口に言った。

「そうですか。では、事件の概要をもう一度並べますと、奥さんの中山真奈さんが、久本康夫さんという男性と、関係を持っていた。その日は確か、康夫さんが、強引に真奈さんのもとを訪ねてきた。玄関先にやってきた康夫さんを、真奈さんが階段から落下させた。これは間違いありませんね。報道もされていますからね。」

小久保さんがそう言うと、正春さんは、ハイと頷いた。

「真奈が、そういう人とあっていたことも知りませんでした。ですが、真奈をなんとかできるのは、自分だけですから、今は、少しでも、刑を軽くしてもらえるように、努力するしか無いと思っています。」

「わかりました。奥さんが、どんな反応をされるかわかりませんが、とりあえず会ってみましょう。」

小久保さんは、しっかり頷いて、中山真奈さんと手帳に書き込んだ。

「ありがとうございます。」

正春さんが小久保さんに深々と頭を下げる。それを応接室のドアの向こうで立ち聞きしていた杉ちゃんは、

「ああ、やっぱり小久保さんにやってもらって良かった。小久保さんなら、話してくれると思ったんだ。」

と、でかい声で言った。

「大丈夫。小久保先生は、どんなことがあっても、杉ちゃんの依頼なら、すぐにやってくれるわよ。」

事務所のおばさんは、苦笑いして言った。

「そうかそうか。まあ、それにしても嫌なやつがいるもんだぜ。なんでも、障害のあるやつと不倫こくなんて、悪いやつやな。真奈さんが、突き落としてくれて良かったんじゃないのか。」

「杉ちゃん、そんな事言わないの。とにかく、真奈さんが、口を開いてくれるのを待ちましょう。」

事務所のおばさんと、杉ちゃんがそういう事を言い合っていると、いきなり応接室のドアがギイと開いて、

「じゃあ、これから、中山真奈さんのいる拘置所へ行ってきます。」

と、小久保さんが、カバンを持って、出かける支度を始めた。事務所のおばさんは、やっぱり小久保先生はそうじゃなくちゃと言った。杉ちゃんの方はというと、僕も行くと宣言してしまうくらいだ。事務所のおばさんが、中山正春さんに、相談料の事とか話している間、杉ちゃんたちはすぐに、でかけてしまった。

拘置所に行くと、担当していた刑事さんたちは、早く弁護士が来てくれて、あの女性が、口を開いてくれるのを待ってましたと期待するように言った。二人は、老刑事に連れられて、接見室に入る。

「中山真奈さんですね。弁護士の小久保と申します。この度、ご主人の依頼で、あなたの弁護を引き受けることになりました。中山さん、よろしくおねがいします。」

と、小久保さんは、形式的に自己紹介した。

「今度は、おじいさんですか。」

真奈さんは小さい声で言った。

「はあ、他の年代のやつが良かったか?」

と、杉ちゃんが言うと、

「いや、そんな事ありません。お年寄りの方になにかしてもらっていた記憶は殆どないし、返って話しやすいかもしれない。よろしくおねがいします。」

と、真奈さんは、答えた。

「そうですか。わかりました。では、単刀直入にお伺いします。あなたが、久本康夫さんを、アパートの階段から落としたのは、間違いありませんか?」

小久保さんは優しくそうきくが、真奈さんは、答えをだしてはくれなかった。なんだか、無視するように、天井ばかり眺めている。

「天井になにかいいこと書いてあるのか?」

と、杉ちゃんが言っても答えを出さなかった。

「僕達は、お前さんの事咎める気は無いよ。ただ、お前さんが、これからお白州で

、お奉行さんからなにか言われるのを、楽にしてやるお手伝いをするためにいるんだから。」

杉ちゃんがそう言うと、彼女は、はあという顔をした。

「よし、お前さんは話は通じるようだな。それでは、お白州を受ける前に、お前さんがなぜ、事件を起こしたのか、教えてもらおうじゃないか。」

杉ちゃんがそう言うと、

「寂しかったんです。」

と、真奈さんは言った。

「主人は、私のために一生懸命働いてくれて、忙しい出張もこなしてくれて、生活していくには不自由なところはなかったんですけど、私、寂しくて。みんな、ご主人がなんでもしてくれていいねって嫉妬するし、働けないんだから、ご主人に感謝しろとか、そういうことしか言わないし。私の、つらい気持ちをわかってくれる人は、誰もいませんでした。」

「そうですか。あなたが、働けない理由というものはあったんでしょうか?」

と小久保さんが聞くと、

「はい。私は、こんな事を言うととても恥ずかしいんですけど、結婚してから、ずっと気分が落ち込んでしまって、何もできなくなってしまったんです。理由は無いけど悲しいし、化粧や着替えをする気にもなれないくらい憂鬱で。なんで、こうなるんだろうって私なりに考えましたけど、どうしてもできなくて。主人は、なんでもしてくれるから、それが、私にとって、悲しいことになってしまって。」

