女子便女のぞき

 次の週の土曜日だった。

 放課後、ぼくは四階の廊下へ向かった。

 吹奏楽部が演奏する金管楽器の音色が人気のない廊下に響いている。

 廊下の端、西階段の側にそのトイレはあった。この階には第二音楽室のほかに、四組ある三年生の教室が並んでいる。しかし今は、どの教室の生徒たちも部活で出払っていた。この時間この場所のトイレを利用する人間は音楽室にいる吹奏楽部の部員たちだけだろう。

 ぼくは、しばらく階段の踊り場の隅に隠れて周囲の様子をうかがった。誰もトイレに出入りしないのを確認すると、意を決して女子便所のドアを開けた。

 個室が五つ並んでいる。いちばん奥、五番目のほかよりちいさな個室が掃除用具入れだ。中にはデッキブラシとモップ、金バケツが置かれ、底の深い洗面台が据えられている。人ひとりならなんとか入り込めそうだ。ぼくはすばやく身体を滑り込ませ、ドアを閉めた。

 ――やってしまった。とうとうやってしまった。

 緊張で心臓が荒々しく脈打ち、息が詰まるおもいだった。

 用具入れのドアは外側にしか取っ手がなく、磁石で閉まるような簡素なドアだった。もちろん内鍵なんてついていない。誰かに開けられたらおしまいだ。

「いいや、開けるわけないね」

 以前、女子便所をのぞいて可愛い子のまんこを見ようと作戦を立てたときだ。野田芳樹はそう断言した。

「いっちゃんはさ、ションベンするとき、掃除用具入れの中なんか見る?」

 ぼくが返答するまえに、彼は「みないでしょう!」と唾を飛ばした。

「掃除の時間以外にあそこをわざわざ開けるやつなんて、おれはいないとおもうね」

 野田は偉そうに短い足を組む。

「シロウトはびびって、ふつうの個室に隠れちゃうだろうね。中から鍵がかけられるし、安心だから。だけどさ、よく考えてみろよ。ひとつだけいつまでもドアが閉まってたら逆にあやしくね?」

「じゃあさ、定期的に隠れる個室を移動したら?」

「そんな出たり入ったりしてたら、発見されるリスクが増すだろ」

 そういうものかと、ぼくは相槌をうった。

「それと、個室が四つあって、ひとつが塞がってた場合、そのとなりの個室には入らないだろ、たぶん」

「どうして」

「おれたちだってションベンするとき、隣同士でくっついてしねえだろ? 小便器一個分、間隔あけるじゃん。女子もそれと同じだとおもうんだよね。あたりまえだけど、自分が隠れてる個室のとなりに入ってもらわなきゃのぞけないわけ。その点、掃除用具入れだとその心配はないの。まさか中に人が入ってるなんて思うわけないんだから。むしろほとんどのやつが、用具入れのとなりの個室に入るんじゃないの」

 どうして、とぼくはくりかえした。

「トイレのいちばん奥にあるからだよ。心理的に、ひとは奥まったところのほうが安心するんだよ」

 根拠なんてなにひとつないのに、妙に説得力のある口調でこたえる。

「どう? 人間心理をついた、すばらしい作戦だろ」

 野田芳樹はしたり顔でいった。

 衝立の下にわずかな隙間があり、そこからとなりの個室をのぞくことができる。ぼくは試しに汚い床に頬を近づけ、その隙間に顔を寄せてみた。すぐ目の前に和式便器がみえる。

 たしかに野田の言うとおり、のぞきをするには絶好の場所なのかもしれない。

 しかしぼくの目的は水谷紗希子、ただひとりなのだ。だれでもいいわけじゃない。水谷さんのまんこを見るためには、彼女に四つある個室の中から、出入り口から数えて四番目、掃除用具入れのとなりの個室に入ってもらわなければならない。四分の一の確率だ。

