告白
猫を殺したのはやっぱり市川らしい。
案の定、そんな噂は数日もしないうちに拡散し、やがてそれは噂ではなく事実となった。
猫殺しの犯人を懲らしめるという大義名分を得た小山田たちは、ぼくへの迫害をますます強め、かつ公然とそれを行った。
誰もその行為を止めようとはしない。クラスメイトも教師も、もちろん、美甘優も。それは日常風景だった。
殴られるたび、罵られるたび、蔑まれるたび、ぼくの存在理由というものが、自尊心というものが、ひとつひとつ乱暴に毟り取られてゆくようだった。どうしておまえは生きているのだ? という呪文を刻み込まれているようだった。
そんなことが続いていたある日の放課後、ぼくは小山田たちにプールへと強制連行された。
人気のない乾いたプールサイドに立たされた。凪いだプールの水面が、鏡のように夕暮れの空模様をはねかえしている。
「服、脱いで」
なんでもないことのように小山田はいった。
「な、なんで……」
「いいから早く脱げよ!」
平岡が喚きながら蹴りを入れてくる。
ぼくはおずおずとワイシャツのボタンを外した。
「ズボンもだぞ」
拒否すると頭をこづかれる。飯島に指示されるまま、ベルトを外しズボンも下ろす。パンツ一丁になった。
「パンツも脱げ」
小山田は短く命令した。
ぼくは無言で彼の顔をみつめる。
「は? なにおまえ睨んでんの?」
飯島と平岡が襲いかかってきた。ふたりがかりでぼくのパンツを脱がせにかかる。必死に抵抗するが、彼らの力には到底かなわない。関取が相手の廻しを掴んで持ち上げるように、力づくでブリーフを引っ張られる。生地がお尻にグイグイ食い込み、どこかがビリッという滑稽な音を立てて破れた。どっと笑いが起きた。地べたに転がされ、殴られ蹴られる。
「うわあ……、こいつまだ皮かぶってんじゃん」
「お子様ホーケイちんぽ!」
全裸にされたぼくは、そのままプールへ落とされた。
小山田は、ふくらんだスーパーの袋をそれぞれ飯島と平岡にわたした。
ふたりは袋から何かを取り出すと、それを野球のピッチャーよろしくこちらへ投げる。ぼくは咄嗟に両手で顔を庇った。同時に投擲されたものが腕にあたり激痛が走る。
石だった。あの袋の中身は石ころだ。それをぼくに向かって投げつけている。
血の気が引く。冗談じゃない。なにを考えているのだ。ぼくはあわてて逃げ出す。だけどプールの中では水に足を取られてしまい、うまく動くことができない。
「おい、てめえ、避けてんじゃねえ!」
背中に容赦なく石が投げつけられ、痺れるような痛みがはしる。ぼくはおもわず悲鳴をあげた。水中に潜って、死に物狂いで水を掻いた。しかし、すぐに息が苦しくなり水面に顔を出す。そこへすかさず石が飛んでくる。
「殺された猫のうらみ!」
ぼくの鼻先で水飛沫があがる。
「これはヤムチャのうらみ!」
『ドラゴンボール』の台詞を持ち出した飯島に、「ヤムチャは関係ねえだろ」と平岡が爆笑する。
「天津飯のうらみ!」
飯島が投げた石がこめかみに直撃する。眩暈がするほどの痛み。息つく暇もない。下卑た笑い声とともに次々と石が飛び、ぼくの肩や背中、腕に当たる。
堪らずふたたび水中に潜って逃げ回るが息が続かない。顔を出せば石を投げつけられる。塩素たっぷりの水を鼻からも口からも大量に飲み込み、無我夢中で手足をばたつかせ、どこが上なのか下なのかもわからない。水面越しに歪む空。投げ込まれる石ころ。ゴボゴボと口から吐き出る気泡。耳の奥に籠もって響く自分のうなり声。ほとんど溺れていた。
霞んだ視界の隅で、腕を組んだ小山田慧の姿がみえる。石を投げているのは飯島と平岡で、彼は一歩下がった場所から昆虫でも観察するようにこちらをみていた。ふたりとは対照的に、なぜかつまらなそうな顔をしている。今にもおおきな欠伸でもかきそうだ。
このままではほんとうに死んでしまう。そうおもったとき、ようやく袋の中が尽きたらしく投石が止んだ。彼らは奇声を発しながらぼくの制服と伸びきったブリーフをプールに投げ捨てると、笑いながら引き上げて行った。
ぼくは喘ぎながら、どうにかプールサイドへ這い上がった。ざらついたコンクリートの上に倒れ込み、荒い息づかいで咳き込む。
呼吸が落ち着くと、両手と両足を投げ出し、全裸のまま大の字になった。
