春の終わり

 廃墟で過ごした春休みがおわり、始業式の日を迎えた。

 昇降口の壁のまえには人集りができている。そこに各クラスの名簿が貼り出されていた。それをみて自分がどのクラスに所属するのかを確認する。

 ぼくは三年一組だった。前年とおなじく担任は加賀善明先生。

 さらに羅列する氏名に視線を走らせる。すぐにその名前をみつけると、ほっと安堵した。

 美甘優もおなじクラスだった。

 思わず頬が綻んでしまい、ぼくは口元を押さえた。

 だけど、そんな嬉しさもすぐに萎んでしまう。

 小山田慧のなまえを見つけたからだ。最悪なことに飯島健吾と平岡亘までいっしょだ。さらには水谷紗希子のなまえもあって、これでは二年生のときと変わりばえない。

 本格的に学校生活が始まると、案の定、小山田たちの嫌がらせも再開した。

 小山田からお金を奪われることはなくなったが、飯島と平岡が彼に便乗しだし、ぼくのつくえに要らなくなったガラクタを叩きつけては、「千円」「二千円」などと短く金額を言い放ち、お金を強請りはじめた。最終的には噛んでいたチューインガムをつくえに吐きつけ、「それ、新発売のガムだから、おまえにやる。千円」などと下卑た笑みを浮かべて催促してきた。

 拒否すると、以前母親のお弁当を便所に捨てられたように、ぼくの持ち物に手を出してくる。教科書を窓から放り投げ、つくえに墨汁を垂れ流し、給食のスープに木工用ボンドを溶かし、うわばきの中にびっしり石と土を詰め込んだ。

 それに飽くとぼくを直接暴行する。なんの前触れもなく、とうとつに平手打ちをされるのだ。たとえば廊下を歩いていたり、休み時間、座席でぼんやりしていたりすると、すれ違いざまに思い切り頬を張られ、また後頭部を殴られる。そしてその後なにかあるわけでもなく、そのまま無言で歩き去る。あるいは友人と楽しげに会話をはじめる。とにかく、何事もなかったかのように装うのだった。その行為によって醸し出される不条理的な空気が、小山田たちにとってはたまらなく可笑しいようである。

 なにより愕然としたのは、このような光景をクラスメイトのほとんどが目の当たりにしているはずなのに、誰もがもれなく無関心であるということだ。それどころか笑いがおこる場面すらあった。

 貯金してきたおこづかいやお年玉を切り崩して払ってきたが、もともとたいした額じゃない。すぐに底をついてしまった。だからといって、平岡と飯島のたかりは収まらない。

「なんとかして持って来いよ、カス!」

 その日、帰宅すると、ぼくはこっそり母親の財布から紙幣を抜き取った。彼女の財布はいつも電話台の上段の抽斗に入っている。パートには財布を持っていかないので、そこに入れっぱなしにしたままなのだ。

 翌日、盗んできたお金を飯島に渡した。もう、どうでもいい。それより母親の財布からお金を抜き取ったことの後ろめたさや、それが彼女にばれないか、そっちのほうが不安でたまらなかった。激しい罪悪感に襲われる。

「その金さ、どうしたの」

 あるとき、小山田がそう訊ねてきた。

「まさか、親の金くすねてきてんの?」

 ぼくはなにもこたえられず黙り込む。

「まったく、ひとの金を盗むなんて、きみはほんとうに最低のクソ虫だな」

 その言葉におもわず顔を上げる。「それは――」

 ひとのお金を盗んでいるのは、きみたちじゃないか。そう反論しようとして、

「いっておくけど」と遮られた。

「おれらはきみに物を譲るかわりに金を貰ってるわけで、一方的にきみから金をとってるわけじゃないよ? だけどきみは親から一方的に金を奪ってるわけだよね?」

 俯いていると、彼はおおげさに溜め息をついた。

「きみみたいなやつって、なんで生きてんの?」

 心の底から疑問におもうように小山田は首を傾げる。「はやく死んだら?」

 自分の存在を軽率に踏みにじられるたび、ぼくを覆っていたものが一枚、また一枚と剥がされていくようだった。いや、もとから剥がされるべきものなどなかったのかもしれない。

 そんな惨めな日々のなかで、サナトリウムだけが安らげる場所だった。

 だけど、春休みのように毎日は行くことができない。そんな数少ない訪問なのに、美甘優の姿がないと、どうしようもなく落胆する。以前述べたように、彼女と約束して廃墟に行くわけではないので、到着するまで彼女が来ているのかわからないのだ。美甘さんといっしょにいたところで、なにがあるわけでもない。会話だってほとんどしないのだけど、それでもぼくは、美甘さんとあの場所で過ごすだけでとにかく心が癒やされた。吐き気を催すほどの出来事から目をそらすことができたのだ。

