サナトリウム
秘密結社といったものの、特別なにかあるわけでもなかった。
それどころか、あの夜のことについて美甘優とはいっさい会話をしていない。日々はなにごともなく過ぎていった。
授業中、美甘さんの横顔にちらりと視線を向ける。彼女はほおづえをついてぼんやり黒板を眺めている。
あの拳銃、まだ持っているのだろうか。いったいあれをどうするつもりなのだろう。本人に訊いてみればいいのだが、なんとなく躊躇してしまう。
あの日の翌朝、ぼくは美甘さんに「おはよう」と声をかけてみた。すると彼女はこちらを振り向いて、ぼくの顔を無表情にみつめた。そして、すぐにまえに向き直る。無視されたと思いきや、
「おはよ」
と声がきこえた。
それから、あいさつだけは交わすようになった。
変わったことといえばそのぐらいだ。
そんなふうにして三学期が過ぎていった。
修了式は滞りなく執り行われ、その後、ホームルームでは担任の加賀先生が生徒たち一人一人の名前を呼び出し、通知表を手渡した。自分の評価にみんなが一喜一憂し、教室が騒がしくなる。普段なら注意されるところだが、今日だけは担任も鷹揚だ。浮ついた雰囲気が収まらないまま、休み中に羽目を外しすぎるなというようなことを注意喚起し、いよいよ春休みが始まった。
窓からは初春のやわらかな陽の光が射し込んでいる。ぼくはなんとなく着席しまま、まわりの様子をぼんやり眺めていた。
みんなどこか名残惜しそうに教室にとどまり、クラスメイトたちとはしゃいでいる。耳に入ってくるのは楽しげな会話ばかり。ボーリングにカラオケにファミレス、さっそくこれからみんなで出掛けるようである。
ぼくはまっすぐ家に帰るだけだ。スクールバッグをつくえに載せ、通知表などの書類を中に詰め込む。
新学年になればクラス替えだ。いろいろあったけど、美甘優ともこれで最後かもしれない。覗きのことをもう一度きちんと謝罪しておこう。そう考えていたとき、
「ねえ」と、不意に声をかけられた。
「どうせ暇なんでしょ、このあと」
なんの前置きもないまま、美甘さんはいった。
「え」
「ともだちなんかいないもんね、市川くん」
その蔑むような表情に、なにか言い返したくなった。
「み、美甘さんだっていないでしょ……」
するとほんの一瞬だけ怯んだ表情をしたのを、ぼくは見逃さなかった。
「は? バカじゃん、いますけど」と、意外とむきになって言い返してくる。「市川くんなんかといっしょにしないで気持ち悪い」
「ごめん」
ぼくはおもわず謝る。
こうして彼女とちゃんとした会話するのは、あの森の夜以来の気がする。
「このあと、一時に駅の西口にきて」
とうとつに彼女はいった。
「一時って……、え、また夜の?」
「昼の」
美甘さんは即答する。
「あ、あの、なんで?」
「秘密結社の会合するから」
そういって、待ち合わせ場所を告げるやいなや、すっくと席を立った。
「ちょっと……」
美甘さんは鞄を肩にかけると、にぎわう生徒たちの合間を縫って教室を出ていった。
待ち合わせ場所は、西口駅前にある寂れたゲームセンターだった。
ぼくは約束の時刻より一時間もまえにそこへ到着していた。当然、美甘さんはまだ来ていない。彼女を待つ間、すこしゲームセンター内をのぞいてみることにした。
といっても、ぼくが楽しめそうなゲームはこの店にはなさそうだ。なにせ世間では今、『バーチャファイター』や『鉄拳』といった3D格闘ゲームが隆盛しているというのに、この店では未だに一世代前の『ストリートファイターⅡ』が現役なのだ。そんなふうだから、薄暗い店内には客の姿がほとんどなく、そのくせ壁に染みついた紫煙のにおいだけがしつこく鼻についた。