夕暮れの茜色に染まった空。薄紫にたなびく雲の向こう側を、うっすら飛行機雲が横断していた。そのしっぽを追いかけるみたいに鳥が二羽はばたく。
素肌をすべる水滴のくすぐったい感触と、石が命中した箇所がしびれるように痛む。
目を閉じると涙が頬をつたった。
どのくらいそうしていただろう、不意に何者かの気配がしてそっと瞼をひらく。
美甘優が立っていた。
こちらを見下ろしている。
ぼくはあわてて丸出しになった性器を両手で隠した。芋虫のように背中をまるめる。
「なんか楽しそうな遊びしてたね」美甘さんは長い髪を耳にかけた。「あたしにもやらせて?」
「……みてたの?」
「うん」と、彼女はうなずいた。「マジで溺れかけてて、おもしろかったよ。ねえねえ、あたしもやってみたい」
ほら、もう一回溺れてみて? そういってぼくの身体をつま先でかるく蹴って、プールに落とそうとするような仕草をみせる。
美甘さん、とぼくは呼びかけた。
「……もしさ、おれが死んだらどう思う?」
彼女は小首を傾げた。
「もし、おれが自殺したら……」
彼女はうっすら笑みのようなものを浮かべる。
「べつに? なんともおもわないけど」
あっけなく言いはなつ。「市川くんは死にたいの?」
ぼくはすこし逡巡したあと、
「もう嫌なんだ、いろいろ……」といった。
へえ、と彼女は気の抜けた声を発する。
「なに? 死んじゃだめだよ。なんていってほしいの?」
なにもいえず、ぼくは口をつぐむ。
美甘さんはぼくの傍らにしゃがみ込むと、鞄からなにかを取り出した。それをぼくの手元に置く。
「死んじゃえば?」
例の拳銃だった。
重厚な質感ではあるけれど、テレビドラマや映画などで見慣れてしまっているせいなのか、安っぽいおもちゃに見える。まるでモデルガンのようだ。
「市川くんが自殺するの、あたし、みててあげるよ」
美甘さんはいった。「それで、あとでみんなに言ってあげる。市川くんが死んじゃったのは、みんな小山田くんの所為だって。小山田くんが市川くんをいじめてた所為だって、あたし言ってあげるよ」
ぼくは性器を隠すのをやめ、大の字になった。
そっと銃に触れ、そして、それをしっかりとつかむ。
空が燃え上がるように真っ赤に染まっていた。金網のむこうで黒く影絵のようになった木々が風に靡いている。
銃口をゆっくりと自分のこめかみへ持っていった。
あとは引き金を引けば、弾丸が脳を貫いて痛みを感じるまえにぼくの意識は消えてしまうのだろう。なにより、いま頭を撃ち抜けば、きっと彼女はよろこんでくれるはずだ。美甘さんが笑ってくれるのだったら、彼女の望みどおりにしてもいいのかもしれない。
「だいじょうぶだよ。死ぬまでいっしょにいてあげるから……」
今まで聞いたこともない優しい声で美甘さんは囁いた。
ふと視線を落とすと、無防備に屈み込んでいるおかげで、美甘さんのスカートの奥の暗がり、真っ白いふとももの付け根がみえた。
たちまち陰茎に血液がめぐる。
彼女の視線がゆっくりとぼくの股間へいく。つかのまそれを凝視したあと、ぼくの顔に目を戻した。
「……なんでちんこ立ってんの?」
無表情に小首をかしげる。
「……ごめん」と、ぼくは謝った。
「なんか、美甘さん見てると、こうなっちゃうんだ」
美甘さんのきれいな脚、つやつやした脛に膝、股間へつづく白くて柔らかそうな内太もものふくらみ。パンティの皺が性器に食い込んでいるようにみえて、陰茎はますます硬くなり、そして、そんな無様な姿を彼女に曝け出しているということが、さらにそれを屹立させる。
「おれ、美甘さんのこと、すきだ」
透明な純水が湧き出るように、そんな言葉が口から流れた。
「あたしはあんたのことなんか大っ嫌い」
美甘さんは吐き捨てるように即答した。
ぼくは微かにくちびるをひらいた。拳銃から手を離し、熱く滾った自分のペニスに触れる。
「……おれは美甘さんがすきで仕方ない。どうしようもないくらい、だいすきなんだ。自分でも制御できないくらい、美甘さんの全部がすきだ」
「おまえは、あたしのことなんてすきじゃない。ただまともに話してくれる女がたまたまあたしだったってだけで、ふつうにしゃべってやれば別にだれでもいいんだ」
