桜の雨と涙
廃墟の内部に存在していると、不思議と心が静まってゆくようなやわらかい感覚があった。はじめて建物の外観をみたときは、あんなに不気味に感じたのに。夜になって廃墟がほんとうの姿を現せば、また感想も変わったのかもしれない。だけど、太陽の下での廃墟は森の一部だった。海を眺めて暮らす老人のような穏やかさで、ただそこに佇んでいるだけだった。
その日、ぼくは三階の小部屋にいた。家具のない旅館の客室みたいな部屋だった。
奥の狭小な板の間に立って窓の外を眺めてみるが、すぐそばに木々が生い茂り風景を遮っている。さながら緑のカーテンだ。部屋全体に射し込む光と影が、まるで縞馬の模様みたいにゆれている。
ふと視線を横に向けると、一見では見逃してしまいそうな場所にとびらがあった。
そっと、とびらをあけてみる。
浴室だった。
ちょっと古くさく、浴槽も床もおはじきのようなタイル張り。もう何年も使われておらず朽ち果てている。それなのに水の気配が漂っているのが不思議だった。
とびらを開けた瞬間、ひょいとなにかがバスタブの中に隠れたのを、ぼくは見逃さなかった。
からっぽの浴槽をそっとのぞき込む。
そこには底に沈むように寝そべった美甘優のからだがあった。顔の上にはひらかれた文庫本がのっている。
ぼくは遠慮がちに口をひらく。
「……美甘さん」
返事がない。
うまく隠れているつもりだろうか。
「美甘さん、な、なにしてるの」
一呼吸あってから、彼女は文庫本から顔半分を出した。まぶしそうに目を細める。
「おふろ入ってんの」
どこか得意げな表情。
ぼくは一呼吸置いて、
「お湯、ないけど……」といってみた。
「バカにはみえないお湯なの」
気の利いた言葉も思い浮かばず沈黙する。そんなぼくをつまらなそうに一瞥したあと、彼女は顔にのせていた本を読みはじめた。
小窓から陽のひかりが射し込み、彼女の白いふとももに落ちていた。外から風の音と小鳥のさえずりがきこえる。
ぼくは浴室の隅に腰を落とし、ひと休みすることにした。読書する美甘さんの横顔を密かにみつめる。
風にゆれる木々のざわめきが、まるで海鳴りのようだった。
雲の群れが空の彼方に吸い込まれるように猛スピードで流れている。雲が太陽をかすめるたび、あたりは薄暗くなり、また明るくなって、そして暗くなった。
なんて穏やかな時間だろう。心からそう思った。小山田たちから嫌がらせを受けていた学校生活が、まるで遠いむかしのできごとのようだ。彼らだけではない、あの場所にいると、こころを磨り減らされることがたくさん起きる。
このままずっと春休みが続けばいいのに。
「ねえ、市川くん。いまお金いくらある?」
美甘さんが本を読みながら訊いてきた。
「どうして?」
「いいから」
「千円ちょっとくらい……」
美甘さんは文庫本を閉じて立ち上がると、「いくよ」と浴槽から出た。
こうしてサナトリウムに集合したあとは、きまって「悪い奴」をさがして街を彷徨い歩き、街角の花壇に座って、流れてゆくひとの波を監視した。
だけど今日はいつもとは違った。電車に乗ったのだ。
どこへいくのだろう。おそらく訊ねても教えてくれないだろうから、ぼくは黙っていることにした。
人のまばらな車内に陽光がたっぷりと射し込み、美甘さんの黒目が鳶色に透けていた。いつにもまして彼女は無口だった。遠い目をして流れる景色をみつめている。
電車が鉄橋へさしかかった。ゴウゴウと車輪の音が反響する。
川のながれは白くきらきらと輝き、土手沿いの並木道には桜が満開に咲いていた。その桜が空まで溶け出して、まるで甘いいちご牛乳のように染まっていた。
ぼくらはとある駅で降りた。昭和の雰囲気を残すアーケード商店街を抜け、静かな住宅街を歩いた。
