彼の過去 後

 ふたたび小山田がゲームをプレイし、ぼくがそれを眺めるかたちとなる。

 それからしばらく凪いだ時間がながれた。小山田は滞りなくステージを進め、部屋にはゲームのBGMだけが響き、あとはすべてが蹲るようにして沈黙している。そしてその静寂には、なにか触れてはいけない不穏な気配が漂っていた。

「おれ、水着じゃなくて、ブリーフ穿かせられたんだ。白いブリーフ」

 小山田はコントローラーを握りながら、ふたたび口をひらいた。

「それが、なんかぶかぶかでさ、横からキンタマがはみだしちゃいそうなんだ。でもさ、そういうのがいいらしくってさ。もうマジで恥ずかしくて、なんか泣きそうだった」

 そう言いながら彼は鼻でわらった。実際には笑ってはいない。笑っているように息を吐いただけだった。

「でもさ、ブリーフより恥ずかしかったのがさ、女の子用のワンピースの水着だった。おれ、男なのにさ、そんなもん着せられたんだ。そんなの着てると、なんか頭がぼうっとしてきて、なんかへんな気持ちになってきちゃって。しかも、そのときはおれひとりの撮影じゃなくて、サトシくんっていう中学生の男の子もいて、その子とふたりの撮影だったんだ。でもさ、その子は普通の海パン姿でさ、おれだけ女の子みたいで、すげえ恥ずかしかった」

 そのサトシくんも、何本かのビデオに出演している少年だった。目が細くてつりあがりぎみで、さらさらした小麦色の肌。活発そうな外見とは裏腹に、とてもおとなしい少年だった。

 その日の撮影は都内にある屋内プールでの撮影だった。監督の指示で、小山田とサトシくんはプールに浸かりながらじゃれあっていた。プールサイドにあがって、水鉄砲でおたがい水をかけあったり、くすぐりあったり。

「そしたらさ、いきなりちんこ触られたんだ、サトシくんに」

 小山田はいった。「最初さ、冗談だとおもった。ともだちんこー! みたいにさ。なんかちょっと笑っちゃったんだけど、サトシくんは笑わなかった。ずっと、水着のうえからちんこ撫でてくるの。おれ、ほんと気持ち悪くなって、近くにいたおかあさんを見たんだ」

 この子、気持ち悪いよ、やめさせてよ。

 助けを求めるように。

 それなのに彼女は、微笑みながら小首を傾げただけだった。

 監督もそれを止めようとしない。止めるわけがない。サトシくんにそうするよう命令したのは監督なのだから。サトシくんの青ざめた顔をみれば、陰茎をさするのが本意ではないことはわかった。

「サトシくんにちんこ撫でられてるうちに、なんか、だんだんへんな気持ちになってきっちゃってさ。女の子の水着きてるのもなんかへんな気持ちだし、それで、なんか気づいたらさ、ちんこ立っちゃったんだ」

 がちがちにちんこが立っちゃった。

「そしたら、監督のおっさん、すげえ喜んでさ、またいろいろ指示しながら、おれ、撮られたんだ」

 スクール水着をきて、ちんこ立たせて、ビデオに撮られたんだ。

「こういうことって、きみはどうおもう?」

 そういって、小山田はこちらをふりむいた。「おれって、おかしいのかな……」

 ぼくはなにもこたえられなかった。

「おれ、可愛い顔してちんこがでっかいんだって。それはすごくいいんだって。キョコンなんだって。おしゃぶりしたくなっちゃうんだってさ」

 自嘲的な口調で小山田はいった。泣き出しそうな笑顔だった。

「最初はなんにもわかんなかったんだ。でもね、だんだんおかしいなっておもってきたんだ。いまはもうホントに気持ち悪いよ。もう嫌なんだ。もうあんなのやりたくない。でもクソババアが許してくんない。おれ、ホント嫌だっていってんのに」

