ふたりっきりになれるところ

 教壇では数学の斉藤先生が関数のグラフを黒板に書きつけていた。たいくつな授業ほど、時計の針の動きは鈍くなる。

 となりには普段と変わらず授業を受ける美甘さんがいた。長い髪を耳にかけ、指先でえんぴつを弄ぶ。不意に消しゴムを落とした。彼女はかるく椅子を引いて屈み込み、それを拾い上げる。

 ぼくは身体が硬直してしまう。あんなことをしでかしてしまった後では、とても居心地が悪い。なんだかへんに美甘さんを意識してしまって、まともに視界にいれることができなかった。

 女子便所のぞきなどという犯罪行為が露見すれば、当然、それなりの処罰が下されるはずだが、いっこうにその気配は感じられない。あれから一週間経ったが、今のところクラスメイトから変質者と詰られたり、職員室に呼び出しを食らったり、親に連絡され厳重注意を受けたり、そんな事態にはなっていない。美甘さんからもあれ以来、責められたり殴られたりすることはなかった。

 どうやら美甘優は、あのことを誰にも告げていないようなのだ。

 どうしてだろう。散々ぼくを痛めつけて、それで気が済んだのだろうか。あの出来事が夢だったのかと思うほど、なにごともない日常が続いている。

 もちろん、夢なんかじゃない。美甘さんに打擲された痕がいまも残っているし、お風呂に入るとその傷がしみる。しかし、反比例するように罪悪感が薄らいでいるらしい。湯船に浸かって美甘優のことを考えていると、そのうち女子便所の隙間からのぞきみたあの光景が脳裏に浮かび上がり、性懲りもなく陰茎がたちまちかたくなってしまうのだった。そうなると収まりがつかない。無我夢中でそれをしごき、おもわずお湯の中に射精してしまい、あわてて洗面器で精液をすくって流す羽目になった。

 やっとのこと授業終了のチャイムが鳴ったが、区切りが悪いらしく、斉藤先生の話は終わらない。生徒たちから声なき顰蹙がにじむ。

 けっきょく三分ほどオーバーして、先生は教室を出ていった。

 やれやれというように休み時間がはじまる。

 ぼくはいつものように席から立つことなく、そのままつくえに突っ伏し、寝たふりをした。両腕で囲んだちいさな暗がりに教室の喧噪がとめどなく流れ込む。ざわめきに身をゆだねるうち、ほんとうに眠気が差してきた。

