クソムシ
ぼくを精神的にいたぶり、笑い者にしたいだけであって、まさかほんとうにお金までは奪わないだろう。そんな淡い希望をもっていた。実際、あれから何事もなく日々はながれていたからだ。
しかし、それも希望的観測にすぎなかった。そんなに現実は甘くはない。
「っはい、ドーーーーン!」
休み時間、トイレから教室へ戻る途中、『ごっつええ感じ』の松本人志を真似た叫び声とともに、とうとつに二の腕をおもいきり殴られた。
「おまえさあ、ふざけんなよ?」
飯島健吾が薮から棒に喚いてきた。
「そうだ、そうだ」と、平岡亘。
となりでは小山田慧が、にやにやと微笑をうかべている。
「ちょっと来い」
そう促されて、ぼくは人気のない階段の踊り場まで連行された。
「おまえ、ケイからスラダン貰ったんだろ? ちゃんと金はらったのか?」
まるでお説教でもするように平岡がいった。
「……払ってない」
「へええ!」といったあと、飯島健吾はぼくの脛を小刻みに蹴りつける。「そりゃ困っちゃうよ。それじゃ泥棒じゃね? 人様のマンガぱくってさ、それって泥棒じゃね?」
「……だったら、返すよ」
例のスラムダンクの単行本は、つくえの抽斗に入れっぱなしにしてあった。いますぐにでも返すことができる。
「きみはバカなの?」
小山田が額を掻いた。「きみの汚い手垢とくっさい屁が染みついた中古品なんて返品不可能なんだよ」
反論する気力もなかった。なにも考えたくない。とにかくこの不快なやりとりを早急に終わらせたい一心だった。そのためなら、もうなんだっていい。ちょうど財布に千円札が入っていたので、ぼくはそれを小山田に差し出した。
すると、彼は困ったような表情でためいきをついた。「あのさあ」と、さらさらした髪をかきあげる。
「あれからどんぐらい経ってるとおもってんの? なんか一週間もシカトしてたじゃん。利子がついてんだけど」
ぼくは彼をみつめる。
「利子がついて三千円」と小山田はいった。「つーか、社会の常識だよね? そんなの」
ぼくはうつむき、押し黙った。
いったいどういった計算で三千円にもなるのか。そもそも、どうしてそんなお金を支払わなくちゃいけないのか。
悶々と思いをめぐらしていると、不意に「なに?」と飯島が不機嫌な声を発した。
ぼくに向けてじゃない。
美甘優だ。
ちょうど上の階から下りてくる途中で立ち止まり、無表情にぼくたちのやりとりを眺めている。図書室にでも行ってきたのか、片手にハードカバーの本を抱えていた。
「なんだよ?」
飯島がくりかえす。
彼女は無言で、すこしだけ高い位置から彼を見下ろしている。
「おい、なに見てんだよ、ブス!」
飯島は悪態をついたが美甘さんは怯まない。視線をぼくに移した。
じっとみつめられ、ぼくは顔をそらす。
小山田は不思議そうな表情で、美甘さんの横顔をみている。それに気づいた彼女も彼を見返す。お互い無言でみつめあった。
ふたりはまるでなにかを語り合うように、しばらく目を合わせている。
ほどなく、小山田は飯島の肩をかるく叩いて促し、こちらに背を向けた。
美甘さんに喝上げまがいの行為をまじまじ観察されて気まずくなったのか、それとも一連のやりとりにただ飽きたのか、三人はそれ以上なにもせず、そのまま引き上げていった。
ほっと胸を撫でおろす。
美甘さんのおかげでとりあえずこの場は凌げた。感謝のきもちで美甘さんに視線を向ける。彼女はぼくの目の前を素通りし、何事もなかったかのように踊り場から立ち去っていった。
土曜日は三時間の短縮授業で、昼から下校時刻の十七時(夏季は十八時)まで部活動だ。
給食がないため、弁当を各自で持参する。土曜日の昼食の時間に限って、親しいともだち同士でつくえを寄せ合わせることが許されている。いっしょにお弁当を食べる相手がいないぼくには関係のないことだけど。
となりの美甘さんは席を外していた。もう部活に行ってしまったのだろうか。そういえば何部に所属しているのだろう。いや、そもそも彼女は部活動に参加しているのだろうか。
そんなことを思いながら、お弁当を取り出そうとスクールバッグの中に手をいれる。
しかし、そこにあるべきお弁当が見当たらない。
