星空の下のけだもの
時間は午前二時を過ぎていた。
深夜でも蝉の鳴き声がきこえる。室内は蒸し暑い。開け放たれた窓からも風は吹き込まず、レースのカーテンは微動だにしなかった。自室のエアコンといえども気軽につけることができない。電気代で親にめいわくをかけたくないからだ。
真夏日が続いている。徐々にサナトリウムで過ごすのも厳しくなってきた。とくに先日の美甘さんは、あまりの蒸し暑さのために足を投げ出し、ソファでだらしなく寝転がっていた。すこし息苦しそうに呼吸する小さな胸に、ショートパンツの隙間からみえる股間への暗がり。
ぼくは押入れの奥から、そごうの紙袋を取り出した。ふくろの中に詰め込まれたものを手に取る。
盗んできた美甘優の下着とワンピースだ。
まずはブラジャーを手に取ると、美甘さんのふくらみかけのおっぱいを思い出しながら、においを嗅いだ。注意しないとわからない程度だったけど、ほんのり彼女の体臭がする。それから、可愛らしい白のパンティ。ぼくはパンティをつかみ、それに顔をうずめた。性器に血液がめぐる。
「……優ちゃん」
いままで一度も口にしたことのない美甘さんの下のなまえを呼んでみる。声にすると、その響きがさらにぼくを興奮させた。
「……優ちゃん、……優ちゃん」と、パンティのクロッチに顔を埋め、屹立した陰茎をしごく。
おもむろに服を脱ぎ捨て、ぼくは全裸になった。
貧弱な身体。青白い肌に肋骨がうすく浮き出している。汗ばんだ猫背の背中に外気が触れて、すこし涼しい。
ぼくは美甘さんのパンティに足をとおした。男性用のパンツより薄くふんわりとした生地のそれは、ふともものあたりで引っかかり、腰ゴムが少々きつい。それからブラジャーを胸にあてる。これも背中の金具をなかなかひっかけることができずてこずったが、なんとか装着することができた。ちいさなパンティのなかでペニスが鉄のようにかたく勃起している。
廊下で物音がして、ぼくはびくりと身を強張らせた。家族のだれかが起きてきたらしい。咄嗟にベッドへ飛び込み、タオルケットに包まった。こんな姿を両親に目撃されたらたいへんだ。
トイレのドアが開閉され、やがて水洗の音が響いた。
しばらくして気配がなくなると、ぼくはほっとして寝床から抜け出した。
それから、つくえの抽斗から口紅とマスカラ、ファンデーションを取り出した。母親のメイク道具から、こっそり持ち出してきたものだ。
ファンデーションのコンパクトの鏡をみながら、くちびるに口紅をひいた。
艶やかな桃色のくちもとがほころぶ。
母親の見よう見まねで化粧を施し、変身が整った。幸福感が滲むように沸きあがり、やさしい気持ちにつつまれる。
薄汚く気味の悪い芋虫から、うつくしく華麗な蝶々に脱皮したような気分だった。
ぼくは美甘さんの下着を身につけたまま、さらに彼女のワンピースを着込み、ベランダから部屋を抜け出した。
静まりかえった暗い住宅街に白い街灯が点在し、道なりに続いている。気分は高揚していた。スキップでもしてしまいそうなくらい足取りは軽やかだった。
とちゅう、何人かの通行人とすれ違ったが、とくに不審がられることはなかった。暗がりで顔まではっきりとみえないからだろう。
中学校の正門はかたく閉ざされていた。
ぼくは辺りを見回して誰もいないことを確認すると、鉄の門扉に飛びつき、それを乗り越えた。
夜の闇に沈む校庭は昼間より広大にみえる。仄暗い月明かりを頼りに校庭をゆっくり歩いていると、まるで砂漠を横断する旅人のような気分だった。
ときおり風が吹き、砂埃といっしょにワンピースがひらめく。目の前には校舎がまるで廃墟のように聳えたっている。明かりはすべて消灯していたが、ところどころ非常ベルの赤いランプや非常口の緑色の明かりが窓からこぼれていた。
昇降口までやってきたが、もちろん扉は閉ざされ厳重に施錠されている。どこからか侵入できないかと建物のまわりを探索する。そこで細く開いていた小窓を発見した。
