彼の過去 前

 翌朝、ぼくは学校を欠席した。

 指一本動かすのもつらく、呼吸するのさえ億劫におもえた。

「寒気がするの?」

 真夏だというのに頭からタオルケットをかぶって蹲る姿に、母親は心配げだった。体温を測るよう促す。

 顔の怪我をみられては不審におもわれる。ぼくはタオルケット越しに、「だいじょうぶ、薬飲むから」と猫を追っ払うように早口でいった。母親はパートの時間が迫っていたためか、ぼくの些細な異変には気づいた様子はない。昼食は冷蔵庫の中に冷凍の即席うどんが入っているから、食欲があるようであればそれを茹でるように言いつけると、そそくさと出掛けて行った。

 ドアが閉まり、鍵が掛けられる音がした。家の中に静寂がおとずれると、ぼくはタオルケットから顔を出し、寝返りをうった。

 たしかに寒気がする。

 昨夜のできごとを小山田は嬉々として、クラスのみんなに言いふらすだろう。美甘さんに覗きが露見したときのように甘くはない。小山田はぼくの痴態を事細かに学校中にしゃべりちらし、吹聴して回るだろう。女の下着を身に付けた姿で夜のプールに浮かぶぼくのことを。

 その現実をおもうと、歯の根が合わないほどの寒気がする。

 ぼくは身悶えして、まくらに顔面をうずめた。


 夜、寝床に潜ってから数時間、暗闇の中でなんども寝返りをうつ。

 小山田慧のことが眼前を飛び回る羽虫のように、しつこく頭の中をめぐり、酷いときには明け方まで眠れない日々が続いた。これまで彼にされてきた仕打ちが思い返される。

 ぼくは吐き気を催したが、小山田はうつくしい顔で微笑んでいた。ぼくはそんな彼の顔面をおもいきり殴る妄想をくりかえした。小山田に馬乗りになり、何度もこぶしを振りおろす。鼻血を垂れ流しながら涙目で謝る彼を無視し、「おまえが悪いんだ」ととどめに顔面を踏みつける。そんな空想をベッドの中で延々とくりひろげた。

 しかし、そんないくじのない空想に耽ったところで気分が晴れることはない。むしろ、そんなことをくりかえすたび、どこにも逃げられないヘドロのような感情が澱のように積もっていった。

 ぼくはむくりと上半身をおこし、両手で顔を擦った。

 指の隙間から粒子の粗い暗闇をみつめる。かすかに耳鳴りがした。鼓膜がきんきん鳴る。それを振り払うように頭を掻きむしり、立ち上がった。

 明かりをつけずに自室から出ると、ダイニングへ向かった。

 両親を起こさぬよう忍び足でキッチンへ入り、そっと冷蔵庫を開けた。冷蔵室の煌々としたあかりに目を細める。牛乳と麦茶しか入っていない。つめたい炭酸ジュースが飲みたかったけど、しかたがない。あきらめて麦茶のボトルに手をかけたときだった。その体勢のまま、ぼくはからだを硬直させた。さきほどから持続的にかすかな物音がしているのに気がついたからだ。