 そんなときだ、

 ――ヘンタイ。

 浅い夢でもみているのか、ぼんやりと声がきこえた。

「起きろ、変態」

 水をたたえた洞窟から響いてくるような声。

「寝たふりすんじゃねえよ」

 まぶたをうすくひらき、そっと顔をあげる。

 乱暴な言葉づかいからして、そこに立っているのはまたも小山田慧だとおもった。

 しかし、彼の姿はない。

 となりに座った美甘優がこちらをみつめていた。声の主は彼女らしい。

「……なに?」

 ぼくは寝ぼけた声を発した。

「変態」

「え」

「あなた、変態くんでしょ? ちがうの?」

 美甘さんは真顔で問いかける。

 いっしゅん言葉に詰まったが、ぼくはかぶりふった。

「ち、ちがうよ」

「じゃあ、なんなの」

「市川篤史」

 図らずも自己紹介してしまった。

 予想外の返答だったのだろう、彼女は「ふふっ」と吹き出した。目が三日月のようになって、涙袋がぷっくりとふくらんだ。くちびるから並びのいい白い歯がこぼれる。

 はじめて彼女が笑うのをみた。普段は無表情なのに、なんとも人懐っこくて可愛らしい笑顔だった。いつもそんなふうだったら、みんなも話しかけやすいのに。

「じゃあ、市川くん」

 仕切り直すように彼女はいった。すぐにほほえみは消え、いつもの表情にもどる。「ちょっと頼みごとがあるんだけど」

「たのみごと?」

「そう」

「えっと、……なに?」

「ここじゃいえない」美甘さんはそういって俯いた。「大事なことなの」

「大事なことって」

 今日の午前一時に、町外れのファミリーマートの駐車場まで来てほしい。そう美甘優はいった。

「一時? え、夜の一時ってこと?」

「うん」

「なんでそんな遅くに……」

「だから、いえないの」

「でも一時って……」

 そんな時間に理由もなく出掛けるなんて親がゆるしてくれない。

「もっと早い時間じゃだめなの?」

「だめなの」

 きっぱりと彼女はいった。

 真夜中の一時じゃなければできない頼みごと? しかも最近知り合ったばかりの、ともだちでもなんでもない、まともに会話すらしたことがない、そんなぼくに大事な頼みごと? だいたい、彼女にとってぼくは覗きをした最低の人間じゃないか。いったいどういうことなのかさっぱりわからない。

「ぜったい来てね。じゃなきゃ、市川くんのことぜんぶ言いふらすから」

「ど、どういうこと」

「市川くんが女子便のぞいてたこと学校中に言いふらしてやるってこと」

 ぼくは言葉を失う。

「それが嫌だったら、ぜったい来て」

 言い終えたと同時に、予鈴のチャイムが鳴った。


 住宅街の曲がり角、民家の庭からのびた柳の木が街灯に照らされていた。

 夜に沈み込んだ風景に、その一本の柳だけが鮮やかに浮かび上がっている。一瞬、木の下に白い女の姿をみたような気がして、ぼくは自転車のペダルをつよく踏み込んだ。

 深夜零時、ぼくは美甘さんに言われたとおりこっそり家を抜け出し、ファミリーマートへ向かった。

 指定されたコンビニは山の麓にぽつりと佇み、闇の中で煌々と明かりを放っている。

 彼女はまだやって来ていない。ぼくはファミマで雪印のコーヒー牛乳を購入し、駐車場の車止めブロックに腰を落とした。田舎特有の広大な駐車場に自動車は一台も停まっていない。

 たのみごととはいったいなんだろう。どういった用件なのかは不明だけど、深夜に女の子とふたりきりで会うという状況には、ちょっとわくわくしてしまう。そんな高揚感がむりやり眠気を押さえつけているのか、身体は気怠いのに目は妙に冴えていた。

 ぼんやり空を見上げる。

 夜空に向かってコンビニのポール看板が伸び、そのとなりには白い満月が浮かんでいた。黒々とした山の稜線を撫でるように、銀色の雲の群れがゆっくりと流れている。明るい夜だった。

 コーヒー牛乳を半分ほど飲んだ頃、こちらへ歩いてくる美甘さんの姿がみえた。

 ぼくは立ち上がり、かるく手をふる。

「おまたせ」

 彼女は色褪せたワンピースに、深緑のモッズコートを羽織っていた。両足は黒いストッキングに包まれていて、華奢な足がさらに細くみえる。制服じゃない姿はとても新鮮だ。

「けっこう早く来てたの?」

 ううん、とぼくは首をふった。「さっき来たばっかだよ」

 そっか、と彼女は長くうねった黒髪を手櫛で梳く。

 ぽよぽよした濃いまゆげに、ぱっちり二重のまぶた。形のいいぽってりした厚いくちびる。真っ白い肌と、目尻とほっぺたのちいさなほくろ。こうしてじっくり面と向かうと、どうして不登校の間、彼女の容姿についてぶさいくだなんていう噂が流れていたのか疑問に思う。

