登校拒否だった女子

 川を跨ぐ橋の歩道を歩いていた。

 くちびるはかさかさに乾燥し、ささくれた皮がマフラーにひっかかる。荒れた上唇を探るように舌で舐めると深い切れ目があり、ほんのりと鉄っぽい血液の味がした。

 橋の下は河川敷で、葉のない毛細血管のような木々が枯れた野に影をおとしていた。川面には朝陽が硝子片を散りばめたみたいにきらきらと輝いている。どこかで焚火でもしているのか、遠くの空に細い煙が立ちのぼり、風に滲んでいた。

 ぼくは学生服のポケットに両手をつっこみ、寒さに背中をまるくした。吐息はまだまだ色濃く、車道を走る自動車の排気ガスがまるでドライアイスを焚いたようにアスファルトのうえをもやもやと流れている。

 教室に入ると、いつものようにうつむきがちに自分の席へ向かう。

 ふと、教室の空気がそれまでの朝と微妙に違うような気がして顔をあげる。

 そこで足を止めた。

 ぼくのとなりの席に女子生徒が座っている。

 見覚えのない生徒だ。

 彼女は姿勢よく席に着いたまま、ぼんやり窓の外を眺めていた。知らぬ間に付着した壁のしみのように地味な女子生徒。それなのに強烈な違和感を教室中に放っている。誰もが知らぬふりを通そうとしているけど、その誰もがもれなく横目で彼女のようすを窺っていた。触れてしまったらさいご、砂の城のように脆く崩れてしまうとでも思っているのか、いつもの日常を壊さぬよう、みんなそろって必死になって、それぞれの役割を演じているようだった。

 ぼくは遠慮がちに彼女のとなり、自分の座席へ着いた。鞄をつくえの上に置き、教科書を抽斗に入れる。その間、彼女は一度もこちらをふりむかなかった。

 やがてチャイムが鳴り、担任の加賀善明先生が教室へ入ってきた。

 朝のホームルームが始まる。担任の口から、とつぜん水槽に放り込まれた色違いの金魚についての説明を期待した。

 しかし、加賀先生はなにも語らず、いつものように出席をとりはじめた。みんなの戸惑いをよそに、彼は黙々と生徒のなまえを読み上げる。何人目かの生徒の点呼のあとだった。先生は「美甘優」となまえを呼んだ。

「はい」

 ぼくのとなりの女の子がちいさく返事をした。

 同時に教室の空気がほんの一瞬だけざわついたように感じた。

 やっぱり、彼女が登校拒否の美甘優なのだ。

 けっきょく先生は最後まで彼女についての説明をしなかった。あえてそうしたことで、美甘さんがへんに気負わないよう配慮したつもりなのだろうか。

 それは各教科の教師たちも同様で、彼女のことに触れることはなく、いつものように授業を行った。

 美甘さんはほかの生徒と変わらずふつうに授業を受けている。デブでぶさいくだという噂があったけれど、まったくそんなことはない。むしろ華奢で小柄だし、水谷さんほどではないけれど、けっこう可愛い。

 さらさらとノートに文字を書く音がきこえる。彼女はシャーペンではなく、えんぴつを使っていた。紙には力強くしっかりとした文字が刻んである。硬筆でも習っているのか、とてもきれいな字。

 給食の時間、ぼくは美甘さんと向かい合わせに席をつけた。給食は六人で一斑とし、座席を向かい合わせにする。今まで彼女が欠席していたので、ぼくの席だけ島のでっぱりのようになっていた。

 こうやって誰かと向かい合って給食を食べるのはひさしぶりだ。ぼくはコッペパンを齧りながら、美甘さんのことをそっと盗み見るように観察した。

 美甘さんは髪を耳のうしろで押さえ、中華スープを啜っていた。黒々とうねった長い髪をまんなかで分けて両側に流し、白い額を露わにしている。太くて濃いめの眉毛の下で、くっきり二重の幼い目つきがまばたきしている。目じりとほっぺたにはちいさなほくろ。ぽってりした桃色のくちびる。ずっと登校拒否だったと言われれば、なるほど、すこし翳りのある風貌だった。

 不意に彼女と視線が合い、ぼくはあわてて目を逸らす。

 その日だけきまぐれで登校してきたのかと思いきや、彼女はそれから毎日きちんと教室へやってくるようになった。だけど、クラスのだれかと会話をしている姿をまだ一度もみたことがない。淡々と授業をこなすだけで、休み時間になっても自分の席にぼんやり座ったまま、誰かに積極的に声をかけようとする意思はまったく感じられず、また、彼女に話しかけようとするクラスメイトもいなかった。当然ぼくも、美甘さんと一度も言葉をかわしていない。