「ちがう。おれは美甘さんだけが好きなんだ。顔も声もしゃべりかたも、乱暴だけどじつは優しい性格も」
「おまえなんかになにがわかる。ただ発情してるだけの猿のくせに、ふざけんな」
そうだと、ぼくはいった。
「美甘さん、さいきんワンピースと下着、なくなっただろ?」
「え?」
「あれ、おれが盗んだんだ。お見舞いに行ったときに。美甘さんちのお風呂場から盗んだんだ」
「……」
「すきなんだ。美甘さんのことすきだから発情するんだ。だから美甘さんのパンツ盗んでにおい嗅いじゃうし、美甘さんのうんこだってだいすきだ。ちんこが立っちゃうんだ。美甘さんとキスしたいし、美甘さんのおっぱいとかまんことかめちゃくちゃ触りたい。もう、だいすきなんだ。いくら可愛い女子だって、なんともない相手にこんなにならない。おれ、美甘さんのうんこだったら食べたっていい」
美甘さんは立ち上がり、軽蔑した表情でこちらを見下ろす。
「ホント気持ち悪い……」
心の底から蔑んだ声。
同時に容赦なく脇腹を蹴飛ばされた。ぼくは呻く。
彼女はくちびるにくっついた髪の毛を払うと、「変態!」と叫び、さらにぼくを蹴り上げる。蹴りを繰り出すたびに段々と力が強くなっていき、ついには力みすぎてよろめく。それでもぼくは、彼女をみながら陰茎をしごいた。振り乱れた長い髪から彼女の顔がみえる。「きもちわりぃんだよっ!」と、怒りと蔑みがないまぜになった美甘さんの顔。そんな顔を眺めながらしごくと、ますますちんこは気持ちよくなった。
ぼくはむくりと上半身を起こすと、勢いよく立ち上がった。
予想外のことに美甘さんは半歩ほど後ずさりした。……えっ、なに? というふうにすこし怯えた表情を浮かべる。
ぼくはそのまま全裸で美甘さんに抱きついた。
制服の上から彼女の身体の感触がつたわる。怖くなるくらいにやわらかく、繊細なからだつき。まるで紙ふうせんに触れているような危うさがあった。
とうとつに全裸のまま抱きつかれ、驚きにこわばった身体から、徐々に怒りの気配が漂いはじめる。
「なんだよ、おまえ!」
美甘さんは悲鳴をあげると、ぼくを引き剥がそうとむちゃくちゃに暴れる。だけどぼくは彼女を離さない。そのままもみ合いながら、ぼくは美甘さんを無理矢理に引っ張り込み、彼女といっしょにプールへ落下した。
どぼんっ、と派手に水飛沫があがった。
ぼくらは水中でもがく。水をかく美甘さんの両足が、ぼくの身体を蹴りつける。
ふたり同時に水面から顔を出し、おおきく息を吸い込んだ。
美甘さんは濡れた髪をかき上げると、
「なにすんだよっ、変態!」
ぼくの頬を張る。
「優ちゃん、すきだ!」
ぼくは悲鳴のように叫ぶ。
「なにいってんだよ!」
すぐさま頬をひっぱたかれる。「っていうか、優ちゃんって呼ぶな!」
水浸しのブラウスが肌にはりつき、ブラジャーが透けている。
「だいすきだあ!」
「だまれ! おまえなんか嫌いだっていってんだよ!」
頬を、今度はこぶしで殴られる。水飛沫が飛ぶ。
「じゃあ優ちゃんもおれを好きになれーっ!」
「はあ?」と、美甘さんは思わずというように、ほんのちょっとだけ笑ってくれた。
「なんねえよ! 死ね!」
頬をひっぱたかれ、ぼくは水中に沈む。
水泡がぼくを包む。
その笑顔で、ぼくはほんのすこし救われた気がした。なにから救われたのかはよくわからないけど、でも、とりあえずはそれで十分だった。
なんの存在意義もないぼくに、なぜか美甘優はかかわってくれる。けっして親切ではないし、むしろ乱暴ではあるけれど、ぼくの自尊心の器に水を密やかに零してくれる。ほんのわずかにしか満たないかもしれないけど、それがぼくを辛うじて繋ぎとめていた。
真夜中のプールに浮かんだときに眺めた夜空。ぼくの内側での美甘優は、まるであの星たちのようだった。闇が濃くなればなるほど鮮明に輝き、またたきが朧気に道を照らした。
気がつくと陽は完全に沈み、あたりは薄闇に包まれていた。限りなく黒に近い濃紺の水面が鏡のように空を映している。
オレンジ色の満月が浮いていた。まるで腐った卵黄のように。
美甘優の姿はなくなっていた。
彼女の残り香のように、プールサイドには拳銃が置かれていた。
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