「あの、たのみごとっていうのは……」

 美甘さんはそれには答えず、ぼくの手元に視線を落とした。

「なに飲んでるの」

 耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうな、ささやきのような声。

「あ、コーヒー牛乳」とぼくはいった。

 彼女は無言で、ぼくの手元から目を離さない。

「あの、美甘さんもなんか飲む?」

 そう訊ねると、彼女はこくりとうなずいた。

「えっと、じゃあ、おれおごるから、なにがいい」

 つんのめるように訊くと、「紅茶」と彼女はこたえた。

「あ、うん、わかった」

 ぼくはうなずき、コンビニに入ろうとした。そのとき背中に「ミルクティーがいいな」という声がきこえた。

 求められたとおりリプトンのミルクティーを購入し、美甘さんに渡した。

「ありがとう」と、それを受け取る。そして先程までぼくがそうしていたように、車止めブロックに腰を落とした。ぼくも、もう片方の車止めに座る。

 彼女は紙パックにストローを挿し、くちびるをつけた。

「……あの、眠くない?」

 ぎこちなく話しかける。

「ううん」

 ストローをくわえながら、彼女は首をふった。

「おいしい?」

「うん」

「ミルクティーすきなの?」

「うん」

 会話はすぐに途切れてしまい、どこかぎくしゃくとした空気がながれる。

 ぼくは手持ち無沙汰で、ぬるくなったコーヒー牛乳をすすってはパッケージに記載された原材料名を意味もなく確認した。口の中が甘ったるくベタベタする。

 なにかもっと喋らなくちゃいけない。だけど投げかけるべき言葉がみつからない。恋愛ゲームみたいに会話の選択肢が出ればいいのに。そんなふうに焦っていると、不意にまばゆいヘッドライトがぼくたちを照らした。駐車場に大型トラックが入ってくる。

「じゃあ行こ」

 そういって、彼女が立ち上がった。

「え、どこに」

「だれもいないとこ」

 その声はトラックのエンジン音で埋もれてしまいそうだった。

「ふたりっきりになれるところ」


 ぼくらは山の県道を、お互い黙々と歩いた。

 ガードレールの向こう側、遠くに米軍施設のあかりが夜空に滲んでいる。まるで宇宙人のひみつ基地みたいだ。

 あの……、とぼくは彼女の背中に声をかける。

「美甘さん、このまえは、ほんとうにごめん……」

 彼女はちらりとこちらに視線を向けた。

「おれ、ほんとうに反省してます。殴り足りないならもっと殴ってもいいし、それでも気が済まないんだった先生にいってもいいし」

 なんのこと? と美甘さんは首を傾げた。

「あ、あの、女子トイレを……」

「……ああ」

 そういうと、彼女はまえに向き直った。モッズコートのポケットに両手をつっこんでさきを歩いて行く。ひらひらと裾が靡く。

 ふたたび沈黙が下りてきた。

 気まずい雰囲気の中、無言で県道を歩く。

 前方から乗用車が走ってきた。ヘッドライトのひかりがガードレールを撫で、赤いテールランプが闇に溶ける。

「ねえ、トイレなんかのぞいてどうするの」

「え」

「どうしてのぞきなんかしてたの」

 どう返答していいのか。ぼくはうつむいた。

「正直にいって」

 つかのま逡巡したあと、ぼくは口をひらいた。

「お、女の子の……あの、あそことか見たくて……その……」消え入るようにこたえる。

「それで?」と彼女はいった。「そういうの見ながら、オナニーとかしちゃうわけ?」

 女の子の口から「オナニー」なんていう言葉が出てきたことに、ぼくは当惑する。同時になんだか胸がどきどきした。

「まあ、その……」

 なんとこたえていいのか。口籠もりながら額には汗がにじむ。

「じゃあ、あたしのものぞいて、オナニーしたの?」

「いや、あ、……そ、そんな、してないよ……」

 ぼくはしどろもどろになる。

「ふうん」と感情のない声で美甘さんはいった。

「あの、おれ、そんな、のぞいたけど、そんな、ぜんぶみてないよ」

 よくわからない中途半端な嘘で言い訳をした。

 そんなぼくを無視して、彼女はさきへ進んでいく。

 県道の途中にある駐車場にやってきた。休憩所みたいな場所だった。シャッターの閉まった売店のわきに自動販売機が列をなし、誰もいない闇の中で煌々と人工的なひかりを放っている。駐車場のさらに奥には深い森につづく小径がのびている。