店の片隅に設置されているピンボールマシンに目が留まった。そのピンボールを今、黒人が打っている。彼の連れらしき外国人ふたりがマシンを囲み、ときどき囃したてながらボールの行方を見守っていた。彼らをぼんやり眺めたあと、ぼくはゲームセンターを出た。
店のまえのベンチに腰掛ける。
駅前は閑散としていた。電車は三十分に一本しかやって来ない。ここは駅員のいない無人駅だ。
空はみずいろの水彩えのぐを溶かしたような色で、綿あめみたいな雲がゆっくり流れている。ぽかぽかした陽射しが微かな甘い香りとともに地上に落ちている。
しばらくすると、さっきピンボールを打っていた外国人たちが、談笑しながら店から出てきた。
彼らを見るともなしに眺めていると、そのなかのひとりがぼくにむかって声を発した。ぼくはおどおどと、若い金髪の白人男性の顔をみつめる。彼がこちらへなにかを放った。あわててそれを受け止める。てのひらの中のそれは、知らないメーカーのガムだった。
彼らを見送ってからほどなくして、通りのむこうに美甘さんの姿がみえた。
彼女の足取りは、ふわふわとまるで雲の上を歩いているようで、風が吹けば転んでしまいそうな、心もとないものだった。
美甘さんは腰紐付きのワンピースを着ていた。色褪せたみずいろのそれは、どこか古くさいデザイン。スカートの丈はちょっと短め。編み込みの甘いベージュのカーディガンを羽織っている。つやつやしたローファーに、白い靴下はふくらはぎまできっちり上げていた。肩にかけた赤いポシェットのほかに手提げを持っている。
「じゃあ、いくよ」
ぼくはまばたきした。
「ど、どこに?」
すると、もったいぶるように彼女はいった。
「いいとこ」
おいで、と歩き出した。
ぼくは戸惑いながら彼女のあとを付いていく。
既視感を覚えた。夜中に山に呼び出され、あやうく射殺されるところだった、あのときと同じ状況。なんだか不吉な予感がする。
駅前を離れ、閑静な住宅街へ入った。
白い平屋の木造家屋が建ち並んでいる。それぞれにちいさな芝生の庭がついていて、そこはかとなく異国の雰囲気が漂う。所謂、米軍ハウスと呼ばれる建物だ。
米軍ハウスの住宅街を抜けると、国道のおおきな交差点に出た。米軍基地の中央ゲートがある。ぼくたちは横断歩道を渡り、基地のフェンス沿いを並んで歩いた。
背の高い頑丈そうなフェンスには有刺鉄線が張られ、『基地司令官の許可なく無断で立ち入ることはできない。違反者は日本国憲法に依って罰せられる』という警告看板が掲げられている。フェンスの向こう側には広大な飛行場がひろがっていた。
轟音が響いている。
プロペラ輸送機が滑走路をゆっくりと進んでいるのが見える。轟音はその機体のジェットエンジンの音だ。
「すごーい!」
美甘さんは叫ぶようにいった。
「えー?」と、ぼくも大声をあげる。すさまじい音で声が聞き取りづらい。
「あんなのがさ、空飛んじゃうなんて、すごーい!」
なんともいえず、ぼくは機体に視線を向けた。
「そんなことよりさー!」
ジェットエンジンの轟音の中、ぼくは声をはりあげる。
「えー?」
彼女も大声で問い返す。
「おれたちさー、どこに向かってるのー!」
「なあにー!」
「だからーっ! これからどこいくのー?」
「えー?」と、耳にてのひらを添える。
「いいとこって、どこー?」
「えー? きこえなーい!」
ぼくは口を噤み、彼女をみつめた。
「……ホントに?」
ちいさく訊ねると、彼女は「ホントだってばあ!」と叫んだ。瞳に悪戯っぽい光を宿している。