 なんだろう。耳をすませる。

 ちいさな動物の鳴き声のようだ。外で猫でも騒いでいるのだろうか。

 ――いや、ちがう。これは、

 どくん、と心臓がおおきく脈打った。

 動物の声じゃない。これは、ひとの声だ。

 ぼくはそっと冷蔵庫のドアを閉めた。

 声がするのは両親の寝室からだ。ぼくは忍び足で寝室へ近づいてゆく。近づくにつれ、その声が鮮明になる。話し声ではない。

 その時点でもう十分だった。さっさと自室に引き返し、寝床にもぐりこめばよかったのだ。それなのにぼくはそうしなかった。

 押し殺した女の嬌声がきこえる。

「……あっ、すごい……、きもちいい」

 それは母親の声だった。

 母親の喘ぎ声だった。

 いままで彼女の口からは聞いたこともない、小動物のような可愛らしい声だった。

 ぱん、ぱん、と肉のぶつかる音もきこえた。

 目の前に寝室のとびらがある。

 この中でぼくのおかあさんは、ぼくのおとうさんに犯されている。まんこにちんこを突っ込まれて、ちっちゃいこどもが嫌々するみたいに喘いでいる。

 不意に、夕食の光景が脳裏にあらわれた。食事するぼくを、頬杖をついて眺める母親の姿。気だるそうに目を細め、耳にかけた髪がさらさらと頬にながれる。

「おいしい?」

 そう訊ねる彼女の声。

 いま、この寝室のとびらを乱暴に開け放ったらどうなるだろう。

 そんな衝動が激しくつきあがるように噴き出した。指先がドアノブに触れる。だけどそれは、すぐになにごともなかったように消え去った。

 静かに部屋へ戻ると、ぼくは寝巻のまま自室のベランダから外へ抜け出した。

 夜の住宅街をあてもなく歩く。

 無数の星がまたたき、月のいない夜空。

 眼下の川は墨汁のような水を湛え、静かに流れていた。黒い川面に民家の窓明かりが垂れ幕のように白くゆらゆらと揺れ、川べりでは伸びきった雑草が音もなく風にそよいでいる。

 川に架かった橋をバスが一台、通過する。回送バスなのか、仄暗い明かりに満ちた車内には誰ひとり客は乗っていなかった。


 小山田慧。

 ぼくは彼のことを小学生のときから知っている。

 あの頃の小山田はひとを差別したり貶めたりして、所謂、いじめのようなことをして、それをたのしむような人間ではなかったようにおもう。少なくともぼくにはそうみえた。いつから変わってしまったのだろうと思いをめぐらせてみる。

「神奈川県の横浜市からきました、小山田慧といいます。みなさん、よろしくおねがいします」

 小学五年の春、ぼくのクラスに彼はやってきた。

 小山田は転校生だった。

 大人のように滑らかな口調で朗々と自己紹介したあと、ぺこりとお辞儀をした。クリーム色のニットべストにうすいピンク色のシャツ、紺色の半ズボンに白い靴下を膝まで上げていた。そんな清潔感あふれる彼の姿を覚えている。

 容姿端麗で聡明で、そして明朗な小山田慧は、すぐにクラスメイトたちに自然と溶け込み、やがてクラスの中心人物となるまでそう時間はかからなかった。気がつけば学級委員を任されるまでになっていた。

 小山田は、目立たないぼくのような児童にもさわやかな笑顔を向けてきてくれた。相手が話しやすい環境を整え、所々で適切なことばを補助するように差し込み、滞りなく会話を導く。勉強の出来だけじゃない、小学生にしてはやけに大人びていて、頭の回転がとても速かった。

 あれはいつの頃だったろうか。どういった経緯かは忘れてしまったけれど、当時夢中になっていたスーパーファミコンの『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』のことについて、小山田と話していたときだった。彼がどうしてもクリアできないステージがあるといい、ぼくが教室のうしろの黒板に図面を書きながら説明していた。

 テレビゲームのことになると、俄然、饒舌になってしまう。しかも頭のいい優等生な小山田に、たとえゲームとはいえ、物事を教えるなんていう状況は滅多にないことで、少なからずぼくを得意にさせていたのだ。

「っていうかさ、うち来てちょっとやってみてくれない?」

 とつぜん、ひらめいたように小山田は提案した。

 ぼくは黒板消しを片手に、「え?」と彼をふりむいた。

「口で説明するより、実際にやってもらったほうがいいかなって思ってさ」

 いい? と小山田は訊ねる。

 いいもなにも……、ぼくはすぐに返事することができなかった。とてもうれしかったのだ。うれしくて、まずどういう言葉を差し出せばいいのか躊躇したのだ。

 小山田慧は新興住宅地に聳える高層マンションに住んでいた。

 九階の部屋に案内されると、彼の母親が出迎えてくれた。ぼくのおかあさんも美人だとおもうけど、彼のおかあさんも負けずときれいなひとだった。しかも自分の母親にはない、華やかな上品さがあった。