 ゲームの主人公が敵にやられてしまい、画面が暗転した。

 ゲームオーバー。

 まっくらな画面に主人公がうつぶせに倒れている。

「クソババアはそれでもビデオの仕事をもってくる。慧ちゃん、つぎはどこどこでの撮影だよ、とかってさ、なんか芸能人のマネージャーにでもなった気分でさ」

 バカじゃねえの、と小山田はいった。

「そんで、おれ、まじめに言ったんだ、おかあさんに。もうああいうビデオに出るのは嫌だって、つらいんだって、おれ、言ったんだ。やめてほしいって頼んだんだ」

 涙さえ浮かべて懇願したが、母親はその願いを聞き入れてくれなかった。

「あのね、慧ちゃん、ビデオに出るのは今だけだよ。これからずっと、ってわけじゃないの。それぐらい我慢できるでしょ? 今はこつこつ撮影をこなして、コネクションを作ってるところなの。いずれドラマとか映画とか、いろんなCMに出るためにね」

 とある有名アイドルのなまえを出して、あのひとだって昔はジュニアアイドルでビデオに出演していたのだと得意気に力説する。

「おれ、べつに芸能人とかになりたくないよ……」小山田は訴えた。「だから、あんな変なビデオ出るのもういやだ」

 すると、

 ふーん。

 母親はいった。

「慧ちゃんはおかあさんのお願いきいてくれないんだあ、へえ、そうなんだあ」

 ふーん。

 幼児みたいな猫なで声でいったあと、母親の顔から表情がきえた。いきなり電源コンセントを引っこ抜いたみたいに。

 長い沈黙が訪れる。

 ――ちっ。

 不意に鋭い舌打ちをすると、母親は席を立った。

「それからはもう、なんかすごいんだ。どったんばったん物にあたってさ」

 食器をがしゃがしゃ割れそうな勢いで洗い、冷蔵庫をいきおいよく閉め、ドアを乱暴に蹴り開ける。ドスドスと音を立てて部屋中を歩き回り、テレビのリモコンをテーブルに放り投げ、髪をかき上げながら「はぁーあ!」と苛立たしげに嘆息する。その合間合間に、ちっ、ちっ、と舌打ちをするのも忘れない。居たたまれなくなって小山田が声をかけるも、「あー、はいはい、どけ、邪魔、おまえ邪魔」と羽虫を追っ払うようにあしらわれる。

「もう、ホント頭おかしいんだよ、あのクソババア」

 小山田は吐き捨てる。

 さらに彼女は彼に当てつけるように、妹にはこれみよがしに優しく接するのだ。莉絵ちゃんは偉いね、いい子だね。とくべつな日でもないのに玩具を買い与えたり、わざと彼をひとり留守番させ、ふたりで外食に出掛けたり。

「慧ちゃんさあ、そんなふうにごはん食べてるなんて卑怯なんじゃないのー?」

 ある日、夕餉の食卓でとうとつに母親はいった。

「いままではさ、慧ちゃんがビデオ出てくれたから、そのお給料でごはんが食べられてたんだよ。お仕事もしない癖に、おいしいごはんなんか食べれないんだよ、ホントは。だって慧ちゃん、なーんにも努力してないダメな子なんだから」

 小山田は唖然として、彼女の顔をみつめる。

「ごはんだけじゃないよー。お菓子も食べちゃだめだよー、これからはー。すきなゲームとかおもちゃも買えないし、学校のお道具だってそろえられないかもね。ホントなんにもできないから、ちゃんと覚悟しておいてね」

 そう言い放つと、とりつく島もなく彼女は食器を乱暴にかたづけはじめる。

 そんな母親の重圧に耐えきれず、結局はビデオ出演を了承せざるをえなくなるのだった。

「おれ、さいしょはもっと大きな事務所にいたんだ」

 そこは国民的男性アイドルグループをいくつも輩出している、有名アイドル事務所だった。

「なんとか合格できて入ることができたんだけど、やっぱあそこにいるような子はみんなすごくてさ、おれなんかやる気もないし全然ダメ。いつのまにか連絡もこなくなって、なんかクビみたいな感じ。それがあのクソババアにはすげえくやしかったんだ。慧ちゃんはこんなんじゃないもんね! ぜったい見返してやろうね! ってさ。おれのことなんかどうでもよくて、ひとりでむきになってさ」

 そうして流れ着いたのが、いまのジュニアアイドルの事務所だった。小山田のような有名事務所からの落ちこぼれや、まったく素質のない子供を集め、そのものたちからレッスン料を吸い上げるだけの胡散臭い会社だ。