 さらに実際のぞいてみてわかったことだが、和式便器の金隠しがあちら側を向いている。もしのぞきに成功したとしても、彼女のまんこではなく、おしりしかみえないかもしれない。それならば、おしりの穴だっていい。

 とにかく、まだ小山田もみたことがないものを、このぼくがまっさきに見てやるんだ。ぼくがいちばんに水谷さんのまんこやおしりを見れば、小山田は二番だ。どうやったてそれはくつがえらない。水谷さんが人生ではじめてまんこを見せる男がぼくになるんだ。小山田なんかじゃない。

 胸の昂りをどうにか静め、暗がりにうずくまり、息を整える。

 そうして、ようやく落ち着いてきたときだった。さっそく誰かがトイレに入ってきた。

 どうやらふたり組らしく、楽しげな話し声が響く。

 ふたたび緊張がはしり、身体が強張った。

 前述のとおり、いろいろと計算して隠れてはいるけれど、やっぱり不安は拭えない。もし見つかってしまったら一巻のおわりなのだ。そんな危うさを考えると、あらためて自分が取り返しのつかない、とんでもなく愚かな行為をしているのだと思い知る。だけど、もう後戻りはできない。

 ひとりが用具入れのとなりの個室に入った気配がした。話し声からして水谷さんではないとわかってはいたが、念のため、息を殺して衝立の隙間をのぞいてみる。

 足が和式便器を跨ぐところだった。うわばきのかかとには『橋本』と書かれている。それを確認すると、ぼくはすぐさま隙間から顔を離した。水谷さん以外のまんこを見る必要はない。

 用を済ませた彼女たちは洗面所でなにやら短く会話したあと、トイレから出て行った。

 なにごともなかったことに胸を撫で下ろす。

 放課後はぼくも部活があるため、便所に隠れていられるのはせいぜい二時間程度だ。それだって、毎日二時間も部活を遅刻するわけにはいかない。だから、週に一日、二時間までと決めることにする。そして平日より部活の活動時間が長い土曜日がいいだろう。目的を達成するまでなかなかの長期戦になりそうだ。

 ぼくはきゅうくつな体勢をできるだけ楽になるよう身体を動かした。

 薄暗くせまい用具入れの中こうやって清掃道具といっしょにうずくまっていると、なぜか心が凪いでいくような感覚に包まれる。ぼくみたいな意気地のないやつは、じめじめした場所が性に合っているということだろうか。ぞうきんの黴臭いにおいがすこし気になるけれど、教室なんかにいるよりよっぽど気分が安らぐ。

 用具入れの吹き抜けから、ぼんやりと天井を見上げた。やわらかい午後のひかりとともに、吹奏楽部が演奏する軽快な音楽が降り、校庭の活気にあふれたざわめきが湧き水みたいに染みてくる。それら音のさざなみに身を委ねると、まるでゆりかごの中で微睡んでいるようだった。

 どのくらい時間が経っただろう、さきほどの『橋本』という女子たちのあとに、ひとり生徒が入ってきたが、となりの個室を使用しなかった。それからは一度もトイレのドアはひらかれていない。

 ぼくは静かに息をついた。

 そろそろ部活にいこうか。できれば顧問の先生が顔を出すまえに戻った方がいい。そうおもって腰を浮かせたとき、ふたたびトイレのドアのひらく音がした。誰かが入ってきたようだ。

 やっぱりみんないちばん奥を好むのか、その女子も用具入れのとなりへ入ってきた。

 ぼくは地べたに這いつくばり、衝立の隙間を慎重に覗き込んだ。うわばきを確認する。

 そこに書かれたなまえを目にして心臓が跳ね上がった。

 華奢な白い足が和式便器をまたぐ。衣擦れの音。スカートを捲り上げて、下着を脱ぐ気配。

 ぼくは激しく動揺していた。

 呼吸は浅く、ゆびさきが細かくふるえている。

 うわばきに書かれたちいさな文字は、カタカナで『ミカモ』とあった。『ミカモ』とは、とうぜん『美甘』のことだろう。そんなめずらしい名字、この学校にはひとりしかいない。

 美甘優だ。

 どうして? どうして彼女がこの階のトイレへやってくるんだ?