美甘さんの足取りは、目的地を目指すように確かなときもあれば、不意に迷子になったようにあやふやなときもある。今日は拳銃をポシェットのなかにしまっているのか、あからさまにそれを手にしていない。
アスファルトのうえを桜の花びらがすべっている。桜の木はみえないのに、その花びらは街角のいたるところで舞っていた。
美甘さんの髪の毛にも。
ぼくは彼女の髪に絡まった花びらをそっと摘んだ。彼女はそれに気づいていない。ぼくはその花びらをズボンのポケットへしまった。
美甘さんがぴたりと足を止めた。
視線の先には、住宅街にぽっかり空いた駐車場がある。どこにでもあるような月極駐車場だ。
「どうかした?」
ぼくは訊ねたが返事はない。彼女はじっと立ち尽くしている。そうしてしばらく駐車場を眺めていた。
不意に、止まっている車の下から野良猫が這い出てきた。猫はとことここちらへ歩いてきて、美甘さんのまわりをくるりと一周すると、彼女の足元に座った。
結局、というか当然、そう簡単に悪い奴なんてみつかるはずもなく、ぼくらはなんの手柄もないままサナトリウムまで戻ってきた。
歩き疲れたのだろう、美甘さんは広間のソファに横になり、いつしか眠りについてしまったようだ。
ローテーブルの上には拳銃が置かれている。
ぼくはそれをそっと手にしてみた。ずっしりとした重厚な感触。いっけん作り物のようにもみえるが、れっきとした拳銃だ。これがあれば、どんな人間もかんたんに死に至らしめることができる。
ぼくは宙に向けて拳銃を構えてみた。
悪い奴を射殺する。そう美甘さんはいった。
悪いやつとはいったいどの程度の悪人のことだろうか。
良心が欠如し、ひとの痛みがわからない。だから、平然と人を傷つける――
先日、図書館で読んだ本の内容とともに、小山田慧の顔が脳裏にうかぶ。飯島健吾に平岡亘の顔も。
あいつらはどうだろう? あいつらは「悪い奴」だろうか?
もしこの銃口を彼らに向けたら、いったいどんな反応をするだろう。そのことを想像すると、銃から怒りのような滾りが指先を伝って全身に駆け巡った。
その衝動が恐ろしくなって、ぼくはあわてて銃から手を離す。その瞬間、熱い滾りはあとかたもなく霧散した。まるで最初から存在しなかったように。
窓の外に視線をやり、息を整えるように風景を眺めた。
散りゆく桜の行方をしばらくみつめる。
それから、すっかり眠ってしまった美甘さんの寝顔に視線を移した。
まさか彼女も本気で誰かにむけて拳銃を発砲するつもりはないのだろう。これは刺激的なごっこ遊びなのだ。なにを考えているのかよくつかめない不思議な女の子だけど、それだけはわかるような気がする。
安らかな寝息をたて、まるで赤ちゃんみたいに親指をくちびるにくわえている。にきびの浮いたぼくとは違い、きめ細かでまっしろな肌。目じりとほっぺたのほかに、顎にも薄くてちいさなほくろをみつけた。
眠っているのをいいことにじっくりその顔を眺めていると、不意になにやら寝言がもれた。
――おかあさん。
やわらかな微笑みが浮かぶ。
よっぽどたのしい夢をみているのか、しあわせそうな表情だ。
しかし、出し抜けに睫毛が濡れはじめて、ぼくは息を飲んだ。それはたちまちあふれて頬をつたい落ちる。蜜のようなしずくは音もなく襟元に染み込んだ。
彼女のくちびるがなにかをつぶやく。
同時に窓から突風が吹きこむ。
ぼろきれのようなカーテンが乱暴にひるがえり、無数の桜の花びらが広間に舞い込んだ。
桜の雨。
美甘さんのまぶたがゆっくりとひらいた。
みだれた髪の毛を押さえ、微睡んだ視線を窓へ向ける。桜吹雪につつまれて、まぶしそうに目をほそめた。
頬に涙の跡が光っていた。
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