 美甘さんはポーチを探り、中から懐中電灯を取り出した。スイッチを入れて、それをこちらに向ける。まぶしい光線に射抜かれて、ぼくは目を細める。片手を顔の前にかざした。

「きて」

 美甘さんは森の小径へと歩いていく。

「えっ、どこいくの」

 返答はない。

 しかたなく彼女の背中を追いかける。

 小径をどんどん奥へと入っていく。一歩踏み出すごとに足下から闇が立ちのぼり、あちらこちらできこえる虫の音色が濃くなっていった。

 いったいどこへいくのだろうか。ぼくはきょろきょろとあたりを見回しながら、まっくらな森をすすむ。

 不意に、頭上からふくろうの鳴き声が降ってきた。まるで森の侵入者に警告するように。すこしおどろいて顔を上げる。

 木々の梢の隙間から満月がのぞいていた。

 今夜のようにあかるい月明かりがなければ、森は穴蔵のようにまっくらで、懐中電灯なしでは一歩も動けなかっただろう。

「ここらへんでいいかな」

 そんなふうに山道を進み、すこしだけひらけた場所に出ると、美甘さんは立ち止まった。

 なんの変哲もない真夜中の森。

 斜面に冷蔵庫が横倒しにされているのがみえた。冷蔵庫だけじゃない。電子レンジやら洗濯機、キャビネット、自転車、ソファに水槽、さまざまなものが打ち捨てられている。不法投棄の山だ。

「あのね、市川くんに見せたいものがあるんだ」

「え、なに……?」

 美甘さんは赤いポシェットをごそごそと探り、「じゃじゃーん」と中からなにかを取り出した。

「これ、なーんだ?」

 彼女はほほえみながら、それをぼくに見せる。

「え……?」

 暗闇の中、ぼくは目を凝らした。

 月光にぼんやり鈍く光っているそれは、拳銃のようにみえる。

「なにそれ……」

「なんだとおもう?」

 彼女は問い返す。

 ぼくは一呼吸置いて、

「……モデルガン?」といった。

 美甘さんは首を振る。

「モデルガンじゃないの、本物なの」

 得意げな表情。

 ぼくは二の句がつげない。

「……嘘だとおもってんの?」

 なんと言えばいいのかわからず、ぼくは苦笑いをうかべた。

 だって、本物のわけがない。ただの一般人が、しかも中学生が、どうして拳銃なんかを所持しているのか。

 彼女はひとしきり沈黙すると、

「これ、拾ったんだ」と言った。

「どこで」

 彼女は髪の毛を耳にかけ、手にした拳銃らしきものに視線を落とした。

「……けっこう前のことなんだけどさ」

 その日、美甘優は自室で雑誌を読んでいた。時刻は夜の十一時過ぎ。夕食はとっくに済んでいたが、なにか甘いおやつを口にしたくなったのだという。あいにく戸棚のお菓子も在庫切れだった。完全にないとわかると、ますますエンゼルパイやつぶつぶいちごポッキーなどが食べたくなってくる。いてもたってもいられなくなり、彼女は近所のセブンイレブンまで買い出しに行くことにした。

「でね、着替えて外でたらさ、夜風がなんかあったかくて気持ちいいの。セブンいってすぐ帰ってこようっておもったんだけど、なんかそのまま散歩したくなったわけ」

 そうおもって美甘優はあてもなく、ふらふらと夜道を歩いた。

 人気のない深夜の住宅街を抜け、米軍基地沿いの国道をわたり、いつしか繁華街にまでやってきていた。

 居酒屋にバーにパブ、そこはむかし赤線だった地域で、その名残のある建物がいくつも密集していた。昼間はどの店もグラフィティの描かれたシャッターが閉まり、ひっそりとしているが、夜になると賑やかな音楽とともにネオンが妖艶なひかりを放ちはじめる。上客のほとんどが米兵たちで、彼らは騒がしく酒をあおっていた。治安もよくはなさそうだし、女子中学生がひとりでぶらつくような場所ではない。

「あんなとこ、夜中にひとりでいったの?」

「べつにそんなつもりなかったけど、いつの間にか来ちゃってたんだよ」

「いつのまにかって……」

「でね、通り歩いてるときにさ、おしっこ行きたくなったから、なんか近くの飲み屋に入ったの、あたし」

「え、お店にまで入っちゃったの?」

「だって、近くにコンビニとかなかったしさ、公園の公衆便所とかあったけどなんか汚いからやだし。てか、みんなバカみたいに酔っ払ってたから、あたしが入ってったってわかんないよ」