 だめだ。見ちゃいけない。ぼくの目的は水谷紗希子なのだ。

 それなのに、どうしても目を離すことができない。

 眼前に陶器のような真っ白いおしりが浮かんでいた。それは薄くはしる青い血管が確認できるほど間近にあった。

 美甘さんのおしりは和式便器の上を白く発光するようにふらふらと浮かんでいる。まるで異形の空飛ぶ円盤のように。ぼくは息を殺し、瞬きするのも忘れ、血走った目で彼女のおしりを凝視した。

 そして次の瞬間、起こった出来事におもわず声をあげそうになってしまった。

 美甘さんのおしりからグロテスクなものがひり出されたのだ。

 太くいつまでものびて、やっとのこと便器に落下したそれは、彼女のおとなしい容姿からはまるで想像もできないくらい不格好で、重たげに横たわったのだった。

 おしっこの音がきこえ、からからとトイレットペーパーのまわる音がした。ペーパを手にしたてのひらがおしりを丁寧に拭いている。

 やがて、ふわりとおしりが上昇して視界から消えると、『ミカモ』と書かれたうわばきの足が水洗のレバーを踏みつけた。騒々しい水音が響く。

 すべてが終わって美甘さんの気配が完全に消えても、ぼくは放心してしまい、そこから動けないでいた。皮を被った陰茎は鉄のように硬くそそり立って、そのまま射精してしまいそうなほど熱く脈打っている。どうにも我慢ができず、ぼくはズボンのファスナーから屹立したペニスを出し、きゅうくつな体勢のまま我も忘れてそれをしごいた。興奮で息が荒くなるのも構わず、あっというまに絶頂がおとずれ、勢いよく精液を放った。

 声が漏れてしまいそうなほどの快感だったが、とたん、虚脱感とともに強烈な自己嫌悪におそわれる。

 人として最低なことをしてしまった。あげくに自慰までしてしまった。しかも、水谷さん以外のぞかないと決めていたのに、なんの関係もない美甘さんのをのぞいてしまった。てのひらには生温かい体液がべっとり付着していて、ぼくはうんざりとした溜め息をつく。罪悪感と後悔の念があたまを擡げる。

