秘密結社
その日から、春休み中ほぼ毎日のように廃墟のサナトリウムに訪れるようになった。とくに美甘さんと約束をして行くわけではないので、サナトリウムに彼女がいないときもあった。そんなときは広間のソファに座ってぼんやりと時間をつぶした。たとえ彼女がいてもほんのすこし言葉をかわすだけで、ひとりのときとさほど変わりはない。とはいえ、とりたてて気詰まりではなかった。むしろ孤独を共有しているようで不思議と心地がいい。
美甘優の声は、吐息まじりの密やかな響きを孕んでいた。世界のひみつをぼくだけにそっと耳打ちするような、ささやかな音色。それはとても耳に心地よく、鼓膜を甘くふるわせた。
ぼくたちは三階の広間を秘密結社の本部にすることにした。それにあたって、広間の大掃除をした。壊れた家具やガラクタをかたづけ、蜘蛛の巣を払い、床を箒で掃き、サナトリウムの各部屋から比較的きれいで使えそうなテーブルとソファを見つけ出して広間に搬入し、埃と汚れを水拭きした。といっても美甘さんはえらそうに指示するだけで、ほとんどの作業はぼくが行った。そもそも彼女がこの場所にぼくを連れてきたのは、下僕一号としてこういった作業をさせるためだったようだ。
だけど、そのことを不満には思わない。小学生のときのように自分だけの秘密基地をつくっているみたいで、ぼくはけっこう楽しんでいた。実際、雑誌にまんがに携帯ゲーム機と、ぼくはいろいろと私物を持ち込んでいたし、それにたいして彼女もとりたてて文句をいわなかった。
一週間を費やした大掃除が終わると、美甘さんは手作りのマフィンを持ってきてくれた。いや、当然ぼくのぶんはなかったけれど、スコーンのときのように懇願させられたうえで食べることができた。ちょうどいい甘さでとても美味しかった。
ともあれ、そんなふうにしてぼくらは廃墟の広間は居心地よくリフォームした。
その日もぼくはひとり、山道を歩き、短いトンネルをくぐって、破れたフェンスの下をもぐった。
サナトリウムの三階の広間までやってきたが、美甘さんの姿は見当たらない。今日は来ていないのかとおもったが、テーブルセットのソファの上に、彼女の赤いポシェットが置いてある。きっと建物内のどこかにいるのだろう。館内の散歩ついでに美甘さんをみつけてみようと、ぼくは広間を出た。
彼女を発見したのは、四階の小部屋だった。
やわらかい水色の壁紙に、床には枯れ葉色の絨毯が敷き詰められ、上げ下げ窓から中庭が見下ろせる。部屋の隅にはセミダブルのベッドが据えられていた。ふとんもカバーも剥がされていて、スプリングマットだけのベッド。廃墟の中でも比較的きれいな部屋だった。
彼女はベッドのまんなかでうつぶせに寝転んでいた。右手には例の拳銃がにぎられている。
いったいなにをやっているのだろうと疑問を抱くよりさきに、なぜかぼくは、彼女が死んでいるのではないかとひどく動揺した。廃墟の退廃的な雰囲気とあいまって、まるで拳銃自殺した少女の現場写真みたいな光景だったからだ。急いで彼女に駆け寄り、身体をゆさぶった。
美甘さんのまぶたがゆっくりひらく。
彼女は起き上がらず、どこか惚けたような表情でじっとしていた。マットにつけたマシュマロみたいな頬がつぶれていて、くちびるの端によだれが光っている。
ふと、彼女がなにかつぶやいた。
「え?」
「……触んないでよ、エッチ」
「あっ、ごめん!」と、ぼくはあわてて手を引っ込めた。
沈黙がおとずれる。
中庭が青くけぶっている。
その日は朝からやわらかな霧雨が降っていた。草木に雨がしみ込み密やかに土を溶かしている。さらさらとした密やかな音が廃墟内にも響いていた。
「やっぱり、まだ持ってたんだ」
あたりまえじゃん、と美甘さんは手にした拳銃をかざす。
「秘密結社の必需品なんだから」
寝返りをうって仰向けになると、繁々と拳銃を点検する。プレゼントのおもちゃをもてあそぶ子供みたいだ。
そのとき、拳銃のグリップからなにかが彼女のおなかに滑り落ちた。どこかのレバーかボタンかを押してしまったのだろう、弾倉が飛び出してきたのだ。
彼女はなにが起きたのかわからない様子で、おどろいた顔をしている。なので、ぼくはからかってみるつもりで、「あ、壊した」といってみた。
美甘さんは上半身を起こすと、
「えっ、こ、こわしてないよ!」
めずらしく動揺した表情をみせる。
その反応に満足したぼくは、茶化しすぎて殴られるまえに、それは銃のマガジンではないかということを指摘した。
美甘さんはベッドの上に女の子座りし、マガジンから銃弾を抜き取ると、それを手元にひとつひとつ規則正しくならべた。まるでたいせつな宝物を飾るように。