おもしろい返しができるほど語彙もなく、ぼくはただただ困り果てて押し黙る。美甘さんはそんなぼくにむかって、「ばーか!」と叫んだ。
フェンス沿いの道から離れ、もうどのくらい歩いただろうか、緑が多く民家がまばらにしかない、うら寂しい場所にやって来ていた。
「こっち」
不意に美甘さんが林へ続く脇道に逸れた。畦道を進み、雑木林の中へ入ってゆく。
あたりは薄暗く静かで、風にゆれる梢の音と小鳥のさえずりが響いていた。湿気を含んだつめたい空気がひんやりと頬に触れる。奥に進むにつれて徐々に緑が深くなり畦道も途切れかけてきた。向こうにちいさなトンネルがみえる。
「ねえ、マジでどこ行くの」
ぼくは不安になって、ふたたび彼女に訊ねた。やっぱり美甘さんは質問には答えずトンネルへ入っていく。
中は真っ暗闇で、トンネルというより古い用水路のようだった。鼓膜がもわもわと圧迫され、足音が籠ったように響く。距離は短く、すぐ向こうに出口がぽっかりと口を開けていた。
トンネルを抜けてさらに雑木林を進んでいくと、有刺鉄線の張られたフェンスが視界に入ってきた。米軍基地にあるそれと同じ形。そして、フェンスの向こう側になにか建物のようなものがみえる。
あれはなんだろう。なにかの建造物のようだけど、生い茂った緑に埋もれて、その一部しかみえない。
美甘さんが手招きする。
彼女は雑草を掻きわけフェンス沿いをすこし進み、そこで足を止めた。彼女の足もと、フェンスの下部が破れている。人がひとり、なんとかくぐれるほどのおおきさ。
彼女はそこへ躊躇うことなく屈みこんだ。
「ちょっと」と、ぼくはおもわず声をあげた。
どうしたの? というふうに美甘さんはぼくを見上げる。
「もしかして、そこ入ってくの?」
「そうだよ」
こともなげに肯く。
「えっ、やばいんじゃないの。そこ、基地の中じゃない?」
「んー? わかんない」
「いや、たぶんそうだよ」
ぼくは伸びきった雑草をどかして、それに隠れていた看板をみつけた。フェンスに貼られたその看板はかなり錆びついていたけれど、はっきり『WARNING!』と書かれている。その文字の下になにやら英文が記され、日本語の文も併記されていた。侵入したら日本国憲法で罰する云々という文章は、先程歩いてきた飛行場のフェンスに掲げられていた警告文といっしょだった。
「だいじょうぶだよ」
「え、でも……」
まごついていると、彼女の眉間にしわが刻まれた。
「でもじゃねえよ、市川くんに選択権なんかねえんだよ。あたしの下僕なんだから」
そういわれると、なにも言い返せなかった。
ぼくたちはフェンスの破れた部分を這って潜り抜けた。
叢の中を進みながら、ほんとうにこんな場所に侵入してだいじょうぶだろうかと不安になる。米軍施設内には巡回する軍用犬が放たれていると聞いたことがあった。もしも見つかってしまったら、ぼくたちは不法侵入者として逮捕されてしまうかもしれない。
そんなぼくの心中を見透かすように、美甘さんは「だいじょうぶだよ」といった。
「あたし、ひとりでここに何度も来てるけど、みつかったことないもん」
「そうかもしれないけどさ……」
いままで見つからなかったからって、これからも見つからないとは限らない。そんなことをおもいながら叢を進んでいくと、不意に視界がひらけた。
フェンス越しにみえた建造物の全貌があらわれる。
いったいなんの建物だろう。四階建てほどのおおきさで、病院のように見えるし、博物館のようにも学校のようにも見える。外観は灰色に朽ち果て、緑に侵食されるようにいくつも蔦が這い、あちこち壁の塗装が剥がれ煉瓦が剥き出しになっている。ひとの気配はいっさい感じられない。
美甘さんはこちらを振り向いた。