「あ、あの、おとうさんは」と、ぼくはおずおずと口をひらいた。

「おとうさんは、きみのことどうおもってるの? なんかいってくれないの?」

 彼はかぶりをふった。

「あのひとは関係ないんだ」

「関係ない?」

「管轄外ってこと」

 カンカツガイ。むずかしい言葉をつかうんだな、とぼくはおもった。

「あのひとはなんでも分担するのが大好きなんだ。仕事を徹底的に仕分けして、管理するのが。自分の担当外の仕事はぜったいにしない」

 こどもの教育、管理は母親の仕事だと決まっていた。だから、けっして子育てには口を出さない。こどもに無関心なわけではなく、そういう決まりだから。例外はゆるされない。潔癖なほどそれを守り抜く。

「だからだめなんだ。あのひとはなにも言わない。たぶん、おれが助けを求めても、それはおとうさんの仕事じゃないって顔する。だからきっと、おれがあんなビデオに出てることも知らない」

 知っていたとしても、小山田をビデオに出演させたのは母親で、それが彼女の子育ての方針であって、母親の管轄の仕事に父親が意見することはしない。できない。父親自身がそのようにルールを制定したから。

「おれ、おとうさんも好きじゃない。なんかなに考えてんのかわかんなくて、ちょっとこわいよ。笑ってても、いっつもなんか無表情にみえるんだ」

 ビデオは回を重ねるごとに過激になっていった。次の撮影ではいったいどんな卑猥なことをされるのか、想像するだけで吐き気を催す。そんなことを強要させる母親の理解不能なおぞましい思考に恐怖すら感じた。そして絶望した。無関心な父親に、なにも知らない暢気な妹に、あの家、あの家族に。

「バスツアー?」

 うん、と母親はうなずいた。

「慧ちゃんのファンといっしょにイチゴ狩りに行くんだよ」

 小山田は耳を疑った。

「……なんで知らない人たちとそんなとこ行かなくちゃいけないの」

「知らない人じゃないよ。慧ちゃんのファンのひとたちなの」

 彼女はどこか恍惚とした表情でいった。「イチゴ狩りしたり、撮影会もあってね。バスの中で慧ちゃんのファンのみんなとトランプしたりするの」

 おれのファン? なんだよそれ。誰なんだよそいつら。あんな気持ち悪いビデオをみてるような連中といっしょにイチゴ狩り? 冗談じゃない!

 こんな場所にいたら気が狂ってしまう。いっそのこと家出をして、誰も知らないどこか遠い場所へいって、ひとりだけで暮らしていけないだろうか。皿洗いでも新聞配達でも、なんだっていい、住み込みで働きながら学校へ通えないだろうか。

 ある夜、塾の帰り道でのことだった。衝動的にそのままどこかへ逃げ出してしまおうと、自宅とは逆方向にきびすを返したことがあった。ポケットからマジックテープの財布をとりだし、中身を確認する。千円札が二枚と小銭がいくらか入っていた。このお金でとりあえず電車に乗ってみようか。

 そうおもって顔を上げると、たったいま上ってきた坂の下に街が見下ろせた。街明かりは煌びやかに、幹線道路をヘッドライトの川がながれている。線路の上では規則正しく並んだ窓明かりが移動し、すれ違っていた。電車の音はいつまでも響いて、黄色い満月の浮かんだ夜空に滲んでいた。

 その風景に小山田はゆるやかな絶望を覚えた。

 一歩も踏み出せない。途方もなく夜は深く、世界は広大で、茫漠と彼の前に立ちはだかっているようにみえたからだ。

「どこにもいけないって思った。おれは、まだまだ子供だっておもった」

 その日、母親と妹と三人でテレビを観ていた。サスペンスドラマだった。若い女が犯人の男にナイフで刺されてしまうシーン。大袈裟に目を剥く女の表情と、身体から溢れだす絵の具のような血液。そんな場面をぼんやり眺めていた。

「なんかさ、そんとき思ったんだ。クソババアを殺せばいいんだって」

 真夜中、家族が寝静まったあと母親の寝室に忍び込む。両親の部屋は別々になっているため、父親の存在を気にする必要はない。誰にも邪魔されることなく、ぐっすり眠っている母親を刺し殺してやればいいのだ。それですべては解決する。