 長時間、狭小な場所にうずくまっていたうえに、射精後の恍惚感でなんだか足に力が入らない。それでもなんとか立ち上がり、女子便所からの脱出を試みる。

 失敗はゆるされない。忍び込むよりそこから出て行くほうがずっと難易度が高いのだ。

 掃除用具入れから出て、女子便所いりぐちのドアをうすく開けた。おそるおそる廊下を確認する。

 だいじょうぶそうだ。ひとの気配はしない。

 ぼくはすばやく、だけど慎重に廊下へ出た。

 一刻も早くこの場を離れたい。足早に階段へ向かう。

 そのときだった。

「ねえ」

 出し抜けに間近で声がした。飛び上るほど驚いてふりかえる。

 踊り場の陰から美甘優があらわれた。

 ぼくは短い悲鳴をあげる。腰を抜かしそうになった。

「あんた、なにやってんの」

 つめたい声が踊り場にひびいた。

 ぼくは地上に打ち上げられた魚のごとく、目を見開きあわあわと口をパクつかせる。

「いま女子便から出てきたよね」

 醒めた表情で彼女はいった。眉間には深い皺が刻まれている。

 喉の奥から気の抜けた音が漏れた。なにも言葉は浮かばない。額に汗が滲んでいるのに、背筋は凍えたように寒かった。

「なにしてたの」

「え? あっ、なにが……?」

 しどろもどろにとぼけてみせる。

「なにがじゃないよ。女子便でなにしてたの」

 ふと、ぼくの手元に視線を落とす。

「べつに、なんもしてないけど……」

 ぼくは精液で汚れたてのひらを背中に隠した。

「ねえ、もしかして、……のぞいてた?」

 美甘さんはちいさく首を傾げ、こちらに近づいてくる。

「え、なにを?」

 ぼくは廊下側へ後退りする。

「見たの?」

「だ、だからなにを?」

 そう答えると、えのぐが流れ落ちるように彼女の顔から表情がきえた。

 次の瞬間、平手がぼくの左の頬を打った。

 眩暈がするほどの衝撃。

 息をつく暇もなく右の頬も打擲された。乾いた音がこだまする。

 あまりのことに声を出せずにいると、美甘さんは両手を顔のまえに構え、こぶしを握った。まるでボクサーのような体勢で軽快なステップを踏み出すと、戸惑うぼくにワンツーパンチを打ち込んだ。

「いたいっ!」

 それだけでは終わらない。吹奏楽部が演奏する軽快な音楽に合わせるように、シュッ、シュッとぼくの顔面や胸、腹に全力でこぶしを突き立てる。

「ちょっ、ほん、痛い!」

 さらにはスカートをひらりと翻し、豪快なハイキックもくわえる。

「いった!」

 ついで、姿勢を落としてのボディブロー。

「ごめんっ、いっ! 痛い!」

 何発も打ちこまれる攻撃の一発が股間に命中して、ぼくは呻きながら膝をつく。容赦なく床に転がされ、リンチのように蹴りを浴びせられる。全力で踏んづけられる。

「痛い! あぅっ! やめっ、もうやめてえ!」

 女々しい悲鳴をあげる。

 たしかにぼくは最低なことをしでかした。どんなことをされても仕方がない。だけど、それにしても美甘さんって、こんなに好戦的な女の子だったのか。こんなに凶暴な感じだったのか。ぼくが思っていたおとなしい美甘優のイメージとはぜんぜん違う。

「ねえ、ほら、立って?」

「いててて……」

 美甘さんは、地面に芋虫のようにまるまっているぼくの髪の毛を乱暴につかみ、無理やり立たせた。さすがに疲れてきたのか「はあ、はあ」と息が乱れている。

「はい、そこに立っててね」

 彼女は後ろ歩きでぼくから離れてゆく。

「動いちゃダメだよー?」

 行為とは裏腹に口調だけは可愛らしい。

 わけがわからず遠ざかっていく彼女をみつめる。全身がひりひりと痛み、金的をされたせいで微かに吐き気がする。

 ある程度下がったところで、美甘さんがこちらへ向かって地面を蹴った。短距離走のような全力疾走。ぼくはおもわず身構える。彼女は全力で駆けてくると、ぼくの目の前でジャンプした。

 華麗な跳躍。

 はっと息をのんだ次の瞬間、鳩尾に跳び蹴りを食らい、ぼくは尻もちをつき、無様にひっくりかえった。

 美甘さんは肩で息をしながら、「ばーか! 死んじゃえ!」と吐き捨てる。踵を返し、階段を駆け下りていった。

 ばたばた反響した足音が遠ざかっていく。

 ぼくはひとり、踊り場に残された。

 学生服は乱れ、埃まみれ。頬は腫れぼったく、くちびるの端がひりつく。耳は焼けつくように痛み、手の甲は擦り切れて、うすく血が滲んでいた。

 満身創痍で床に尻をついたまま、廊下の向こう側を茫然とみつめる。

 廊下の窓からたっぷりと西日が射し込み、それをリノリウムのつやつやした床が照り返していた。まるで床そのものが発光しているようだった。そのひかりを眺めていると、突拍子もなく笑いが込みあげてきた。

 傷だらけであちこち痛むのに、なぜかふしぎと清々しい気分だった。

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