鈍い金色の装甲に、まるみを帯びた先端は赤銅色。口紅みたいだ。
「どうして美甘さんは、悪い奴をやっつけたいの?」
「人助けだよ。せっかくこんな武器を拾ったんだから、世の中のために役立てなくちゃ。てか、役に立てなさいっていう神さまとかのお告げだよ」
そういってから、彼女は窓の外へ視線を向けた。
中庭の満開のさくらが霧雨になびいて薄紅色に滲んでいる。雨といっしょに花びらが涙のように落ちていた。
「でもさ、悪い奴ってたとえばどんなやつ?」
すると彼女はすかさず、
「女子便のぞくような、脳みそ精子まみれのど変態クソ野郎だよ!」と、ぼくをにらみつける。
「ごめん……」
「そういうふうに、市川くんみたいな悪い奴に困らされてる、あたしみたいな可哀想な人を助けるの。のぞき魔とか泥棒とか、あと殺人犯とか。そういうのを鉄砲でやっつけるの」
そう言いながら、美甘さんは手のなかの拳銃を弄ぶ。
「それって、どういう銃なんだろ?」
ぼくはいった。
美甘さんは顔をあげると、小首をかしげた。
「なんて名前なのかとかさ、威力はどのぐらいだとかさ」
「どうでもよくない? そんなの」
「でもホントに米軍の銃なのかとか気になるし。じつは米軍のじゃなくて、ヤクザとかが落としたヤバい銃だったらどうする?」
「そんなわけないじゃん」
「なんでそんなことわかんの」
彼女はいっしゅん沈黙したあと、
「だってわかるもん……」と歯切れ悪くいった。
ぼくはソファから立ち上がる。「悪い奴さがしのついでに、ちょっと調べてみようよ」
「しらべるって、どうすんのさ」
「んーと、なんか専門書とか読んでみよう」
「えー、めんどくさーい」
傘を差した美甘さんは、道路のひび割れた白線の上を歩いたり、歩道の縁を平均台のごとく渡ったり、拳銃は隠しもせず手にしたままだった。まさかそれが本物だとは思いもしないのだろう、すれ違う人々はだれも見咎めない。だけど、正真正銘の拳銃だと知っているぼくは気が気じゃなかった。
「ねえ、それ、しまったほうがいいんじゃない?」
なんで? と、ほんとうに理解ができないという表情で美甘さんは首をかしげた。
「だってさ……」
「悪い奴みつけたらそっこーバーン! だよ」
彼女はぼくに銃口を向け、「バーン!」と叫んだ。
「あ、あぶないからやめてよ……」
ぼくはおもわず仰け反った。
スーパーマーケットや薬局、果てはパチンコの店内を徘徊し、市井の人々を厳重に監視した。
とはいえ『悪い奴』といっても、そんな奴はそうそう見当たらない。街は平和そのものだった。
いつしか雨も止んで、雲の切れ間から淡い陽射しがこぼれる。
だけど美甘さんは傘をひろげたままだった。どこかたのしげに柄をもてあそび、くるくると回転させている。みずいろの傘は、シンプルだけどそこはかとなく上品さが漂っていた。
「銀行強盗でもしちゃおっか?」
商店街の地方銀行のまえを通ったときだった。彼女はそういった。
「なにいってんの、それじゃおれたちが悪い奴になっちゃうじゃん」
「じゃあさ、市川くんが銀行強盗してきてよ。それであたしが颯爽とあらわれて、強盗犯の市川くんを鉄砲でやっつけるの」
「えっ、それで?」
「あたしはみんなからヒーローとして感謝されるの」
「おれは?」
「……被疑者死亡のまま書類送検?」
「おれ、死ぬの?」
そういうと、彼女は「ふふふ」と笑った。
「ねえねえ、銀行強盗して三億円てにいれたらどうしよっか?」
なぜ三億という数字なのかわからないが、あえて口には出さなかった。
「うーん、CDとかゲーム機とか買いたいかな……」
林原めぐみとか椎名へきるとか、あとマリ姉こと国府田マリ子のアルバム。セガサターン本体に『パンツァードラグーン』などソフトを何本か。あとは野田芳樹のように絵を描いたりエロゲームをやったりしたいから、パソコンも欲しい。
あーあ、つまんないっ! と美甘さんは吐き捨てた。
「なにそれ。もっと面白い使い道おもいつかないわけ? ホントばかなんだから。だから市川くんはキモいんだよ」
「ごめん」と、ぼくは苦笑した。
「じゃあ、美甘さんはなにするの? 三億円あったら」
彼女はハッとした。
目を泳がせ、なにか考えている。けっこう真剣な表情だ。
そして、やっと出てきたこたえが、
「……エンゼルパイとか」
ちょっと恥ずかしそうにぽつりとつぶやいた。
ぼくはおもわず吹き出してしまった。三億円もあるのにお菓子とか、ぼくの答えよりつまらないじゃないか。
「なにがおかしいの?」
彼女はぼくのおでこに銃口を突きつけた。
「ごめん、ごめん」
ぼくは両手を上げるが笑いが消せない。
「このまま殺してあげようか?」