「家出なんかするよりぜんぜんカンタンじゃんって、そんときはおもった」

 その夜、小山田はいつものように部屋の明かりを落とし、勉強机のライトだけを点灯させ、母親に買ってもらったウォークマンを聴きながら塾の課題をかたづけた。それを済ませると、真っ暗な部屋でスーパーファミコンをしながらそのときを待った。『スーパーマリオワールド』だった。

「だからなんかさ、マリオやるとさ、このときのこと思い出すんだよね」

 小山田は苦笑した。

 深夜三時、かすかに夕食のにおいが残った台所。流し台の戸棚から包丁を引き抜いた。白いセラミックの包丁。それを握りしめ、小山田は母親の寝室へ向かった。

 ドアのまえで室内に耳を欹てる。彼女が起きている気配はしない。

 彼はそっとドアノブを回し、慎重に寝室へ足を踏み入れた。

 粒子の荒い闇に、彼女の粉ミルクっぽい体臭が微かに溶け込んでいる。化粧台に衣装ケース、ぴったりと閉じた厚いカーテン。ずっと暗い部屋にいたおかげで暗闇に目が慣れていた。ベッドのなかで寝息をたてている母親の膨らみがわかる。

 包丁を手にした小山田は、音もなく母親の枕元に立った。

 あとはふとんをめくり上げ、その身体に包丁を突き立てればいい。サスペンスドラマで見たように。それですべては終わる。自分の身に降りかかる、すべての気色の悪い事象から解放される。

 彼は包丁の柄を持ち直し、掛け布団に手をかける。

 そして、いよいよだというときだった。

 自転車のベルの音があざやかに鳴った。外を自転車が走っていったのか。

「それでなんかいきなり、すげえ昔のこと思い出したんだ。近所のでっかい公園をクソババアといっしょに自転車で走ってる」

 天気のいい春の日。緑があふれた公園を、縫うように桜の並木路がのびていた。小山田と彼の母親は、その道を自転車でゆるやかに走っていた。

「そんとき、まわりにいっぱい人がいたんだ。家族連れとかカップルとかこどもとか。みんな楽しそうに散歩したり、走ったり、おべんとう食べたり、バドミントンしたりしてさ。ぽかぽか陽射しがよくて、みんな気持ちよさそうだった」

 だけどある瞬間、ふと気がつくと人の気配が消えていた。あんなに大勢いた人々が、彼らの周囲から忽然といなくなっていた。彼ら親子のふたりだけが並木道を走っている。

「なんだったんだろ、あれ。ふしぎだったな。あんなに賑やかだったのに、気がついたら誰もいなくてすげえ静かなんだもん」

 誰もいない並木道。やさしい香りとともに、無数の桜のはなびらが雪のように降りそそいでいた。その一枚一枚が春のひかりを浴びてきらきら輝いている。まるでひかりのトンネルをくぐるように、彼らは自転車で走り抜けた。

 無人の並木道は、川に架かるちいさな石橋にさしかかった。眼下の川は、両脇に伸びた草に隠されてしまいそうなほどちいさな流れだった。水は透明で澄みわたり、せせらぎが潤んだ瞳のように陽を照り返していた。

 慧ちゃん、と母親はいった。

「今度はおべんとう持ってこようよ。ピクニックしようよ」

 そういって彼に微笑みかけた。

 木漏れ日みたいな穏やかな表情だった。

「ただ、それだけの思い出なんだけどさ。なんか、なんでもない感じだけどさ……。でもおれ、なんかそのとき、すっごいおかあさんのこと大好きだっておもったんだ。そのときの気持ちすごく覚えてるんだ」

 小山田は照れることなく、まっすぐな声でいった。

「そんでおれもう、クソババアのこと殺せなくなっちゃった。そんで、そのまんまなんもしないで部屋から出た」

 母親の寝室から出た小山田は、包丁を手にしたまま、いつまでも台所に突っ立っていた。

「どうしたらいいかわかんなかった。ビデオには出たくないし、家出もできないし、クソババアは殺すことができなかったし。もう、どうしたらいいかわけわかんなかった。なにがなんだか、もう」