「ここだよ」
ぼくは茫然と廃墟を見上げた。
「……これ、なんの建物?」
彼女は質問にはこたえない。
「ひみつ基地みたいでしょ? 秘密結社の本部」
ぼくは口を半開きに生返事した。
建物の正面玄関は観音開きのガラス戸だった。あたりまえだけど、鍵が掛けられている。さらに取っ手には錆びた鎖が何重にも巻かれ、厳重に封鎖されていた。
ぼくはとびらに顔を近づけ内部をのぞいてみた。しかし、暗くてなにもわからない。
「そっちじゃないよ」
美甘さんの声がした。いつのまに拾ってきたのか木の枝を手にしている。
「おいで」
その枝で草を薙ぎ払いながら、廃墟の周囲を進んだ。ぼくは黙って彼女のあとにつづき道なき道をすすんだ。
途中、敷地の一角に濁った池を発見した。
それは生い茂る雑草に覆い隠されるように風景に紛れていて、一見しただけでは存在に気づかない、まるで落とし穴のような池だった。
ぼくはおそるおそる池を覗き込んでみた。
不安そうな表情をした自分の顔が、緑色の水面にぼんやりと映り込む。そのうえをアメンボが二匹、音もなくすべった。
ふと、ぼくの背後に美甘さんの姿がうつる。
「なんか、底なし沼みたい……」
ぼくたちは雑草をかきわけ、廃墟の裏側にやってきた。
三段ほどのちいさな階段をあがった先に、勝手口のようなとびらがあった。鍵はかけられておらず、美甘さんは手慣れた様子でとびらをあけた。
「……勝手に入ってだいじょうぶなの?」
「だいじょうぶなの」と彼女は即答した。
どう考えてもだいじょうぶじゃないだろう。完全に不法侵入じゃないか。
とはいっても、ここまできたらもうああだこうだ言っても仕方がない。フェンスを潜った時点ですでに不法侵入なのだ。ぼくは観念して彼女の背中を追いかけた。
予想はついていたけれど、内部はひどく荒れ果てていた。
床にはかつて建物の一部だったものが剥がれ落ち、ほこりや土、硝子片にまみれて散乱している。足を一歩踏み出すごとに、いろんなものの潰れる音がした。ところどころ水たまりもある。割れた窓から雨水が入りこむのだろう。
通路を抜けて、玄関ホールらしき場所にやってきた。
ホール中央におおきな階段があり、天井が高く吹き抜けになっている。階段の踊り場にはホールを見下ろすように巨大なステンドグラスが張られていた。鮮やかな細工。まるで万華鏡をのぞいたときに見えるうつくしい模様のようだ。ホールはそのステンドグラス以外に目立った窓は見当たらず、だからこそ、それがより一層際立ち、まるで朽ち果てた教会のような様相を呈していた。
ステンドグラスに濾された幻想的なひかりを浴びて、美甘さんがゆっくりと階段をあがっていく。その背中をぼくは階下から惚けたように見上げていた。
不意に彼女が立ち止まり、こちらをふりむく。逆光で表情はわからない。艶やかな色彩の後光が美甘さんを縁取っている。それはまるで、宗教画に描かれた慈悲深い聖女の姿を想起させた。銃を携えた、ちいさな聖女。すこし乱暴なマリアさまだ。
そんなふうにみとれていると、美甘さんはいきなりワンピースのおしりをガバッと押さえた。
「ちょっと、またやってんの?」
とがった声がホールに反響する。
「は?」
「またのぞいてんのかよ」
いったい何のことをいっているのかわからず戸惑ったが、ようやくその意味が飲み込めると、かっと頬が熱くなった。ぼくが階段の下から彼女のスカートの中身を覗き込んでいると勘違いしているのだ。
「の、のぞいてないよ!」
「どうだか、市川くんはド変態だからなにするかわかんないもん」
二階は一階と違い、それほど荒れていない。窓からも陽光がたっぷり射し込んでいる。