 美甘さんは騒がしい客たちの間を抜けて、店内奥にあるトイレへと入った。ドアを開けるとすぐに便器があるタイプの、男女共用の個室トイレだ。

 室内は趣味の悪い紫色をした照明にてらされ、壁には英文のフライヤーがべたべたと何枚も貼り付けられている。ドアを閉めていても、やかましい店内音楽がきこえてきた。

 用を足しながらふと足下に視線を落とすと、あるものに目がとまった。予備のトイレットペーパーが積まれた箱のわきに、革のケースみたいなものが無造作に置かれていたのだ。

 なんだろう、これ。

 拾い上げてみると、意外にずっしりとしている。なにか重たいものが収納されているようだった。まさか備え付けられいるものではないだろうし、おそらく、誰かの落とし物だろう。なにが入っているのか気になった。でも、勝手に探っていいのだろうか。そんなことを逡巡する。

 だけど結局、好奇心には勝てなかった。

 彼女は革のケースを開けると、そっと中身を取り出した。それをゆっくりと目の前に掲げてみる。

 ――それが、いま彼女が持っている拳銃だった。

「なんでそんなとこに……」

「しらなーい」

 彼女は即答した。そんなことなど興味はないというように。

 鈍くかがやく銀色の銃身に黒く重厚なグリップ。テレビではよく目にするけれど、実物を触るのはもちろん初めてだった。美甘さんは便座にすわったままパンティも穿かず、手にした拳銃をしばらくながめていた。

「なんかめっちゃおもしろいって思って、そのまま家に持ってきちゃった」

 拳銃についての知識がないため、彼女がいま所持しているものが、いったいどういう種類の銃なのかまったくわからない。ただそれは、いわゆる回転式ではなく、自動拳銃のようである。プレイステーションのホラーゲーム、『バイオハザード』に登場するハンドガンみたいな形だ。

「……で、でもさ、ほんとに本物なの?」ぼくは遠慮がちに口を挟んだ。

「正直、おれたちじゃ判断つかないじゃん。偽物とか本物とかさ。最近のモデルガンとか結構リアルに出来てるし」

 だけど美甘さんは、ほんものだよと首をふった。

「だってニュースでやってたもん」

「ニュース?」

「鉄砲拾ってから何日かしてさ、テレビみてたの。そしたらさ、米軍のひとが鉄砲なくしちゃったってニュースやってたわけ。市川くん、知らない?」

 在日米軍基地に所属する米軍兵士が、軍に貸与されていた実弾入りの拳銃を、施設外で紛失した。

 言われてみれば確かに、そんなニュースを耳にしたおぼえがある。ぼんやりとだが思い出してきた。

 アメリカ軍から連絡を受けた県警本部が、全国の警察に手配して捜索しているが、拳銃は依然として行方不明。発見されたというニュースを未だ耳にしていない。

「それってもう絶対この鉄砲のことじゃん」

 ぼくは返答に窮した。

 そんな事件があったのは事実だ。しかしだからといって、その紛失した拳銃が、いま美甘さんが手にしている拳銃だとは俄に信じられない。

 ねえ、ねえ、と言いながら美甘さんがこちらに近づいてくる。

「これってさ、安全装置的なやつでしょ?」と、手元を懐中電灯で照らしながら、ぼくに拳銃をみせる。

「う、うん、そうだね。たぶんそうだと思うけど……」

 グリップの上部にツマミが付いている。たしかに安全装置のようだ。おそらく、ツマミを下げて赤い印が隠れるような状態にすれば、銃弾は発射されないということだろう。

「だよね」

 美甘さんとの距離が近い。長い髪の毛がながれて、ぼくの手をくすぐる。

「とにかく、実際に撃ってみれば本物かどうかわかるよ」

 ちょっとこれ持ってて、と彼女はぼくに懐中電灯を寄越す。そうしてぼくから離れていくと、不法投棄のがらくたにむかって拳銃を構えた。真剣な表情で狙いを定めている。

「ねえねえ、こんな感じかな?」

 懐中電灯で彼女の姿を照らしながら、ぼくはなんともいえず適当にうなずいた。

 どうせモデルガンだとおもうけど、万が一、本物だったらという疑念も捨てきれない。どちらにせよ得体の知れない代物だ。あぶないからやめときなよ、そう声をかけようとしたときだった。