持ってくるのを忘れてきてしまったか。
いや、そんなはずはない。三時間目の授業がおわって教科書をバッグにしまったときに、しっかり入っていたのをちゃんと覚えている。
「どうしたの」
スクールバッグをひっくり返して途方に暮れていると、背後から声をかけられた。
小山田慧だった。またもや飯島健吾と平岡亘がいっしょだ。
「べつに」と、ぼくはそっぽを向く。
今度はなんだ。うんざりとした気分になる。
「なんか探してる?」
「いや、べつに……」
ぼくはぶちまけた荷物をあわててバッグに戻す。さっさとこの場から退散しなければ。
「なんだよ、どうしたんだよー」
飯島は芝居がかった口調で、くちびるをにやつかせている。
その顔をみて腑に落ちた。
こいつらの仕業なんだ。
こいつらがぼくのお弁当をどこかに隠したんだ。
「……おれのお弁当がない」
ぼくはふるえる声でいった。
「弁当?」と小山田は驚いた表情をした。「なにいってんの、きみ、さっき食べてたじゃん」
「え」
「忘れちゃったの? さっき食べてたろ」
なあ? と飯島と平岡をふりむく。
「食べてた、食べてた」と、ふたりはおおげさにうなずく。
「なくなったんじゃなくて、きみがぜんぶ食べちゃったんだろ?」
ぼくは呆気にとられ、彼らの顔を交互に見やった。なにを言っているのかさっぱりわからない。
「おぼえてないのかよ?」
おいおい、しっかりしてくれよ、とでもいうように小山田はいった。
「そんで、よっぽど不味かったのかしらないけど、ゲロ吐いてたじゃん」
「そうそう、マジきったねえよなあ」と飯島が合いの手をいれる。
まずくてゲロを吐いた? どういうことだ。ますます頭が混乱する。
「とにかく、ちょっときてみろって」
そういって、飯島はぼくを蹴飛ばし促した。
ついて行った先は男子便所だった。
そこ見てみろよ、と小山田は個室を指さす。
嫌な予感。その時点でなにがあるのか、なんとなく予想できた。
おそるおそる個室の中をのぞき、ぼくは愕然とした。
地面にぼくの弁当箱が散らばり、中身はすべて和式便器の中に捨てられていたからだ。
黄色い卵焼き、ウインナー、ミニハンバーグ、サラダ……、すべて母親の手づくりだ。彼女がぼくのために作ってくれたごはん。そぼろや炒り卵、桜でんぶで彩ってくれたごはんもめちゃくちゃになって、便器の中、汚物のように積もっていた。
「いくら弁当がまずいからって、ゲロ吐くなよ」と、小山田はへらへらと笑った。「ちゃんと掃除してけよ、きったねえ」
早朝、台所に立つ母親の背中が思い浮かんだ。
パジャマにエプロンをかけ、一生懸命に料理をしていた。
「……なにすんだよ」
怒りで目のまえが白く霞む。
「はあ?」と、飯島がおちゃらけて首を傾げた。
ぼくは涙をにじませ声を荒げる。
「ふざけんなよ!」
「はああああんっ?」
飯島はおちょくるような調子で大声を張り上げた。眉毛をハの字にし、両目を鼻に寄せ、舌を出し、まるでにらめっこでもするかのような間抜け面をぼくの眼前に突きつける。それをみた小山田と平岡が、手を叩きながら下品な笑い声をあげた。
あまりのことに身体が硬直して動かない。
「だいじょうぶ? よっぽどまずかったんだね」
小山田が穏やかな口調で、まるで気遣うように訊ねてくる。「なんだろうね。どうして、きみの弁当はゲロまずなんだとおもう?」
口を固く結んでいると、ねえ、おしえてあげようか? と、ぼくをのぞき込む。
「それはね、きみみたいに、人様に物をいただいておきながら金も払わないクズ野郎を生んだ、最低な母親がつくった弁当だからだよ。昼間っから酒なんか飲んでるカスがつくった弁当だからだよ。な? だから、クソまずくてゲロ吐いちゃったわけ。わかる?」
なにも言えなかった。ほんのちょっと声を出した瞬間、号泣してしまいそうだったから。
「そのとおりだよ、きみ」平岡がぼくの肩をたたく。「きをつけようね!」
その瞬間「あっ」と声を発する。しまったとでもいうような表情で、ぼくの肩に触れた手を飯島の背中にぬぐった。まるで汚物に触れてしまった手をなすりつけるように。
「きったねえな! おまえ、なにしてんだよ!」