 ぼんやり佇んでいるうちに、台所の小窓から外が白々と明けてきた。すずめがさえずりはじめ、外の道を新聞配達のバイクが走り去る音がきこえる。それから、ドアポストがカタンと鳴る音が薄闇に響いた。まるで静寂の湖畔に小石を投げ入れたような密やかな音だった。

 それが合図だったかのように、小山田はパジャマを脱ぎ、上半身裸になった。そして持っていた包丁の刃を自分に向けると、躊躇うことなくそれを肌に這わせた。思ったほど血がでない。無意識のうちに怖じて力を緩めてしまったせいだろう。もう一度、今度は力を込めてすばやく包丁で切りつけた。その瞬間はなにも感じなかったが、数秒遅れるようにして焼けるような痛みが全身をつらぬく。鮮血が滲み出る。納得できず、もう一度、肌を切りつける。あまりの痛みに気が遠くなる。それでも歯を食いしばり、肌に包丁の刃をあてる。肌の裂け目からサーモンピンク色の肉がみえたかとおもうと、たちまちそこから血液があふれる。涙があふれて、とめどなく頬をながれた。痛いから泣いているのじゃない。とても悲しいきぶんだった。だけど、いったいなにがそんなに悲しいのか自分でもよくわからない。わからないまま涙をながし、血を流し、ひたすら包丁で肌を刻む。

 そのとき、不意に台所の照明がついた。同時に自分のからだに滴った夥しい赤色が、目の眩むような鮮やかさを得て、網膜に飛び込んできた。

 その鮮烈な色におもわず悲鳴をあげる。

 いや、悲鳴をあげたのは小山田じゃない。

 彼の父親だった。

 トイレに起きてきた父親が台所の入り口に立っていた。

「おとうさんの怒鳴り声で、はっとした。それから大騒ぎ」

 小山田は救急車で救急病院へ搬送され、そのまま手術をうけた。何時間もかけて肌を縫合された。

「べつに死んでやろうとかおもったんじゃないんだ」

 かといって、自殺未遂をして「おれはこんなにも悩み、精神的に追い詰められているのだ」などと訴えたかったわけでもない。

「そんなことぐらいじゃ、あのクソババアには伝わらないもん。ホント、バカだから」

 心底あきれた表情でいった。

「だから、物理的にビデオに出れないようにしてやったんだ」

「……ぶつりてき?」

 小山田は無言でうなずき、そっとコントローラーを置いた。ふらりと立ち上がると、おもむろにシャツをまくりあげる。

 ぼくは座ったまま、唖然と彼をみあげた。

 彼は窓辺に立ち、シャツを脱ぎ捨てると、上半身裸になった。

 窓から射し込むひかりに、白い肌が陶器のように照らされる。

 そんなきれいなからだに、醜い蚯蚓腫れのような切り傷が痛々しく無数にのたくっていた。

「こんなんじゃ、ビデオなんか出れないだろ?」と、小山田はいった。

「こんな傷だらけのからだじゃ商品にならない。いくらこっちが望んでも、こんなからだのおれを事務所のあいつらは撮りたがらない」

 そして嘲笑うようにいった。

 ――ざまあみろ。

 陽光が降りそそぎ、彼はまるで天使のようだった。背中から羽ばたく白銀の翼さえみえた気がした。

 ぼくはその姿を惚けたように眺めていた。

「こっちにきて」

 光の中から声がする。

「こっちに」

 ぼくはゆっくり立ち上がり、夢遊病者のように彼のそばへ歩み寄った。

「触って」

 彼はささやいた。

 ぼくは戸惑い、彼の顔をみつめる。

「触ってほしいんだ」

 光につつまれ、小山田は静かにまぶたをとじた。

 ぼくは躊躇いながら、彼の傷だらけの肌にそっとてのひらをあてた。

 すべすべした皮膚にざらついた醜い感触。無数の傷は生々しく熱を孕み、溶岩のように滾る血液の気配を感じる。傷を追って、色素の薄い乳首からうっすら浮いた肋骨、鳩尾、そして臍へと指をなぞる。肌をなぞっているうち、身体の奥底から込み上げてくるものがあった。それは性的な快楽に似ていた。彼の傷だらけの肌に触れながら、ぼくの陰茎は微かに反応していた。