 けたたましい破裂音が静寂を破るように鳴り響いた。

 ぼくはびくりと身を竦める。

 がらくたの山からなにかが壊れるような音がきこえた。

「えーっ、なにー?」

 美甘さんは目をみひらき、ぱちぱちとまばたきした。「ちょーびっくりしたあ!」

 銃声の余韻が森に轟き、木々の暗がりでガサガサとなにかが動く気配がする。眠っていた野鳥か小動物がおどろいて逃げていったのだろう。

「えー、なにこれ、すごくない?」と、彼女は歓声をあげる。

 その一方でぼくは、耳を塞ごうとする寸前で石にされたみたいに硬直していた。言葉が出ない。不法投棄の山に懐中電灯のひかりをあてる。水槽が割れていた。

 そんなぼくをよそに彼女は拳銃をかまえると、あろうことか、ふたたび引き金をひいた。

 またもや強烈な発砲音が鳴りわたる。同時にその反動からか、彼女のからだがよろめく。

「えーっ! ちょ、やだ、めっちゃおもしろいんだけど!」

 美甘さんはちいさく飛び跳ねるようにして足踏みした。そして、おなかを抱えて笑い出す。

 ぼくはそんな美甘さんを唖然とみつめた。いつも学校ではおとなしい彼女が、クラスの女子たちのように明るくはしゃいでいる。でも、かっこいい先輩を話題にしてはしゃいでいるのではない。盗んできた拳銃を発砲して大笑いしているのだ。

「……ホントに、ホンモノの銃だ」

 ぼくはひとりごとのようにいった。

「だからほんものだって言ったじゃーん」

 そういって美甘さんは、さらに拳銃を撃った。

「わかったから! もうやめなよ!」

 ぼくはあわてて制止した。銃声と反動にふらついて、彼女はとても危なっかしい。

「な、なんでそんなの持ってきちゃったんだよ」

「えー、だっておもしろそうかなあって」

「ぜんぜんおもしろくないよ。窃盗とか銃刀法違反とかで捕まっちゃうって」

 いや、こちらが知らないだけで、なにかもっと重大な罪に問われるかもしれない。しかもそれは日本の所有物ではないのだ。なにか国際的な問題になりはしないだろうか。

「だいじょうぶ、ばれないよ」

「いやいや、いまからでもいいから返してきたほうがいいんじゃない?」

「やだよー、せっかく拾ったのにー」

「いや、やだよじゃなくて、マジでやばいって」

「――そんなことより、市川くんは自分の命の心配をしなよ」

 とつぜん、ぼくに向かって銃口を突きつける。

「え?」

「市川くんにはここで死んでもらう」

 彼女の顔から笑みが消えた。

「あ、あの……、え?」

「市川くんは、ここで死ぬの」

 ぼくはたじろぎながら、懐中電灯で美甘さんの顔を照らした。まるい光の輪に、冷たくこちらをみつめる白い顔が浮かぶ。

 いきなりなにをいっているのだろう。

 あまりに突拍子なくて笑いがこみ上げる。たとえ冗談でも拳銃を向けられるのはあまり気分のいいものじゃない。ぼくはにやつきながら、ゆっくり彼女の射程から離れようとする。