客室のような小部屋がいくつも並んでいた。お風呂場らしきも場所もある。しかも数十人は収容できる大浴場だ。そしてそれらの中央にドッジボールができそうなくらいの広間があった。チェス盤のような模様の床に、部屋の隅には無数のテーブルとソファが乱雑に積み上げられている。奥にキッチンがあったので食堂だろうか。だけど窓がひとつもない。こんな辛気臭いところで食事をしていたのだろうか。天井や壁の一部がひび割れていたり、崩れていたりしている。そこから外部のひかりがこぼれ、幾筋もの光の柱が部屋に降り注いでいた。
いったいここはどういう建物なのだろう。
三階の廊下を歩いた。窓の外では午後のひかりを浴びた木々が風にゆれている。木漏れ日が廃墟内に射し、汚れた絨毯に染み込んでいる。はちみつ色の陽光のなかで、ほこりが金色に舞っていた。
「みて」
美甘さんが窓の外を指差した。
ぼくはそちらをふりむく。
窓からは中庭がみえた。
庭師の消えた庭園は野生の姿を取り戻しつつある。そんな朽ち果てた庭のまんなかに、一本おおきな木がたっていた。
桜の木だ。
しかも、おどろいたことに満開に花を咲かせている。この死に絶えた廃墟の中で、その桜が唯一、生命を主張するように息吹いていたのだ。
「きれい」
美甘さんは吐息のように囁いた。
ぼくらはしばらく、ふたり並んでぼんやりと桜の木を眺めていた。
「ここはね、サナトリウムだったの」
美甘さんはいった。
「サナトリウム?」
「療養所のこと。病気のひととか精神病のひととか、ここで寝泊まりしながら、ゆっくり病気を治す施設」
広間はぶんどきのような形で、床一面にじゅうたんが敷き詰められていた。天井には古びたシャンデリアが吊り下がり、それは埃だらけで頼りなく傾き、なんだかいまにも落下してきそう。
広間にはがらくたのようなテーブルとソファのセットがいくつも並んでいた。そのなかのひとつに美甘さんは深く腰かけている。ぼくはそんな彼女の向かいに座っていた。臙脂色のソファは所々やぶけていて、中の黄色いスポンジが露出している。
美甘さんは手提げかばんから、紅茶の入った魔法瓶と紙コップ、そして手作りのスコーンとジャムを取り出し、ローテーブルにならべた。
「スコーンって、なに」
ぼくはおもわず訊ねた。
「んー、もっさりしたパン? みたいな」
「美甘さんがつくったの?」
「うん」
「あ、あの、すごいね」
「すごくないよ。小麦粉とかこねて焼くだけだし」
食べたい? と美甘さんは訊ねる。
「あ、うん……」
「えっとね、じゃあねえ……、『美甘さん、変態ゴミカス野郎のぼくだけど、どうかスコーンを恵んでください』」
ぼくはすぐに言葉が出ない。
「……ま、また、それ言うの?」
「は? あたりまえじゃん。なんもしないで美味しいおやつにありつこうとすんなよ」
せーの、はいっ! と美甘さんはいった。
広間を取り囲むようにおおきな窓が設けられていた。窓の外は中庭になっている。たゆたう緑と柔らかな陽のひかりが春の霞にぼやけて淡くにじんでいた。
すぐそばにはさきほどの桜の木がみえる。ときおり、窓からおだやかな風が吹き込み、くすんだレースのカーテンをふくらませている。
スコーンを齧り、紅茶を啜りながら、ぼくは美甘さんのことを直視することができず、窓の外ばかりを眺めていた。女子とふたりきりで緊張してしまう。
「学校休んでるとき、いつもここに来てたの」
美甘さんは紙コップを両手で包みこむようにたいせつに持ち、そっとくちびるにあてた。
「だれもいなくて、静かだし。なにもかも終わったみたいで安心する」
彼女の声は廃墟の広間に密やかに響いた。