飯島はおおげさに喚き散らし、なぜかぼくの頭を殴る。
そこで三人が爆笑した。
「とにかく掃除しといてね、つまっちゃうから」
小山田はドアを乱暴に蹴り開け、飯島と平岡といっしょに男子便所から去っていった。
和式便器のまえで膝をついたまま、ぼくは打ちのめされていた。
喉奥に重たいものが込み上げ、それこそほんとうに胃の内容を吐瀉してしまいそうだった。
ぼくは自室のつくえの抽斗から、アルミの箱をとりだした。ビスケットの空き箱だ。これまでもらったお年玉やおこづかいを、この箱の中に入れてこつこつ貯めたきた。たまにゲームソフトやエッチな雑誌を買ってしまうから、そんなに多くはないけれど。
そこから紙幣を何枚か抜いて、翌日、そのお金をそのまま小山田に手渡した。彼はそれを受け取ると、「よしっ!」とまるで軍隊の号令のように短く叫んだ。
意気消沈して帰宅すると、母親はリビングでテレビゲームをしていた。プレイステーションを買ってもらってから使わなくなってしまったスーパーファミコン。ぼくのおさがりだ。彼女はいい大人なのに、テレビゲームがすきだ。とくにパズルゲームがお気に入りだった。
このときも、たばこを吸いながら『ぷよぷよ』に夢中になっていた。台所ではなにかを煮込んでいるらしく、食欲をそそる香りが漂い、せわしなく回る換気扇の音がきこえる。夕食の支度の合間にゲームをしているのだった。
「きみみたいに、人様に物をいただいておきながら金も払わないクズ野郎を生んだ、最低な母親がつくった弁当だからだよ」
小山田の声がよみがえる。
彼女は、ぼくのほんとうの母親ではない。
ぼくを生んだ母親は、テレビゲームなんかに興味を示すようなひとではなかった。むしろ嫌悪していた。ゲームになんか夢中になろうものなら、頭が悪くなるだの視力が落ちるだのさんざん叱責されただろう。母親じゃなくても、大人ならあたりまえの反応だ。
だから彼女がゲームに興じている姿には、とてもおどろかされた。最初はぼくに取り入るために、無理してぼくの好きなゲームに興味があるふりをしているのかとおもった。だけど、彼女の『ぷよぷよ』や『ドクターマリオ』の連鎖消しの腕前は付け焼刃で身につくものではない。また、ドラゴンクエストシリーズにも明るく、プレイしていないとわからない情報をすらすらと話したりする。ボミオス、アバカム、トラマナ。これら言葉の意味を理解しているほどだ。
こういう大人もいるんだ。そんな新鮮なきもちだった。
ぼくは母親の背中に「ただいま」と声をかけた。彼女はふりかえらず、「おかえり」と素っ気なくいった。
「お風呂、沸いてるよ」
そんな声もぶっきらぼうにきこえる。
べつに不機嫌なわけじゃない。彼女の口調や仕種が気だるいのはいつものことだ。彼女は終始、倦怠感を漂わせたひとなのである。
これも、いつでもテキパキと行動し潔癖だった生みの母親とは正反対だった。彼女はいつでもかったるそうで、ビールを嘗めながら夕食を作り、紫煙を燻らせながらゲームをした。
一見だらしなさそうに見えるが、決して家事を疎かにはしない。部屋は常に整頓され、洋服は清潔に畳まれて、ほのかな柔軟剤のにおいを放ち、料理はいつでもあたたかく、とてもおいしかった。
お風呂からあがると、すでに夕餉の準備ができていた。
父親の帰宅はいつも九時頃になるため、食卓はたいてい母親とふたりで囲む。だけど、食事をするのはぼくだけということが多い。母親はというと頬杖をついて、じっとぼくを観察するように眺めているのだった。
食事中にじろじろ見られるのは、あまりいい気分じゃなかった。恥ずかしいし、なにより集中できない。
「おかあさんは食べないの?」
いつだったか、そう訊ねてみたことがあった。
すると彼女は、あなたが食べているのを見るのがすきなのだと静かにほほえんだ。
「どうして」
母親はすぐには口をひらかず、ぼくの目をまっすぐにみつめた。黒目がちのおおきな瞳のおくで、ちいさな光がゆれている。
「おいしい?」
ぼくは「うん」とうなずいた。
「ごはん、ちゃんと上手にできたか心配なの、いつも」