「動かないで!」

 彼女はちいさく叫び、ぼくは立ち止まった。

「冗談だとおもってんの?」

 だって……、とぼくはくちびるだけ笑ってみせる。

「てか、市川くんはどうしてこんな真夜中に、こんなとこに呼び出されたっておもってんの?」

 適切なこたえが浮かばない。

「たのみごとっていうのはね、これだよ。この鉄砲、試し撃ちさせて? あなたで」

 可愛らしい口調で小首を傾げる。

「市川くん撃ち殺したら、死体はそこの冷蔵庫に入れといてあげる」不法投棄の冷蔵庫を顎でさした。「棺桶みたいだね」

「ちょっとまってよ、なんでおれが殺されなくちゃいけないんだよ!」

 なんで? と、美甘さんの声がとがった。

「なんでじゃねえよ、市川くんは女子便のぞいたじゃん」

「それは……」

「あたしのだってのぞいたじゃん」

 美甘さんは拳銃を構えたまま、こちらへ距離を詰めてくる。

「なに? 殴られただけで許されたとかおもってんの?」

「あの、ごめん、ほんとにごめん」

 ぼくは降参だというように両手をあげた。トイレをのぞいたことは心から反省している。

「この銃を拾ってから、一度いきものに向けて撃ってみたかったんだあ。でも動物とか撃つのはありえないし、できれば人間がいいっておもってた。それもすっごい悪いやつをね。だから学校にも来るようになったんだよ? 悪い奴さがすために。そんなときに市川くんにトイレのぞかれたの」

 その気迫に気圧されて、ぼくは後退りする。

「動くなっつってんじゃん!」と彼女は叫んだ。

「そこ座れよ」

 ぼくは命令されるまま地面に両膝をついた。

 美甘さんは銃口を突きつけ、ぼくを見下ろす。黒いストッキングに包まれた華奢な両足とコンバースのスニーカーが目のまえに並んでいた。不意に、『ミカモ』とサインペンで書かれたうわばきが脳裏にうかぶ。こんな状況だというのに、あのときのトイレの光景が思い出された。ふわふわと浮かぶ真っ白いおしり。同時にぴくりと陰茎が反応する。