と、真奈さんは答えた。

「つまり、鬱になったということか。」

と、杉ちゃんが言った。

「ええ。そういうことなんだと思います。」

真奈さんが答える。小久保さんは、精神科などに通院したことはありますか?と聞くと、恥ずかしいというか、行けない気がして、私はいけませんでしたと真奈さんは答えた。

「でも、半年くらい前でしょうか。主人が、インターネットで、クリニックを調べてくれて、やっと、精神科のクリニックに行くことになりました。その時に、クリニックで、久本康夫さんと知り合いました。私が、一人で病院に通っていましたので、そのうち、待合室で久本康夫さんと話すようになりました。」

「なるほど。それで二人の仲は急速に深まっていったわけね。」

杉ちゃんが、そう言うと、真奈さんは小さい声でハイと言った。

「それで、よく一緒に出かけるようになりました。主人は、出張に行きっぱなしでしたので、よく、一緒に図書館行ったりして。あの久本さんは、一生懸命原稿を書いていたから、私は隣で、本を読むだけで、幸せでした。」

「そうですか。久本さんは、確か、文章を書く仕事をされていましたね。」

と、小久保さんは言った。

「なんの本を読んでたんですか?」

と、杉ちゃんが言うと、

「はらぺこあおむしとかよく読んでいました。彼が、児童文学について、文章をよく書いていましたので、子供向きの本を読むのが私の日課になって。」

と、彼女は答えた。はあ、それは、随分純粋な方ですなあと、杉ちゃんも、小久保さんも顔を見合わせた。

「あああの、月曜日、月曜日、りんごを3つ食べましたとかいう歌ね。」

確かに杉ちゃんの言うとおりだった。腹ぺこな青虫が、りんごだったりすももだったり、食べ物を食べすぎるくらい食べてしまうお話で、ある意味一般的な子どもであればやらかしてしまいそうな「食べすぎ」という失敗を描いたお話である。

「ええ。歌はよく知りませんが、絵本はよく彼の隣で読んでいたものです。それを何回も繰り返しているうちに、彼のほうが、主人よりも、一緒にいたいと思うようになってしまいました。」

「なんだかはらぺこあおむしみたいだな。やりすぎて、結局、そういう事になっちまうんだ。」

杉ちゃんがそういう通りかもしれなかった。多分、二人の仲は深まりすぎて、結局、こういう事件が起きてしまったのだろう。

「お話はわかりました。では、事件の事を話していただきましょうか。事件があった日、あなたが殺意があったのか、を聞かせていただきたいです。久本さんを、殺害しようという気持ちはありましたか?」

と、小久保さんがそうきくと、

「いいえ、ありませんでした。そんな事、毛頭思いませんでした。私はただ、久本さんが私の住んでいるところを調べ上げて、来訪してきたから、びっくりしただけなんです。彼が、私の住んでいるところを当ててしまうとは。私、彼には、住んでいるところなど、教えていなかったので。図書館とか他のところで会うだけにしていただけなので。」

と、彼女は言った。

「それでは、彼のほうが一方的に、あなたの住んでいるところを調べ上げたということで間違いありませんか?」

と、小久保さんがそうきくと、

「はい、そういうことです。私、全然知りませんでした。私は彼のことを、確かに一緒にいたいと思いましたけど、お互い住んでいるところを聞きあったりしたことは一度もなかったから、それでいいと思っていたんです。」

と、真奈さんは答えた。

「わかりました。そのあたり、裁判で詳しく聞かれることになると思いますから、あなたも、準備をしておいてくださいね。」

小久保さんが手帳にメモ書きしながらそう言うと、真奈さんはハイと言った。

「お白州では、思っていることを正直に喋れよ。」

杉ちゃんがそう言うと真奈さんは、涙をこぼしてハイと言った。

「いくら仕事とはいえ、私の事を、一生懸命見てくれる人がいてくれるとは思いませんでした。私は、うつ病になって、もう社会からいらないと思っていたけれど、皮肉ですよね。こんな事件を起こしてから、主人がなんでもしてくれたことに気がついたり、先生のような人がいることに気がついたりするんですから。」

「まあ、それは仕方ないな。お前さんはお白州で、それをしっかり叱ってもらって、その後はちゃんと、生きていくのが、久本さんに対しての供養だと思ってくれ。」

杉ちゃんの言葉に、真奈さんはハイと小さい声で言った。

「全くな、知らなかったという言葉を使えば、なんでも免除されるとでも思ってたのかな。」

「知ろうとする、余裕も無いほど、鬱がひどかったのではないでしょうか。」

接見室からでた杉ちゃんと小久保さんは、お互いそういう感想を言った。

「ちょっと手を入れれば、知ることだってできたはずだぜ。」

杉ちゃんは、そういうのであるが、

「そうですね。手を入れるのも忘れてしまったんでしょうね。」

小久保さんは、そういった。と、同時に、杉ちゃんのスマートフォンが音を立ててなった。

「えーと、これは、赤いボタンを押せば、電話に出られるんだったな。」

杉ちゃんは、電話アプリを開いて、話し始めた。

「はいはいもしもし。ああ、またやったのね。もう困るよね。いくら布団を干してもだめか。まあ、しょうがないわな。布団を新しく変えようか。しょうがないだろ、そういうもんなんだからよ。諦めろ。」