 どうにも堪えられなくなって、ぼくは思い切って美甘さんに声をかけてみた。昼休み、東階段の踊り場でぐうぜん見かけたときだ。

「あっ、美甘さん」

 彼女は立ち止まり、こちらに視線を向けた。

「あ、あのさ、つぎの日曜日はサナトリウムに行くの?」

 学校では彼女と会話することはほとんどない。同じクラスになれたとはいえ、座席が離れてしまったので尚更だ。

「どうして」と、彼女は素っ気なくいった。

「どうしてっていうか……」

 ぼくは口ごもる。いっしょに行こうと誘うことができればいいのだが、なんだかそれではデートに誘っているみたいでどうにも躊躇われる。

「……わ、悪い奴をさがさなくていいのかなっておもって」

 しどろもどろのぼくを、美甘さんは冷めた表情でみつめている。

 つかのま、なにかを思案したあと、

「じゃあ、いく」と美甘さんはこたえた。

 美甘さんが立ち去ったあと、安堵すると同時にくちびるが緩んだ。はにかみながら顔をあげると、すぐそばに小山田慧が立っていた。

 真っ昼間にゆうれいを目撃したように、おもわず悲鳴を上げそうになった。

「きみ、あの子と仲がいいの?」

 興味深そうに目を細める。

 ぼくは金縛りにあったみたいに身動きができない。背筋が冷たく、血の気が引くような感覚。

「なに、サナトリウムって?」

 ぼくは彼をふりきるように階段を駆け下りた。

 人混みの廊下を走りながら、額につめたい汗が滲む。


 桜の花びらはすべて散り落ち、まばゆいくらいに新緑が芽吹いている。

 さざ波のような葉擦れの音。初夏の風に吹かれて揺れ動く木々の姿は、おおきな毛深い動物を連想させた。身体についた埃を払うように身震いしているみたいだった。

 結論からいうと、日曜日に美甘優はサナトリウムに姿をあらわさなかった。

 翌日、彼女は学校を欠席した。風邪をひいてしまったらしい。

 そのせいで、サナトリウムに来ることができなかったのかもしれない。

「だれか美甘にプリントを届けてくれるもの」

 帰りのホームルームで加賀善明先生はみんなに呼びかけたが、誰ひとり手をあげなかった。学校にやって来るようになってから学年が変わっても、美甘さんはクラスメイトとほとんど交流していない。あたりまえといえばあたりまえなのだろう。

 だったらぼくが届けよう。そうおもって手を上げた。

 明け方から降り出した雨は止む気配がない。どんよりした午後だった。さらさらとした雨に風景がけぶっている。信号機の青が濡れたアスファルトにうるみ、雨を浴びた夏草がふるえていた。