「土下座して」

 つめたい声が降ってくる。

「え」

「土下座しろっていってんの」

 おろおろとまごついていると、「早くして!」と怒鳴られる。

 ぼくは正座し、両手をついた。

「はやく!」

 ゆっくりと土の上に額をつける。

 美甘さんの屈んだ気配がした。石鹸のようないい香りがふわりと鼻孔をくすぐる。

 後頭部に硬いものがあたる感触。

 銃口を押し付けられている。

 そこではじめて恐怖を感じた。

 美甘さんは本気だ。ぼくはほんとうに殺されるかもしれない。

「市川くんの人生はここでおしまいだね」

 いっさいの言葉が出ない。全身が硬直する。ちょっとでも動いた瞬間、撃ち殺されそうな気配。

「ねえ、たすけてほしい?」

 訊ねられ、ぼくは「……は、はい」とちいさく頷いた。

「じゃあ、あやまって」

 やわらかな声で彼女はいった。「あたしにごめんなさいして?」

「……ごめんなさい」

 ぼくはうめくようにあやまる。

「なに。誰に謝ってんの」

「……美甘さん、ごめんなさい」

「それはどうして?」

「じょ、女子便をのぞいて……」

「なにをのぞいたの」

「……み、美甘さんのを、あの、のぞいてしまって……」

 銃口をぐいっと押し付けられる。

「『女子便所のぞいて、すみませんでした』でしょ?」

「……女子便所をのぞいて、すみませんでした」

「『おれはうんこ見て興奮しちゃう、ど変態のゴミクソ野郎です』」

「……お、おれはうんこ見て興奮しちゃう、ど変態の、ゴミクソ野郎です」

「『薄汚えチンコおっ立てて、生きる価値もございません』」

「……あの、きたねえチンコおっ立てて、い、生きる価値もございません」

「もっとおっきな声でいえ!」

「汚いチンコおっ立てて、生きる価値もございません!」

「『うんこでキチガイオナニーしてごめんなさい』」

「うんこでキチガイオナニーしてごめんなさい!」

「きこえないっ!」

「うんこでキチガイオナニーしてごめんなさいっ!」

「きこえねえんだよっ!」

「うんこで! キチガイオナニーして! ごめんなさああいいっ!」

 情けない叫び声が山中に木霊する。

「ばーか!」彼女は遮断するようにいった。「あんた、そんなことして情けなくないの?」

「……すいません」

「許すわけないじゃん、キチガイクソバカ野郎」

 ぼくは額を地面に押し付け、きつくまぶたを閉じた。

「じゃあね、ばいばーい」

 森の中を一陣の風がとおりぬける。

 木々がざわめき、砂埃と枯れ葉が吹きつける。まるで谷底から沸き上がる獣の咆哮のようだった。

 風が収まると、緊迫した静けさが辺りを支配した。

 長い静寂だった。

 ふと、後頭部に押し付けられた銃口の感触がなくなった。

 美甘さんの立ち上がる気配。

 どうしたのかと、ぼくはおそるおそる顔を上げようとした。その瞬間、おもいきり頭を踏みつけられる。

「まだやめんじゃねえよ」

「ご、ごめんなさい」

 片足で頭を踏みつけられたまま、ぼくはうめいた。

「ばっかじゃない」美甘さんは心底呆れたように吐き捨てる。

「いいよ。今回はとくべつにゆるしてあげる。だけど、市川くんは自分のかわりになりそうな悪い奴をあたしといっしょにさがすこと。いい? じゃなきゃ、今度こそ市川くんを撃ち殺すからね」

 わかった? ぐいっと足に力を込められる。額が地面に埋まってしまいそうだ。

「は、はい……」

 要求の意味がよくわからなかったが、助かりたい一心でぼくは返事をした。

 美甘さんが頭から足を離す。

 ぼくはびくつきながらゆっくりと顔を上げた。

 彼女は拳銃をポシェットにしまうと、こちらに背を向け歩き出した。


 山道をぬけて県道へ戻ってきた。

「ほんとうだったら市川くんはあそこであたしに殺されてたの」

 まるで寝言のような口調だったが、ぼくは「……そうだね」とうなずいた。

「あたしにぶっ殺されて、死体を冷蔵庫に入れられて、つぎ蓋あけたらどろどろに腐ってたね。ブサイクな市川くんがもっとブサイクになってたね」

「う、うん」

「っていうことは、いま市川くんがこうやって生きてられんのも、あたしのおかげじゃない?」と、こちらをふりかえる。

 なにもこたえられない。

「だから、これからの市川くんは、あたしのおかげで存在してるってことだよね。あたしの温情に支えられて、市川くんはしょうもない人生を歩んでいくってことだね」

 ぼくはとぼとぼと、なんだか上機嫌の彼女についていく。

 ここまでくるときは緊張と高揚感いっぱいで気づかなかったけれど、いま冷静になって美甘さんのことをみていると、いろいろ気づくことがある。

 どうやら彼女は暗がりにおびえているようなのだ。森を進むときにどこか及び腰だし(まあ、山道で足場がわるいこともあるけど)、ちゃんとついてきているか心配なのか度々ぼくをふりかえるし、森のどこかでなにかの音がすると、びくりと肩をすくめ素早くそちらに懐中電灯のひかりを向ける。

 月が明るかったとはいえ、真夜中の森の不気味さにかわりはない。暗い場所がこわいのだろう。ちょっと乱暴で、なにを考えているのかよくわからないけれど、やっぱり中学生の女の子なのだとすこし安堵した。

 月は夜空の頂上までのぼりきり、ふたたび地上へゆっくりと落下している。すこし冷たい夜風に吹かれながら、ガードレールから米軍施設を眼下に見下ろす。そのきらびやかなオレンジ色をみつめていると、なんだかほっとした。死の淵から生還してきたような気分だった。

「市川くんをあたしの『ひみつ倶楽部』のメンバーにいれてあげる」

 とつぜん美甘さんがいった。

「ひみつ倶楽部……?」

 ぼくが問いかけると、彼女はうなずいた。

「それって、なに」

「この鉄砲をつかって、悪い奴をやっつける、秘密結社」

 ふっ、とおもわず口から空気がもれる。

「なにがおかしいの」

 美甘さんの声がとがった。

 ぼくはあわてて首を横にふる。

「メ、メンバーって、ほかに誰かいるの」

「市川くんが下僕一号」

 なんといったらいいのかわからない。

 集合場所のファミリーマートまで戻ってくると、美甘さんは別れの挨拶もなく、そそくさと歩いて行ってしまう。

 そのまま白い背中が夜に溶けていった。

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