「……痛い?」

 訊ねると、彼はうすくまぶたをひらいた。

 なにかの言葉のかたちに、くちびるが動く。

 その瞬間、窓から風がふきこんだ。甘い花の香りを孕んだやわらかい風。レースのカーテンがふわりとひるがえり、彼の白い肩を慰撫するようになでる。

 小山田は輝きのなかで静かにほほえんでいた。


 彼の自宅に招待されたのはそれが最後になった。そのあとぼくは、彼に無視され続けることになるからだ。

 それから数日後、ある事件が起きた。

 学校での休み時間のときだった。用を足しに向かったところ、なにやらトイレの前に人だかりができていた。なにごとかと駆け寄ると、女子便所のまえに小山田慧をはじめとするクラスの男子が五人ほど集まっていて、笑い声をあげている。みんなが便所の出入り口のドアを押さえていた。

「なに女子便に入ってんだよー、エロスだぞ!」

 笑いながら小山田が叫ぶと、それに倣うようにみんなが「エロス、エロス!」と連呼する。

 わずかにひらいたドアの隙間から、同級生の中島太一のにやけた顔がみえた。「開けてよー!」と中から必死にドアをこじ開けようとしては、その都度、五人がかりでドアを押さえこまれている。そんなことが何度もくりかえされていた。

 じゃれているだけで、別段、深刻そうにみえなかったが、そのうち「痛い痛い!」と中島の悲痛な叫びが響いた。中島の指がドアにはさまっている。それに小山田たちは気づいていないのか、はしゃぎ声をあげながら無理やりドアを閉めにかかっていた。言葉にならない中島の悲鳴がこだました。

 誰かが担任の先生に報告したのだろう、先生が血相をかえて飛んできた。

 その後、緊急に学級会が行われた。

 担任の幸田佐知子先生は静かな怒りを燃やし、クラス全員に事の成り行きを説明した。

「さいわい、中島くんは軽傷で済みましたが、一歩間違えれば大事故につながっていました」彼女は児童全員を睨みつけるようにして視線をめぐらした。

「先生はこのような行為を断じて許しません」

 そう言い放つと、あろうことか中島太一に誰にやられたのかを証言させ、名前を呼ばれた者は前に出るように命じた。

 中島はうつむきながら蚊の鳴くような声でひとりひとり名前を上げていく。次々となまえが呼ばれ、名指しされた児童が沈んだ表情で席を立つ。とぼとぼと肩を落として前に歩み出る彼らの背中を見送る。

 このぶんじゃかなり長引きそうだ。小山田たちの騒ぎのせいでトイレに行きそびれていた。この重苦しい空気の中、トイレに行きたいなんて言い出しにくい。

 そんなことを思っていたときだ。不意に中島の口からぼくのなまえが飛び出したのだ。

 ぼくは弾かれたように中島をふりかえった。耳を疑う。聞きまちがいだろうか。あまりのことに混乱してしまい咄嗟に声が出せず、まじまじと彼をみつめる。中島は陰鬱な顔でうつむき、こちらには目を向けない。

「……な、なにいってるの」掠れた声が漏れる。

 ――おれはなにもやってない! 首をふりながら言い出しかけた瞬間、

「はやく前に出なさいっ!」

 先生のヒステリックな金きり声に遮られ、ぼくは尻を蹴飛ばされたように立ちあがった。いっさいの反論を許さないというような威圧的な態度に気圧されて、言葉を飲みこまざるをえなかった。

 ぼくは大騒ぎしていた連中といっしょに、なぜか教室のまえに一列に整列させられた。

 わけがわからない。中島太一を見遣る。彼はこちらから顔を逸らすようにうつむいたまま石のように動かない。

 なんでおまえはぼくの名前をいったんだ? ぼくはなにもやっていないじゃないか。トイレの傍にはいたけど、彼らの輪には加わっていない。しかも、どうして中心になっていた小山田慧のなまえを言わないのだ。いまからでもいいから訂正してくれ。

「いいですか? あなたたちは人として最低な行為をしました」

 幸田先生の教育者然とした説教がはじまる。

 ぼくは教室を見渡した。こんなふうに教室の前に立つのは、いい意味でも悪い意味でもはじめてのことだった。みんなが冷たい目でこっちを見ている。この中に、あのときの野次馬が数人いる。ぼくが濡れ衣を着せられていることは知っているはずなのに、だれも証言してくれない。

 助けを求めるように小山田の席に視線を向ける。その瞬間、ぼくは息をのんだ。

 小山田がぼくのことを憎々しげに睥睨していたからだ。

 ぼくは激しく狼狽した。

 どうして?

