絶望の轍
学校を欠席してから四日が経っていた。
自分がいない間、学校はどのような状況になっているのだろう。あの夜のぼくの痴態を、小山田慧が言いふらしているのは間違いない。それを想像するだけで気分が滅入る。どこかへ逃げ出したかった。
当然、そんなことは現実的に無理なのはわかっている。いつまでも部屋に引き籠っているわけにもいかない。そもそも自分が蒔いた種だ。あんな馬鹿な真似をしなければ、こんな状況に陥らなかったのだ。
夕方、部屋のドアをノックする音がした。
「起きてる?」と、母親の声。
ぼくは返事をした。
「どう? 気分は」
母親が部屋に入ってきた。
ぼくは壁側に寝返りをうって、無言で首をふった。
体調が悪いからと部屋に閉じこもり、それなのに熱も測らず、くすりも飲まない。病院にも行こうとしない。そんなぼくの態度は、母親をひどく心配させていた。
「さっき、学校の子がプリント届けにきてくれたよ。ミカモさんって子」
カノジョ? と、すこしからかうように母親は訊ねる。
「……ちがうよ」
「なんかすごく礼儀正しい子だったよ。ニコニコしてて。『篤史くんの体調はいかがですか?』って」
ぼくはおもわず顔を上げた。
「……美甘さんっていった?」
「そうだけど」彼女はまばたきした。「髪が長くて、色白の可愛い子。めずらしい名字だよね」
信じられない。大人の前ではまるで別人のように猫をかぶるらしい。
母親はなにか言いたげに、じっとぼくを見下ろしている。やがて部屋の隅に、「おいしょ」と膝を抱えるように座り込んだ。
締め切ったカーテンに、橙色の夕陽が透けている。
「ねえ、篤史、学校でなんかあった?」
言葉を選ぶようにして、母親は問いかけた。
「学校でともだちとかとさ、なんか揉めたりしてない?」
べつに、とぼくは背中でこたえる。「どうして」
「……うん」といったきり、彼女は黙り込んだ。
枕元のめざまし時計の秒針の音がやけに鼓膜にこびりつく。
ややあってから、あのさ、と母親は口をひらいた。
「わたし、気になることがあって」
ぼくはくちびるを結んだまま先を促した。
「まえにさ、病院の帰りに中華屋さんでお昼ご飯たべたでしょ? そのときにあなたの同級生の子たちが来たじゃない? 窓の外でわたしたち指差して笑ってて」
窓の外でこちらを指差し、嘲笑している小山田たちの姿が浮かんだ。
「あのときのことがずっと気になってるの。なんかね、馬鹿にしてるっていうか、悪意のある感じの笑い方だったから」
ぼくはなにもこたえなかった。
彼女は下唇を触りながら、こちらをじっと見据える。
それともうひとつ、と彼女はいった。
「篤史がわたしの財布から勝手にお金とってること」
はっきりと明瞭な声で母親はいった。
時計の秒針の音が止まった。
ながい合間をあけて、ふたたび動き出す。
いや、そんなふうに錯覚しただけだ。時間が止まるわけはない。
「どうして? なにか理由があるの?」
ぼくは壁のざらついた表面をみつめ、慎重にことばをさがした。
「欲しいゲームがあったから。でも、このまえ買ってもらったばっかだし、だから……」
「なんてゲーム?」
すかさず母親は訊ねる。
咄嗟にてきとうなゲームのタイトル名が思い浮かばず、ぼくは押し黙ってしまった。
「それはもう買えたの?」
ぼくはなにも言えない。
「ごめん、わたし、なんかこんな無愛想な感じだけどさ、でも、篤史のことはちゃんとみてるんだ。でも心の中まではみれないから。だから、なにか理由があるならちゃんといってほしい」
不意に頭の中でいやらしい声が響いた。
まぶたをきつく閉じて、その声をふりはらう。
「ごめんなさい」
「べつに責めてるわけじゃないんだよ。なにか理由があるならいってほしいってだけなの」
ぼくは、ごめんなさいとくりかえした。
「なにか学校の子たちとうまくいってないことがあるんだったら、わたし、相談のるよ?」
おそらく母親は、ぼくが学校でいじめられているのではないかと疑っているのだろう。だけど、ぼくのためにあえて『いじめ』という言葉をつかわないでくれているのがわかる。
「だいじょうぶだよ、なにもないから」