 小山田の部屋に入ってまず目についたのは、壁に飾られた色とりどりの折り紙で作られたわっかつづりだった。画用紙も貼られ、そこには幼い文字で『おたんじょう日おめでとう!』とクレヨンで書かれていた。

「去年のおれの誕生日にさ、妹が飾り付けしてくれたの。もったいないから、ずっとそのままにしてあるんだ」

 彼は照れくさそうに説明してくれた。

「妹いるんだ?」

「うん、二年生」

 さっそく『ゼルダ』をプレイしていると、部屋のドアがノックされた。彼の母親がお盆におやつを載せて持ってきてくれた。不二家のショートケーキと、よく冷えたオレンジジュース。

「あっ、い、いただきます」

 ぼくは彼の母親と、おどおどと目を合わせることもできず、うわずった声でお辞儀した。

 しばらくして、ふたたび小山田の母親が部屋へやってきた。おやつの食器を下げにきたのだ。

「ジュースのおかわりはいかが?」

 彼女は可憐なほほえみを向けてきた。

「あっ、あの、はい、いただきます」

 しどろもどろにこたえる。そんなぼくを小動物でもみるように彼女は笑った。

 きれいなひとだった。まるで芸能人のようにみえる。食器用洗剤のCMが似合いそう。

「おなまえは?」

 訊ねられ、ぼくは緊張しながら自分のなまえを教えた。

「慧ちゃんがこっちにきて初めておうちに呼んだおともだちが、あなたなのよ」

「えっ、そうなんですか」

「うん」と、彼女はうなずく。「ね、慧ちゃん?」

「うん、そうだよ」

 小山田は母親によく似た、感じのいい笑顔でこたえた。

 意外だった。転校してきてすぐクラスに溶け込み、毎日のように大勢のともだちに囲まれていた彼なのに、自宅へ招いたのはこんなぼくが初めてだとは。

 ぼくは小山田にともだちだと認められたのだろうか。

 ぼくの数少ないともだちには、小山田のようにみんなが憧れるような人気者はいない。それが不満だとおもったことなんて一度もないけれど、やっぱり彼みたいな人物とこんなふうに親しくすることができると、なにか誇らしいきもちになる。

 もっと彼となかよくなりたい。そう思った。

 その日はテレビゲームをそこそこに、彼と妹、そして母親をまじえて『キングレオ』で遊んだ。『キングレオ』とはドラゴンクエストⅣのカードゲームだ。『UNO』によく似たカードゲームで、当時とても流行っていた。学校でも休み時間になると、みんな集まってそれで遊んでいた程だ。

 小山田の妹は素直で可愛くて、彼の母親はきれいで優しかった。絵に描いたようなあたたかい家族。とても愉快でたのしいひとときだった。

 それから数日もしないうち、ふたたび『ゼルダ』の攻略方法をおしえてほしいということで、ぼくは小山田の自宅に招待された。

 その日も彼の母親は、美味しいおやつを用意し、ぼくを歓迎してくれた。

「きれいなおかあさんだね」

 お世辞ではない、心からそうおもった。

 しかし小山田は鼻でわらった。

「そんなことないよ、とんでもねえくそババアだよ」

 おどろいて彼の横顔をふりむく。

 照れ隠しでそんなふうに冗談っぽく謙遜しているのか。

「なにいってんの、きれいだし、優しいし」

 先日、みんなで『キングレオ』で遊んだときのことを思い出す。

「うん、表はね。だけど、裏は悪魔みたいなクソ女だよ」

 彼なりのギャグなのかと、ぼくは笑った。だけど小山田はくすりともしない。コントローラーを握り、じっとテレビ画面をみつめ、その顔には表情が流れ落ちてしまったようになにもなかった。