ぼくは小窓を全開にし、そこへ飛びついた。頭から窓へ入り込み、芋虫のように身体をくねらせ這いつくばる。窓枠がおなかに食い込んで苦しい。やっとのことで窓を抜け、便所の床に派手に落下した。そこは職員の男性用便所だった。
トイレを出て、昇降口へ向かう。
三年一組、女子の下駄箱。ぼくはよごれたスニーカーを脱ぎ、『美甘』の箱からうわばきを取り出した。美甘さんのうわばきはサイズがちいさくて履くことができず、仕方なくかかとを踏んで履くことにした。
真っ暗な廊下の向こう側、非常ベルのランプがリノリウム塗りの床に反射している。まるで異次元に続いているようだった。
四階の三年一組の教室へやってきた。引き戸を開けると、予想外におおきな音が鳴り、ひやひやした。
黒板に教壇、整列したつくえ、剥がれかけた時間割表に学年の標語。じっと沈黙したそれらが、窓から射し込む薄明かりにぼんやり照らされている。
校舎は丘のうえに建っているため、窓からの眺めは解放感があった。夜空にたまごの黄身のような月が浮かび、その下に眠った街が水槽の砂利のように沈んでいる。家々の明かりはほとんど消えていた。目につくのは街灯や信号機、自動販売機、時折ちかちかと光る自動車のヘッドライト。そして街のむこうがぼんやりと淡く発光していた。おそらく、米軍基地のあかりだとおもわれる。
ぼくは暗闇の中、慎重につくえの合間を縫って、窓側の美甘さんの席に着いた。
背筋を伸ばし、黒板に視線を向ける。
きのうまでの風景がまるで違う。ぼくを取り囲む世界が変化した。
ぼくは身を屈めて美甘さんのつくえに頬をつけた。スカートのなかに手を入れ、パンティのうえからペニスを擦る。美甘さんのおまんこに密着していたパンティが、いまぼくのちんちんを包んでいる事実を思うと、眩暈のするような興奮をおぼえる。
ぼくは窓から校庭を見下ろした。
かまぼこみたいな体育館の脇、青い夜にプールの水面がみえた。
校舎を出たぼくは、プールへ侵入した。
プールサイドを歩く自分の姿が凪いだ水面に映っている。ワンピース姿の人影。反射が不明瞭なおかげで、自分の姿が美甘さんのように見える。まるで彼女といっしょに歩いているみたいだ。
ぼくはおもむろにワンピースを脱ぎ、ブラジャーとパンティの下着姿になった。
プールサイドに腰かけ、足をそっと水につけた。かるく両足をかき、水飛沫をあげる。それからゆっくりと身体を水の中へ浸けた。
水は想像以上に冷たく、凍えそうなほどだった。全身に鳥肌がたち、歯がカチカチ鳴りはじめる。それでも思い切って水中に潜った。水に身体をあずけると、先程までの寒さは徐々に感じなくなった。濃紺の水底に月明かりが薄明光線のように射し込み、ゆらゆらと揺れている。
ぼくは水面から顔を出し、おおきく息を吸い込むと、クロールで泳ぎはじめた。水音が密やかに響く。
プールのまんなかで仰向けに浮かび、ぼんやりと夜空を眺めた。
月の色が先程より白く変化し、星々が薄くまたたいている。闇の中を雲の群れがクジラみたいにゆっくり流れ、それらと遊覧飛行するように、飛行機の赤いランプが点滅しながら移動していた。
ぼくはそっとまぶたを閉じて、遥か上空を航行する航空機に意識を飛ばした。
満月をかすめ、星空をながれる。
眼下に浮かぶ霧のような雲の間から、地上の灯りを見下ろす。白、赤、オレンジにブルー。瞬きする数千の灯。数億の生活。じっと蹲る鬱蒼とした森林。果てしなくひろがる濃紺の海。
しばらくそうして、ゆっくりまぶたをひらく。
やがて雲の群れも飛行機も空から退場して、目に映るのは澄みきった夜空だけになった。
じっとこうして水面を漂っていると、限りなく宇宙を感じることができる。世界はぼくと月と星だけになった。
ふと、かすかな気配を感じて、ぼくはそっと横を向いた。