「でも、なんかあったら、わたしにいってほしい」
そういって身を乗り出してから、おとうさんでもいいし……、とすこしさびしそうな声で言い添えた。
「うん、わかってる。おかあさんにいうから」
ありがとう、とぼくはいった。
いつのまにか陽は完全に沈みきって、部屋は薄闇に満ちていた。
箪笥の側にしゃがみこんでいるはずの母親の姿は、闇にとけてなくなり、やわらかな気配だけがそこにおぼろげに漂っていた。
彼女はちいさくなにかをつぶやき、立ち上がった。そして部屋を出ていった。ひたひたとした裸足の足音が遠ざかっていく。
ぼくはくちびるをつよく噛んだ。
あの夜の喘ぎ声を聞いてからというもの、母親の顔を直視することができなかった。
彼女だって大人の女性だし、まだまだ年齢も若い。なによりも夫婦なのだから、そういった行為をしたってなんら問題はない。わかってはいる。それなのにぼくは彼女に裏切られた気分になっていた。だからいくら優しい言葉をかけられても、あのときの声が脳裏に響いて、とたん鼻白んでしまう。自分勝手だとわかってはいる。だけど、どうにも整理ができなかった。
ぼくはベッドから這い出し、勉強机のうえに置かれた学校からのプリントを手に取った。その裏側の隅に、意識しなければ見落としてしまいそうなくらい薄くちいさな文字で、『カゼとかどーせウソでしょ?そのまま死ね ヘンタイ』と書かれているのを発見した。
翌朝、ぼくはふとんから這い出し、制服に腕をとおした。
「だいじょうぶなの? 無理しなくていいんだよ」
母親の声を背中で聞きながら、ぼくはちいさく頷き、運動靴を履いた。
五日ぶりに出た外の世界はまぶしく、すべてのものに無遠慮な視線をむけられているような居心地の悪さがあった。校舎が近づくにつれ頭痛がしはじめ、胃がきりきり痛み出す。もしここで一歩でも歩みをとめてしまうと、その場で石のようにかたまって動けなくなってしまいそうだった。
嘔気を催すほどの緊張で、ぼくは教室に入った。
だけど、いったん教室へはいって時間を過ごしてしまえば、そこはいつもの教室だった。五日ぶりに登校してきたぼくに対して労わりの言葉をかけてくれるものなんていないのは当然として、誰もなんの反応も示しはしない。みんなぼくの存在など気に留めていないということだ。
意外なことに小山田はあのことを言いふらしていないようだった。もし露見していれば、こんな反応では済まされないはずだ。
しかし、事態は思わぬ方向へ動いていた。
放課後、ぼくは担任の加賀先生に生徒指導室へ呼び出されたのだ。
やはり、真夜中に学校へ忍び込んだことがばれていたのかと絶望的な気分になる。同時に諦観もしていた。潔く自分のやった愚かなことを認めて謝罪しよう。
ぼくは観念した気持ちで椅子に着いた。長机をはさんで先生と対面する。
だが、そんな思いとはうらはらに、先生はおもわぬことを告げた。
「このまえな、学校の校門に猫の死体があったんだ」
ぼくは面食らい、「猫の死体」と鸚鵡返しした。
そうだ、と彼はうなずく。
「殺された猫の死体が校門にわざと置いてあって、ちょっとした騒ぎになった。学校から警察に連絡もした。保護者向けに注意喚起の連絡網もまわした」
校門に晒された猫の死体は、ただ殺されていただけじゃない。首を切断されていたのだという。首なしの猫の死体が、大勢の人間の目に触れるようにして校門に晒されていたらしい。
「……それっていつのことですか?」
「木曜日の朝だ」
ということは前日の夜から早朝の間に、その猫の死体は校門に置かれたということか。そしてその夜は、ぼくが美甘優の下着を着て学校に忍び込んだ夜だ。
加賀先生は神妙な顔つきでこちらに視線をむける。
それから短くためいきを吐いた。
「市川、おまえ水曜の夜、なにしてた」
質問の意図がわからず、ぼくは彼をまじまじ見つめた。
「……家にいましたけど」
そうこたえるしかない。だけど実際は学校に侵入していたこともあって、すこし言い淀んでしまう。
「ほんとうだな?」と、先生は目を細める。
その問いと表情に、かっと耳が熱くなった。