物騒な言葉とはうらはらに、美甘さんの顔がすこし赤らんでいるような気がする。
「いたいっ!」
どうしてもニヤついてしまい、脛をおもいきり蹴飛ばされた。
商店街を抜けて、郊外へやってきた。
市民会館沿いのケヤキの木の下、ゆるやかな坂道をくだる。
坂を下りきると、朱色の煉瓦造りの建物にぶつかる。市立図書館だ。
人のまばらな館内は静寂に満ちている。カウンターでは司書が息を潜めるようにして作業をし、来館者はまるで眠っているみたいな手つきで本のページをめくっていた。おおきな窓からは庭の緑がこぼれている。
背の高い書架の合間を歩く。足音を吸い込むかための絨毯の感触が心地いい。
『世界の軍用銃』、『世界の兵器図鑑』など……、ぼくはてきとうに何冊か見繕い、それをかかえて空いている座席に座った。拾ってきた拳銃の特徴を手がかりに図鑑をしらべる。そのよこでは美甘さんが我関せずというようにお菓子作りの本を眺めていた。
なんだか学校の教室にいるみたいだった。彼女とはとなりの席だったけど、三年生になればクラス替えだ。座席どころかクラスも別々になってしまうかもしれない。
そんなことを考えながら、図鑑のページをめくる。はたして、それは見つかった。
『ベレッタM92F』
おそらく、これだ。
世界中の軍隊や警察で使用されているイタリア製の自動拳銃らしい。九ミリ口径。装弾数十五発。反動が少なくて扱いやすい凡庸性の高い拳銃だという。アメリカ軍でも制式採用されている。一方、日本の警察では『ニューナンブ』という銃身の短い回転式の拳銃を使用しているらしい。自衛隊が所持しているものも、ベレッタとは別の九ミリ拳銃だった。
ということはやはり美甘さんのそれは、在日米軍の兵士が紛失した拳銃で間違いないということか。
「……やっぱ返してきたほうがいいんじゃないかな」
ぼくは怖じ気づいて提案したが、美甘さんはきこえないふりだ。図鑑を手に取り、ぱらぱらとめくりだす
「ねえ、市川くん。あたし、こっちのがいい」
美甘さんはあるページを指さした。そこには物々しい散弾銃の写真がいくつも載っている。『バイオハザード』でも登場するショットガンみたいだ。ゲームではゾンビの頭を一発で吹き飛ばせるほど強力な武器である。
「こっちのが撃ってみたい」
「こんなの訓練してなきゃ撃てないでしょ。反動がものすごいよ、たぶん。美甘さんじゃ怪我しちゃうって」
だいたい美甘さんみたいな華奢な身体では、いま所持しているベレッタだって手に余るのではないか。
「あー、なにー? あたしのことばかにしてんの? 市川くんのくせに!」
図らずも彼女の声がおおきくて、近くの席で本を読んでいた男性がつと顔を上げた。
「静かに」と、ぼくはおもわず口に人差し指をあてた。
「……は? あたしに指図すんじゃねえよ」
彼女は小声で肩をすくめ、ぼくの二の腕を殴った。
それから、図鑑のうえにお菓子作りの本を載せ、「はい、かたづけてきて」と命令する。ぼくは従順に数冊の本を手に席を立った。
図鑑を元あった場所に戻すと、ついでにほかの書架も巡ってみた。ひさしぶりに図書館へやってきて、なんだか新鮮な気分だった。様々な本が並んでいてなかなか興味深い。
心理学の書籍を扱う棚を眺めていたときだ。とある本に目が留まった。
『ひとの痛みが理解できないひと』――
ぼくはその本を棚から抜き取り、ひらいてみた。
ひとの痛みがわからない人間の特徴は、良心が著しく欠如していて、思いやりがない。そもそも他人の情緒にまったく関心がない。しかし、表面的には魅力的で口達者だから、多くの人々からは好感をもたれる。そういう性質の人間を俗に『サイコパス』と呼ぶらしい。彼らは、自分の欲求のためなら他人のことなど顧みず、言葉巧みに、あるいは、直接的な暴力を行使して、相手を支配しようとする。
読めば読むほど、それは小山田慧に該当するような気がした。
席替えでぼくの座席を奪ったときも、おかあさんのお弁当を便所に捨てたときも、漫画を譲ると称して金銭を巻き上げたときも、彼はなんの迷いもなくそれを遂行した。ぼくの感情をいっさい与することなく、一片の罪悪感もない。悪意を浴びせることに躊躇いがない。
さらにページをめくり、それを読み耽っていると、なにやら気配を感じた。つと顔を上げて振り向くと、不機嫌そうな美甘さんが立っていた。
「……なにしてんの?」
「いてててっ」
足をぐりぐりと力一杯に踏みつけられる。
「ひとを待たせんじゃねえよ」
「ご、ごめん」
ぼくはあわてて本をとじて、それを棚に戻した。
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