プールサイドの金網のむこうに白い顔がうかんでいた。
その顔はにっこりと微笑みをたたえている。まるで古い童話や神話の挿絵に登場する目鼻口がついた満月みたいに。ぼくはその顔を数秒間ぼんやりとみつめた。それこそ、きれいな満月を眺めるように。相手もこちらをじっとみつめている。その顔はたしかに、小山田慧にまちがいはなかった。
ぼくは金縛りから解放されたように、盛大に水飛沫をたてプールサイドへ泳ぐ。小山田は身を翻し、ふっと視界から消えた。
ぼくは転がるようにプールサイドへ上がった。同時に、出入り口からこちらへ走ってくる小山田慧の姿がみえた。ぼくは脱いだワンピースを抱えてプールサイドを全速力で駆ける。彼は無言でぼくの背中を追いかけてくる。顔には満月のような笑顔をはりつかせたまま。
プールから飛び出し、校舎のまえの遊歩道を走った。背後の気配が静かに迫ってくる。裸足の足裏に激痛がはしった。硝子片かとがった小石か、なにかを踏んでしまったらしい。それでも止まるわけにはいかない。自分の激しい息遣いと足音が校舎のコンクリートに反響している。
どうして、
どうして、小山田がこんな時間に、この場所にいるんだ。どうして、ぼくを追いかけてくるんだ。どうして――
混乱した意識のなか、必死に駆けた。うしろをふりかえる余裕すらない。小山田慧は体育祭で短距離リレーのアンカーに選ばれるほどだ。鈍間な足ではすぐに追いつかれてしまう。
かすみはじめた視界に校門がみえてきた。あそこさえ抜けてしまえばなんとかなる。校門さえ出ればぼくは助かる。救われる。そんな根拠のない思いがあたまをかけめぐる。
小山田は、ぼくの名前をフルネームで絶叫した。同時に髪の毛をつかまれ、ぼくはバランスを崩した。追い打ちをかけるように腰をおもいきり蹴飛ばされ、校門前の広場の花壇に倒れこむ。湿った土の感触と黴に似たにおいが鼻をつく。
「なにやってんのなにやってんのおまえなにやってんの」
ぼくに何度も蹴りを浴びせながら、小山田は早口でまくしたてる。その声は笑いだす寸前のような調子だ。
「ちょっと、ねえねえ、なにやってんのって。なんで女の下着つけてんのって、ねえ」
こめかみを硬い靴底でおもいきり踏みつけられる。眩暈がしそうな痛みに歯を食いしばる。口の中にほんのり血液の味がひろがった。以前、美甘さんに打擲されたときとはわけが違う。男子の渾身の力だ。ひとつ、ひとつの攻撃が重たい。肉が痺れ、骨が軋む。全身が激痛に悲鳴をあげている。
小山田はとうとつに攻撃を止めると、
「……つーか、なんだおまえ、その顔。もしかして化粧してんのか?」と、一瞬だけ声が動揺した。そして、夜のしじまを破るように大声を張り上げる。
「だれかーっ! たすけてーっ! キチガイがいるからーっ、だれかー、きてーっ! いやーっ!」
小山田の喚き声があたりに響き渡った。
中学校の近隣は住宅街になっている。叫び声を聞きつけ、だれかがやってくるかもしれない。だれかが警察に通報するかもしれない。そのとき、女の下着姿に化粧をしたぼくを見たらどう思うか。想像するだけでつめたい汗がふきだす。
こんなやつに、
こんなやつに捕まってたまるか。
ぼくは花壇の土を握り、小山田にむかって投げつけた。
小山田が怯んだ隙をつき、ぼくは奇声をあげて彼を突き飛ばし、全速力で校門へ走った。門扉にしがみつき、死に物狂いでそれを乗り越え、学校の外へ飛び出す。
背中に小山田の気配はない。しかし速度をゆるめず走り続けた。
あちこち怪我しているらしく全身が痛い。涙があふれる。
激しく息切れをしながら、涙と鼻水とよだれを垂れ流し、化粧はどろどろに溶け、ぼくは嗚咽していた。嗚咽しながら、美甘さんの下着をつけただけの格好で、真夜中の住宅街を疾走した。
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