 どうして、そんな目で見るんだ。

 そのとき、いきなり視界がゆれた。

 先生に胸ぐらをつかまれ、捩じり上げられたのだ。

「あんた、ホントにわかってるんでしょうねえ?」

 ぼくはくちびるをわななかせながら、上目遣いで彼女を見上げる。

「最低なことして、とぼけてんじゃない。許さないよ」

 このひとは本当にぼくがそんなことをしたと思っているのか。ともだちが少なく、いつも教室の隅で静かに漫画を描いているようなぼくが、そんなことをすると本気でおもっているのか。整列しているのはクラスの中でいつも騒がしく活発な児童ばかりで、内向的なぼくとはなんら接点はない。ひとりは先日、女子に暴言を吐いて泣かせていた。ひとりは授業中に騒いで毎回のように注意されているようなやつだ。そんな連中の中にぼくがいるなんて、このひとは一抹の違和感も抱かないのだろうか。不可解におもわないのだろうか。

 臆病者なぼくにとって、大の大人――それも決して逆らってはいけない教師に、胸ぐらをつかまれ恫喝されるという行為はあまりにも衝撃的だった。恐怖のあまり膝がふるえ、同時に失禁さえした。下半身が弛緩しダダ漏れする小便をおさえることができず、それは足をつたって靴下を汚した。

 それをみた先生は、面倒事が増えたというように頬をひきつらせる。舌打ちせんばかりの表情で胸ぐらから手を離した。

 こうして重苦しい学級会は、ぼくのおもらしでもって幕を閉じた。

 それなのに翌日には、自分を閉じ込めた児童たちとなにごともなかったように遊んでいる中島太一の元気な姿があった。ドアにはさまった指も、包帯を巻いていたり、ばんそこうを貼っていたりするわけでもない。あの一件などはじめからなかったかのようだった。

 笑いながらじゃれあっている中島を眺めていると、いったいあの告発の会はなんだったのかと腑に落ちない。わざわざ緊急に学級会までひらき、公然と犯人を晒し上げてまで叱責するような事案だったのだろうか。けっきょく、小便をもらしたぼくに『ムーニーマン』という紙おむつからとった渾名があたえられただけだった。

 しかしもっとも不可解なのが、小山田慧の態度だ。

 ぼくを憎々しく睨みつけたあの日から、なぜか彼は、あからさまにぼくを避けるようになったのだ。

「ねえ、ゼルダ、どこまで進んだ?」

 あるとき、そんなふうに声をかけた。すると、

「いつまでもファミコンなんかやんねえよ……」

 こちらに視線も合わせず、小山田は低い声でそうこたえた。

 いっしゅん言葉を失ってしまう。

 あんなに夢中になっていたのに、いったいどうしたのだろう。

「え、もうすこしでクリアだったのに。またなんかわかんないとこあった? それだったらおれ、また教えるよ」

 不穏な空気を取り繕うように、ぼくはどこか媚びた声でいった。

「はあ? うるせえんだよ、ムーニーマン」顔を上げて、ぼくを睨みつける。「ばーか、きえろ!」

 小山田は吐き捨てるように言い放つと、こちらに背を向け去っていった。まわりの児童たちが嘲笑を浮かべ、好奇の視線をぼくへ向ける。

 内心ひどく動揺していたが、ぼくは何事もなかったように装った。意味不明の笑顔で痒くもないあたまを掻きながら自分の席へと戻った。

 座席に着くと、いまさっきの痛罵があらためて毒のようにひろがって、じわじわと涙が滲んでくる。なにがなんだかわからない。いったいぼくが何をしたというのか。

 それは今現在もわからない。

 わからないまま、小山田慧との関係は修復されることはなかった。

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