「おれを疑ってるんですか?」
「そんなこと言ってないだろう」
先生は心外だというような表情で腕組みをした。
廊下から生徒たちの喧噪が漏れ聞こえる。
彼はしばし沈黙したあと、
「ただ、水曜の夜に、学校の近くでおまえを見かけたってやつがいるんだよなあ」といった。
「だ、誰ですか、そんなこと言ったの」
「それは言えない」
きっぱりと突っぱねられる。
だけど、そんなことを告げ口するような人物はすぐに思い当たる。
「……小山田くんですか?」
「あ?」
「それとも飯島くんですか? 平岡くんですか?」
「おまえなあ」
「小山田くんがいったんですよね? おれを見かけたって」
「なんだおまえは?」先生は呆れ果てたように苦笑した。「小山田となにか揉めてるのか?」
ぼくは無言でうつむく。
「おまえ、二年のときの席替えでも小山田がどうとかいってたな。なに喧嘩してんのか知らんけど、今回のとは別で考えろ」
「べ、別じゃないです」ぼくは語気を強めた。「小山田くんはいつもおれに嫌がらせしてくるんです」
「嫌がらせ?」と、加賀先生は目を剥いた。「水曜の夜にたまたまおまえを見たといったら、それが嫌がらせになるのか?」
この際、小山田に今迄されてきた仕打ちをすべてぶちまけようと口をひらくが、胸がいっぱいでなにから伝えればいいのか言葉に詰まってしまう。
「おまえの個人的な感情は、今回の事件とは関係ないだろ。誰がいったかなんて問題じゃないんだよ」
ぼくはやっとの思いで、「おれはなにも知りません」とだけ口にした。視線を足元に落とす。
先生はふたたび、おおげさに溜め息をついた。
「小山田、小山田と、ひとのことをいう前に、自分のことはどうなんだ?」と彼はいった。
「おまえ、いっつも孤立してるけど、クラスのやつらとうまくやってんのか? 先生は心配してるんだからな」
ぼくはくちびるを固く結ぶしかなかった。この教師にはもうなにをいっても無駄なのだ。じっとそうしていると、「もういいぞ」と先生は手のひらを扇いだ。
ぼくは椅子から立ち上がり、生徒指導室をあとにする。怒りとくやしさがふつふつと沸いてきて、戸を閉める際おもわず力がこもってしまい、図らずもおおきな音を立ててしまった。
すかさず背後で怒声が響き、ぼくが閉めたときよりもよっぽど乱暴に戸が開け放たれた。怒りの形相で加賀先生が出てくる。
「ドアは静かに閉めろ! バカがっ!」
確かにあの日の夜、ぼくは校舎に侵入した。だけど猫のことなんて知らない。校門には死骸なんてなかった。入ったときも出たときも、そんなものは見当たらなかった。
では、ぼくが学校から出た後にそれは置かれたということだろうか。あのとき、猫を殺した犯人がすぐ近くにいたのかもしれない。校内にいたのはぼくだけじゃなかった。小山田だっていたのだ。彼はなにか見ていないだろうか。この件についてなにか知っているのではないか。
そこまで考えてふと、不吉な疑問が脳裏をよぎった。
そもそもあの夜、どうして小山田は学校にいたのだろう。真夜中の学校にひとりで忍び込んで、いったいなにをしていたのだ?
先生のいうとおりかもしれない、とぼくは思った。
小山田はほんとうに、夜の学校でぼくを見たとは証言していないのかもしれない。
もし彼が猫殺しに関係しているのだとしたら、あの夜のぼくについて沈黙を守っているのにも説明がつく。ぼくのことを喋るということは、そのとき、自分も校内にいたということを証明してしまうからだ。
だけど、たとえそうだったと仮定して、いったいどうして小山田がそんなことをする必要があるのか。彼のような恵まれた人間が、か弱い小動物を惨殺したあげく、わざわざそれを校門に晒すという陰鬱な行為をする意図がまったくわからない。そんなことをする理由が、ぼくには皆目見当がつかなかった。
ただわかっていることもある。
女の下着姿で学校に忍び込んだということより、このままぼくを猫を殺した犯人に仕立て上げたほうがよっぽど面白い。そう小山田が判断したということだ。
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