 にぎやかな教室の片隅、ぼくと美甘優は、ほこりをかぶった置物のようにぼんやり席に着いていた。休み時間だからといって、なにもすることはない。野田芳樹以外にともだちと呼べるような人間がぼくにはいなかった。

 それはどうしてなのだろう。

 今までぼくは自分が嫌われる原因を、外見や雰囲気、引っ込み思案な性格の所為だと考えてきた。しかし、そればかりではないのかもしれない。ぼくの心の汚さが無意識のうち外側へ滲み出し、ときに人を不快なきもちにさせているのかもしれないのだ。蔑まされ、嘲笑され、嫌われる。ぼくの置かれたこの状況は、すべて自分の不浄さから起因されたものなのかもしれない。

 そうだとしたら、ぼくはいったいどうすればいいのだろう。これまで以上に気分は暗澹とし、まるで淀んだ沼の底に沈んだようだった。

 そんなときだ。

 とつぜん、つくえの上になにかが激しく叩きつけられた。その凄まじい勢いに、ぼくは飛び上るほど驚いた。

 それは『スラムダンク』の単行本の十八巻だった。叩きつけられた衝撃でカバーがはずれかけている。

 なにごとかと顔をあげると、小山田慧が立っていた。感情のない顔でぼくを見下ろしている。

「それ、きみに売ってやるよ千円で」

 呆気に取られ、小山田の顔と机上の漫画本を交互にみる。

「持ってんのに間違って買っちゃったんだよ。二冊もいらないじゃん」

 抑揚のない言葉が降ってくる。

「……い、いいよ。いらないよ」

 ぼくはやっとのことで掠れた声を発した。

 もともとスラムダンクは読んでいないし、どうせ読むのなら一巻から順に読んでいきたい。十八巻から読んだって内容がわからない。そもそも、どうして千円なのか。単行本ならふつう、五百円玉でおつりがくる値段じゃないか。

「じゃあ明日までに千円もってきてね」

 断ったのにもかかわらず小山田はそう言い放つと、ぼくの席から離れていった。

 唖然と彼の背中を見送りながらも、胃が焼けるような怒りがじわじわと沸いてくる。

 なんだよ。

 なんなんだよ、こいつは。

 ぼくは単行本を手に席から立ち上がると、憤然と彼を追いかけた。

「ちょっと待ってよ、いらないっていってるだろ!」

 小山田はおかまいなしに悠然と歩いてゆく。

「おいっ!」

 精いっぱい凄んだつもりだったが、実際に出た声はバカみたいに甲高く裏返っている。

「待ってっていってんだろ!」

 そのとき、誰かに足をかけられた。

 ぼくは躓いて、そのまま無様に転倒した。

 そしてその拍子に、なんとも間の悪いことに、よりによってこんな場面で、放屁した。倒れた拍子に盛大な音をたててオナラをしてしまったのだ。「ぶびっ」という滑稽な音が教室にはじけた。

「えっ? なにこいつ、屁こいた?」

 その瞬間、周囲から爆笑が沸き起こった。

「きったねえ!」

「ちょ、マジにおってきたんだけど!」

「くっせー!」

「っていうか、なんなの、こいつ?」

 クラスで見向きもされない道端の石ころのようなぼくが、このときばかりはみんなの注目を集め、そして笑顔を提供している。

 嘲笑に囲まれながら、ぼくはのろのろと立ち上がり、制服のほこりをはらった。

 予鈴のチャイムが鳴った。とたん、みんなぼくのことなど瞬時にして興味をなくし、三々五々と席へと引き上げていく。

 ぼくはとぼとぼと自分の席へもどった。そのまま教科書も準備せず、茫然と黒板をみつめる。

 ふと視線を感じて横をふりむくと、美甘優がこちらをみていた。

 なにか言いたいことでもあるのか。ぼくはじっと彼女を見返した。

 彼女はくちびるを結んだまま、瞬きもせずこちらをみつめている。なぜか目を逸らすこともできず、見つめ合うかたちとなった。彼女の瞳にぼくの輪郭がゆらゆらと揺れている。

「なんで笑ってるの」

 不意に吐息のような声がした。夜、眠りにおちる寸前、夢と現実の狭間できこえてくるような、ささやかな音色。

 ぼくは微かにふるえる手で自分の口元にふれる。

 美甘さんの言うとおり、ぼくはにやにやとくちびるを緩ませていた。

 無意識のうちに。

 ちっともおかしくないのに、ぼくは笑っていた。

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