多分電話をかけてきたのは、由紀子さんだろうと小久保さんは思った。きっと電話の内容は、水穂さんが、また咳き込んで倒れてしまったという内容だと思われるが、そんな事をいちいち杉ちゃんや他の人が共有できているのがすごいものだと小久保さんは思った。

「まあ、布団代がたまらないとか、畳代がたまらないとか、そういう事は言えないよ。それを言ったら、水穂さんが可哀想だろうが。まあ、しょうがないことだと思ってよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「わかってるわ。そんな事いいたいから電話かけたんじゃないわよ。ただ、水穂さんのことが心配で、不安だから電話かけたんじゃないの。」

と、由紀子さんが、電話の奥でそういう事を言っているのが、小久保さんにも聞こえてきた。

「まあ、お前さんの気持ちもわかんないわけじゃないよ。だけどさ、不安なんて、どうにもならない感情じゃないの。それを解消する道具はどこにも無いでしょう。ごまかしながら生きていくしか無いんだよ。はいはいわかった。じゃあ、小久保さんと、お話が終わったら、そっちに帰るから、よろしく頼むね。」

杉ちゃんは、そう言って、電話を切って、スマートフォンを巾着の中にしまった。二人は、拘置所を出て、駅へ向かって移動し始めた。

「水穂さん、そんなに悪いんですか?」

小久保さんは、杉ちゃんに言って見る。

「まあ、そういうことですよ。というか、まあ、やることが派手すぎて、大変そうに見えちゃうんだよ。本当は、大した事無いのかもしれないけど。由紀子さんは、水穂さんのことが好きなわけで、由紀子さんにとっては、水穂さんがすることは、大変そうに見えちゃうの。」

「そうですか。確かに、人間は見たままを記憶することはできませんからな。」

小久保さんは、先程の彼女、中山真奈さんのことを思い出しながら言った。

「あの女性だって、病んでいなければ、事件を起こさないで済んだかもしれません。感じたり判断したりするところが病んでいるから、それで、認識がおかしくなったかもしれないですね。」

「そうだねえ。事実が事実であって他のなんでもないってことが、経典に書かれている理由がよく分かると思うよ。」

杉ちゃんも小久保さんの話にそういった。

次の日、小久保さんは、今度は一人で拘置所に言った。杉ちゃんの方は、水穂さんの看病で忙しいからという理由で一緒には来なかった。接見室に入ると、中山真奈さんは、今日は着物の人が一緒では無いんですかと言ったが、今日は、一人ですとだけ小久保さんは言った。

「それでは、あなたのことに対してお聞きします。あなたは、いつから、うつ病を患うようになったのでしょうか?症状を自覚したのはいつですか?」

と、小久保さんは言った。時々、そういう事を聞くのは、人の心にある答えを、パワーシャベルでほじくり返すような気持ちで、接しなければならないことがあった。パワーシャベルは、どんなに固いものにでも、穴を掘る道具であるが、それになったつもりで話をしないといけないことも、この仕事をしているとあるのである。今がその時だ、と小久保さんは思った。

「ええ。結婚してしばらくは良かったんですけど、他の人が、子どもができて、お母さんになっているのが、羨ましかった。私には、できないことだと割り切ればいいって、主人は言ってくれたけど、そんな事できませんでした。私は、女なんだもん。奥さんとか、そういう事を言われても、女なんだもの。」

そうつらそうにいう彼女を見て、小久保さんは、もう同じ質問はしない用にしようと思った。でも、そういう事は、誰にでもありうることで、自分だけでは無いんだと思えることこそ、本当に、必要な事かもしれないと思った。

「結局、当たり前のことができることが何よりの幸せなんですよ。そこから少しでも外れてしまったら、私みたいに、どんどん不幸になっていくだけだもん。それは、どうしてそうなってしまうのでしょうか。なんで私が、そういう役にならなければいけないの。」

小久保さんは、そう嘆いている彼女に、はらぺこあおむしが蝶になるのは、今は、非常に難しいことなんだということを話してあげた。

「もしかしたら。」

と、彼女は、小さい声で言った。

「はらぺこあおむしが蝶になったということは、昇天したということと同じなのではないでしょうか。」

昔の世界ではありえない話だが、今であればありえるな、と小久保さんは思ったが、

「それは、違うと思いますよ。蝶になることは誰だってできます。」

とわざと違うことを言った。



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はらぺこあおむしの歌 増田朋美 @masubuchi4996

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