 先生に教えられたとおり、いくつかの角を曲がり、いくつかの横断歩道をわたった。そうして閑静な住宅街までやってきた。

 美甘優の家は、青色の屋根の落ち着いた雰囲気の二階建て住宅だった。

『美甘』の表札を確認し、呼び鈴を鳴らした。

 しばらくたっても応答がなく、もう一度呼び鈴を押してみる。

 ようやくインターホン越しに返答があった。美甘さん本人の声にも、彼女の母親らしき女性の声にもきこえた。

「あの、優さんの同級生の市川といいます。学校のプリントを届けにきました」

 返答もなくがちゃりとマイクが切れる音がした。

 ほどなくして、ドアがひらいた。

 母親が出てくると思いきや、美甘優本人が顔を出した。淡いパステルカラーのパジャマを着ている。そんな服装だからか、いつもよりずっと幼くみえた。

「美甘さん」

 ぼくはクリアファイルに収まったプリントを鞄から取り出した。「これ、届けにきたんだ」

 美甘さんは無言でプリントを受け取る。寝起きなのか長い髪の毛がぼさぼさに乱れている。

「……だいじょうぶ?」

 こくりと頷いたけど、まだ体調が優れないのだろう、目がすこしうつろだ。

「それとこれ、おれからなんだけどさ」と、四個入りのエンゼルパイと、さっきコンビニで買ってきたミルクティーを差し出す。

「あ、あの、はやく元気になってね」

 ぎこちない笑みを浮かべてみせる。美甘さんに指摘されるまでもなく、さぞ気持ちの悪い笑顔だろう。

 しかし彼女はいつものように悪たれ口をたたくわけでもなく、無言でそれを受け取ってくれた。そうしてちょっとまぶしそうな表情でこちらをみつめる。

「それじゃ……、おだいじにね」

 そういってその場を去ろうとしたとき、

「あがってけば?」

 不意に、美甘さんが短くいった。

「え」と振り返ると、彼女はドアから手を離し、奥へ引っ込んだ。

 バタンと閉じられたドアの前で、ぼくはまばたきした。

 おどおどドアノブをつかみ、「あのう……」とドアを薄く開ける。

「濡れた傘は中いれないで。外にかけておいて」

 あ、はい、とぼくは言われたとおりにした。なんだか挙動不審になってしまう。

「あの、いいの?」

「報告したいことあるから」

「ほうこく?」

 彼女はなにもこたえず、背中を向けた。

「お、おじゃまします」

 曇天のせいか家の中は薄暗く、すこし湿気っぽい。どうやら家族は留守らしい。台所と洗面所のまえを横切り、仄暗い階段を上っていく。一歩踏み出すごとに黒々とした板が軋んだ。

 彼女の自室へとおされる。

 整理整頓された清潔感のある部屋。カーテンの色や家具、小物から女の子らしさを感じるものが少なく、なぜか陰鬱とした気配がかすかに漂っている。そしてそれがどこからくるものなのか判断できない。ここはサナトリウムの廃墟とおなじ空気がながれている。

 ぼくは手持ち無沙汰で、とりあえず部屋の隅に体育座りした。

 美甘さんはベッドを背もたれに座卓の前に座っている。座卓にはガラスの小さなボウルがのっていた。透明な蜜に浸った黄桃。缶詰の桃のようだ。

 美甘さんは素手で桃のかけらをつかみ、それを頬張った。真っ白な前歯が果肉に沈み、ぽってりしたくちびるに包まれる。みずみずしい果汁があふれ、顎をつたって滴り落ちた。口の中で唾液と桃の混ざる密やかな音が静かな部屋に響く。咀嚼した桃を飲み込むと、薄ピンク色の舌が蜜に濡れた細い指先を舐めた。

 よくわからないけど胸がどきどきして下腹部がうずいた。なにか見てはいけない光景のような気がして、おもわず目を逸らす。

「美甘さん、今日ひとりなの? おかあさんは?」

「死んじゃった」

 ぼくは苦笑した。またなにかの冗談なのかとおもったから。

 しかし、彼女は笑わない。

 雨の音にまぎれてサイレンがきこえる。

 消防車のようだ。次第にその数が増え、サイレンが何重にもかさなって滲むように響きはじめた。音の大きさからして火事はこの近所かもしれない。

 ぼくは腰を上げて、窓辺に立った。曇りガラスの窓と網戸を開け、外の様子をうかがってみる。

 やっぱり、すぐちかくの民家が燃えているようだ。隣家の屋根のむこうに、もくもくと鼠色の煙が雨空へ立ちのぼっているのがみえる。

「美甘さん、なんか火事みたいだよ」

 ぼくはふりかえった。

 彼女はそっぽを向いたままぼんやりしている。

 炎の気配を纏った煙は、雨粒を飲み込むようにして勢いよく空へ上がっている。消火活動が始まったのか、おおぜいの男の掛け声がきこえてきた。かすかに焦げ臭いがにおいがする。こっちまで燃え移ってはこないだろうかと、すこし心配になってくる。

 窓を閉めて元の位置に戻った。それからぼくは、

「おれのおかあさんも死んじゃった」といった。

 美甘さんがこちらを向く。

 いっしょだね、とぼくは微笑んでみせた。が、すぐに不謹慎だとおもい、表情をひきしめる。

「おれが六歳のときに自殺したんだ、おれのおかあさん」

 母親は寝室のドアノブにタオルをかけ、それで首を括ったらしい。ぼくが保育園の遠足に出掛けていた昼間のことだった。その日の迎えには父方の祖母がやってきて、ぼくは自宅には戻らず、隣県にある祖母の家に向かった。そのまま祖母の家に泊まり、翌日の朝に父親がやってくると、そこで母親が交通事故に遭ったと聞かされた。