そういった声にどこか、ちいさなこどもが大人のごきげんを窺うような色がふくまれていて、ぼくはおもわず吹き出してしまった。
「だいじょうぶだよ、いつもおいしいから」
そうこたえると、彼女は無言でうなずいた。それで納得してくれたのかとおもったが、ぼくをみつめるのをやめない。
黙々と料理を口に運んでいると、ふと呼気のような微かな声がした。
「わたしの作った料理があなたに摂り込まれる」
ぼくは顔を上げた。
「わたしのごはんがあなたをかたちづくるの」
筋肉の一筋になって、血になって、骨を太く頑丈にする。
「わたし、あなたのために愛をこめて、ごはんをつくってる」
気だるそうではあるけど、真剣なまなざしで彼女はいった。
「愛」だなんて、なんだか大袈裟だ。そんなこと面と向かっていわれると、くすぐったい気分になる。だから、おもわず茶化してしまう。
「お酒飲んだり、ゲームしながら作ってるけど……」
彼女はくすりともせず、
「愛の料理には燃料がひつよう」と静かにいった。
どういう理屈かわからなかったが、ぼくは曖昧に頷いておいた。
「わたしのごはんを食べて、あなたは成長してくれてる。ホント、毎日目に見えてたくましくなってるのがわかるの。男らしくなってる。わたし、それを見逃したくないの」
でも……、とぼくはうつむいた。
「おれ、みんなよりガリガリだし、ひ弱そうだし……」
彼女は穏やかに首をふった。
「みんなそれぞれ器がちがうから、比べたって意味ない。よそ見しちゃだめだよ。自分のことをしっかりみつめて。あなたはあなたで、どんどん力強くなっていってる。ほら、今日も昨日よりおおきくなってる」
うそだよ、とぼくは笑った。
そんなことない。そういうように母親は無言で首をふった。
冗談めいた彼女の言葉は、しかし、どこか不思議な魔法が宿ったように妙な説得力をもってぼくの中に響いていた。
それからというもの、食事を母親に眺められることにも徐々に慣れていった。むしろ安心感があるほどだった。
血のつながりのない人間で、こんなぼくに無償のやさしさを与えてくれるのは、この世で彼女だけなのだった。そしてあのお弁当は、そんな彼女がぼくのために愛情を込めてつくってくれた、なによりも大事なものだった。
小山田に言われたからというわけじゃないが、あのあとぼくは便所掃除をした。排泄物を処理する場所にたいせつな食べ物を流すのが忍びなく、便器の中のごはんをビニール袋にかき集め、泣きながらそれをゴミ箱に捨てた。それから、弁当箱は廊下の水飲み場で洗った。レモン石鹸を泡立てながら、とめどなく涙がながれた。鼻水が糸をひいて手もとに滴り落ちる。だけど、そんなぼくのことなど誰も気にとめることなく、楽しげにおしゃべりしながら背後を通り過ぎる。担任の加賀善明先生でさえ、なにごともなく素通りしていった。しかも口笛を吹きながら。
そんなとき、廊下の向こう側に水谷紗希子の姿がみえた。彼女は脇目もふらず足早にこちらへ歩いてくる。ぼくはどきまぎしてしまう。あわてて涙を拭い、洟をすすって、泣き顔をみられないようにうつむいた。その一方で、ねえ、どうしたの? と声をかけてくれないかと、心の片隅で淡い期待もする。
しかし当然ながら、彼女もほかの生徒たちと同様、ぼくの存在なんてまったく視界に入っていないようだ。急ぎ足で横切っていった。
そんなふうに、ぼくには見向きもせず、その存在を認識しているのかさえあやふやな彼女が、ある男子には独占的に笑顔を向けている。それが小山田慧なのだ。その現実をおもうとやりきれない。
いったいあんなやつのなにがいいんだ。
いくら外見がうつくしくても、その本性は無抵抗の者を傷つけ、そのことに喜びを感じ、良心の呵責もない邪悪な人間だというのに。だいたい、彼が水谷さんとそのような関係を築くことができたのも、ぼくの座席を理不尽に奪ったことがきっかけじゃないか。そんなやつがどうして……。
そんなことを悶々と考えていると涙が乾き、嫉妬や憤懣がないまぜになって渦巻く。身体中に真っ黒い気体が充満されてゆくようだった。
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