 なにか言ってはいけないことに触れてしまったのだろうか。気まずい空気がながれる。ぼくは言葉をなくし、くちびるを結んだ。

 沈黙したぼくたちとは対照的に、テレビ画面の中のキャラクターは勇ましい音楽とともに動き回っている。

「アイドルのさ、イメージビデオってあるでしょ?」

「え」

「水着姿のアイドルが浜辺とか走ったりするイメージビデオとかあるじゃん? エロビデオほどじゃないけどさ、ちょっとエッチな感じのやつ。そういうのきみ、知ってる?」

 いきなりなにを言い出すのかと戸惑いながら、「う、うん」とぼくはうなずいた。

 実際にそういったビデオは見たことがないけれど、そういうものが存在するということは知っている。

「ああいうのってさ、ふつう、大人の女の人が出るんだけどさ、小学校の低学年くらいのとか、幼稚園くらいのちっちゃい女の子が出てるビデオもあるんだよ。知ってた?」

「……ううん」

 ジュニアアイドルっていうんだ、と彼はいった。

「そういうビデオではね、水着を着せられた幼稚園の女の子が水遊びしてるんだ。そういうところを撮っててさ。だけど、ときどき女の子の股とかどアップになるわけ。水着もわざと食い込ませたりさ、肩ひもを落としてふくらんでもいないおっぱいうつしたりさ。それで四つん這いにさせてさ、アイスキャンディとか舐めさせるわけ。なんでアイスキャンディなんか舐めるんだとおもう?」

 ぼくは無言で首を振った。

「ちんこ舐めてるみたいに見せるためだよ」と小山田はいった。

「大人になったら女は男のちんこを舐めるんだ。ばかみたいだろ? でもこれ大人じゃないの。幼稚園児とか小学校の低学年の子なの」

 きみはさ、そういうのどうおもう?

 なにもこたえられず、ぼくはうつむく。どうして小山田がこんな話を自分に語るのか、どうしてこんな話になってしまったのか、よくわからない。

「だけどさ、世の中には大人のくせして、そういうのみて興奮しちゃう変態がいるんだよ」

 そうなんだ、とぼくは目を伏せる。

「残酷なのはね、出演してる本人はなにもわかんないってことなんだ。いきなり親に連れて来られて、知らないひとたちに囲まれて、裸同然でカメラむけられて、それがどういうことなのかもわからないでね。それできっと、おおきくなってから、そのときの意味を思い知らされるんだよ」

 廊下からスリッパを引き摺るような足音がきこえ、ばたんとドアの閉まる音がした。

「そういうビデオの犠牲になるのは女の子ばっかじゃないんだ。ちいさな男の子のビデオもあるの」

 知ってた? と小山田は訊ねる。

 ――知ってた?

「やっぱそういうのもさ、海パン姿で水遊びするんだ。女の子みたいに股を食い込ませるんじゃなくてさ、もっこりちんこがわかるようにするわけ」

 どきどきと胸が鳴っていた。まっくらな死角から、なにか得体の知れないとんでもないものが飛び出してきそうな予感に身構える。まるでおばけ屋敷の角をまがるときのような心境。息が詰まるおもいだった。

「おれ、そういうビデオ出たことあるんだ」と、彼はいった。「出たことあるっていうか、出されたの、あのくそババアに」

 ぼくはテレビ画面に視線を向けたまま、「あー」とも「うー」ともつかない意味のない声を漏らした。

「七歳のときから、ジュニアアイドルの事務所に入ってて、そういうビデオに出てたんだ」

 いってから不意に、「あっ、ほら、ここなんだよね」と声色を変えた。

 ぼくは茫然とテレビ画面をみつめていた。

「ねえ、ここがわかんない。ちょっとやってみて」

 小山田がコントローラーを差し出す。

「えっ」

 へんな声が出た。

「ちょっとやってみて」

 彼がくりかえす。

 そうだ。ゲームのことだ。

 コントローラーを受け取る。それは彼の体温で生温かくなっていた。

 ぼくは小山田がクリアできないというステージを、たどたどしく説明しながらプレイしてみせた。仕掛けがわかってしまえば簡単なステージなのに何度も失敗してしまう。

「おおっ、サンキュー、わかった、わかった」

 ようやくクリアして、彼にコントローラーを返した。

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