ぼくは美甘さんの薄いピンク色のシュシュをみつめる。きょうの彼女は長い髪をシュシュでひとつに束ね、右肩にながしていた。
あ、あの、とぼくは口をひらく。
「どうしていままで学校休んでたの」
そのことは以前から気になっていた。訊ねようかどうか躊躇したが、この際おもいきって訊いてみることにした。
美甘さんは紙コップにくちびるをあてたまま、考え込むようにそっと目を閉じる。
やがて、「ひとが嫌いだから」と囁いた。
「どいつもこいつもみんな死ねばいいのに。でもそんなにあっさりみんな死なないから、あたしが死ねばいいとおもった」
それっきり沈黙してしまったので、それがこたえなのだとおもった。
だけどしばらくして、「群れの中で生きるには、じぶんをどれだけ出さないかなんだ」と、ふたたび彼女は口をひらいた。
「市川くんにはわかんないだろうけど、ともだちが多いとたいへんなの。くそつまんない話にさも興味あるみたいにうなずいたり、ぜんぜんおもしろくないのに笑ってみたり、いきたくもない場所に無理して遊びに行ったり。しかもたいせつなおこづかい削ってまでしてね。そうやってがんばって、みんなの信頼みたいなのを得なきゃいけないわけ」
美甘さんは窓の外に視線を向ける。
「さいしょはね、そうしておけば仲間はずれにもされないし、なにより、なにかあったときにたすけてくれるっておもってた。でも、そんなの誰もたすけてくんない。せいぜい『つらかったねー』って慰めてくれる程度。そんなのがなんのたしになるの。けっきょく『信頼』なんて、自分にとってその子がどれだけ都合がいいかでしかないってことがわかったわけ」
半ば彼女は、ひとりで語っているようだった。ぼくが言葉をさしはさむ余地などない。
「そのことに気づくと、もう無理してまわりに合わせるのがバカみたいになる。あたし、あんまり喋りたくないし、騒ぎたくもないし、流行り物とか恋愛とかそういうの興味ない。静かなとこでぼーっとしてたい。でも、そんなふうに本当のじぶんを出すと、『あいつつまんないね』とか『なんか暗くない?』っていわれはじめて、それから『感じ悪い』『っていうか態度悪いよね』ってなってって、もうほっといてくれればいいのにいよいよ迫害がはじまるわけ」
一息に喋ってしまうと、美甘さんは黙り込んだ。
ぼくらは薄暗い階段をのぼり、屋上へと出た。
建物を這う蔦が屋上にまで侵食し、フェンスの金網はさびついて腐食している。壊れた給水タンクはうたた寝をするように傾いていた。
米軍基地の滑走路の果てに、赤く燃えた夕陽がゆっくりと沈んでゆく。東の空の群青色に星がささやかに瞬いていた。
「こんな話をするとね、おまえは視野がせまいだとか、世界はもっとひろいだとか、お説教みたいにいう人がいるの」
たしかに世界はひろいよ、と美甘さんはいった。
「でも、世界がどれだけおおきくたって、ちっぽけなあたしが干渉できるのは、いつだってちいさくてせまい世界なの。あたしだけじゃない、だれだってそう。この街と家と学校の教室だけが、あたしの世界のすべて。新しい世界を目指して飛び立ったとしても、またそこもせまい世界。たとえそこが自分の理想の世界だったとしても。けっきょく、そんなダンボール箱みたいなせまい世界を右から左へ移動してるだけなの」
夕暮れの風に彼女の髪が靡く。
轟音が接近してきた。
頭上を米軍の航空機が横切る。手を伸ばせば届きそうな高さで、機体の裏側が間近に確認できる。赤く点滅する翼のひかりが網膜にやきついた。
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