 だけどじつは事故ではなかったと、自殺だったと、それから何年もしたあとに知った。

 そこまで話して、ぼくはついと口を噤んだ。どうしてこんなことを美甘さんに語っているのだろうと思ったのだ。とつぜんぽっかり空いた落とし穴みたいに黙り込んでしまう。

「あの、ごめん」と、ぼくはいった。「体調悪いのにこんな暗い話して」

「……べつに」

 美甘さんはぼくの存在などないかのように、そそくさとベッドの中にもぐりこんだ。

「おかあさん死んじゃって、かなしい?」

 うん、とぼくは頷いた。

「でも、よくわからない。たまに、ホントはまだどこかで生きてるんじゃないかって思うときがある。かなしいんだけど、本当の意味で、なんだろう、実感がないんだ」

 まるで永遠の予告編みたいに。それは宙に浮かんだまま、ずっと曖昧にそこにある。そしてときどき、なにかの拍子に気まぐれみたいに現実味を帯びる。

「そう」と、美甘さんは息を吐いた。

「でも今のおかあさんがすごくいいひとだから、おかげでだいぶ落ち着いてきた」

 宙に漂っていたそれが、おだやかに着陸する準備を整えている。そんな気配みたいなものを感じられるようになった。

「あたしは母親を殺しちゃった。あの鉄砲で」

「え?」

「あたしの母親は悪い奴だから射殺したの」

 それが秘密結社の規則でしょ? と、抑揚のない声で彼女はいった。

 本気なのか冗談なのか判断できない口調だった。

「廃墟にさ、桜の木があるでしょ? そのちかくに埋めてきた。死体を。そしたらもうすごい疲れちゃって。だから学校休んだ」

 美甘さんは寝返りをうち、こちらに背中を向けた。

「え、それって……」

「報告したいことはそれ。以上」

 ぼくは置き去りにされたように、部屋の隅で言葉を失う。

「……冗談でしょ?」

 問いかけたが、彼女に反応はない。

 いつのまにか消防車のサイレンも外の騒ぎもきこえなくなっていた。鎮火したのだろうか。

 やがて雨音が遠ざかってゆくと、美甘さんの肩が静かに上下しはじめた。

 ぼくはしばらく部屋の隅で、その微かな寝息を聞いていた。


 彼女を起こさぬよう静かに立ち上がると、ぼくはそっと部屋を出る。その際、ふと勉強机に視線が向いた。そこには写真立てが飾られていた。幼い頃の美甘さんだろう、どこかのファミレスのテーブルをまえに撮られた写真。母親と父親のあいだにちょこんと座り、どこか緊張したような面持ちだった。

 薄暗い階段を慎重に下り、一階の廊下をわたる。その途中で、何気なく洗面所に視線がいった。

 洗面台のとなりには洗濯機が据えられ、小窓から薄陽がこぼれている。奥に浴室への中折れドアがみえる。脱衣所だ。

 目がとまったのは、洗濯機のまえに置かれた白いプラスチック製の籠だった。中には洗濯物が入っている。おそらく、洗濯前のものが。

 周囲に人気がないのを確認すると、ぼくは脱衣所に足を踏み入れた。籠のまえに屈み込む。

 心臓は早鐘を打ち、手は微かにふるえている。ふるえる手で籠の中を漁る。

 シャツやズボン、タオルをかき分け、まずはワンピースをみつける。以前、彼女が身につけているのを見たことがある。さらに籠を漁り、ついに目的のものに指先が触れた。

 ブラジャーだ。さらに白いパンティも。どちらも幼いデザインでおとなの女性が身につけるようなものではない。美甘さんの下着に違いない。

 ねじれたパンティをひろげ、ゆっくりと鼻先に近づける。そのとき、不意に気配を感じて背後をふりかえる。が、誰もいない。

 ぼくはすばやくブラジャーとパンティ、そしてワンピースをスクールバッグに押し込み、脱衣所から出た。

 玄関で靴を履いていると、不意に、鍵の差し込まれる音がした。

 ドアがひらく。

 スーパーの袋を下げた女性が入ってきた。鉢合わせにおたがいに驚く。

 彼女の母親だった。やはりさきほどの美甘さんの話は、たちの悪い冗談だったようだ。

 ぼくはしどろもどろに美甘さんのお見舞いへ来た経緯をせつめいした。

「そうなの。ありがとうね」と、彼女はやわらかく微笑んだ。どうみても「悪い奴」になんてみえない。

「おじゃましました」

 むしろ「悪い奴」はぼくの方だ。後ろめたさに目を合わせることができない。俯きながら会釈し、そそくさと美甘さんの自宅を後にした。

 小雨の中を傘もささず、水たまりを蹴散らしながら、ぼくは全力で駆けた。

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