おかあさんといっしょ(笑)

 水曜日、その日は開校記念日のため学校は休みだった。世間は平日なのに自分の中学校だけが休みというのは、ちょっとだけ優越感に浸れる。

 繁華街や遊戯施設が土、日ほど混雑していないので、この日を利用してともだちで集まり遊びにでかける生徒たちがいる。子供たちだけで学区外へ出てはいけないと学校側から通達が出ているけれど、それを守っているものは少ない。遊園地へ遊びにいく計画を立てているクラスメイトの楽しげな会話が、つくえに突っ伏して寝たふりをしているぼくの耳にも届いていた。

 なにも予定のないぼくは、母親といっしょに郊外の医療センターにやってきていた。

 さいきん建設されたばかりの近代的な施設。ロビーは四階すべてが吹き抜けになっていて、さらに壁一面ガラス張り。たっぷりと陽光を取り込んでいる。

 数年前、母親はある病気に罹患した。いまは完治したが、年に数回こちらの医療センターで検診を受けることになっている。

 ぼくは母親の検診がおわるまでロビーの待合室で待っていた。ブリックパックのコーヒー牛乳を飲みながら、ぼんやり先日の席替えのことを考えていた。

 結局あれからも、小山田慧はだれにも咎められることなく、ぼくの席に座り続けている。

 すでにそこはぼくの席ではないのだ。ぼくは教室のいちばん先頭、登校拒否の女子生徒のとなりの席に座っていた。

 おかげで後ろの女子たちからは恨まれている。彼女らは、ぼくが小山田の席を奪ったのだと思い込んでいた。それは違うのだといくら説明しても、カッコよくて優しい小山田くんがそんなことをするはずがないと、頑なに信じているのだった。その憎悪はほかの女子たちにも伝播し、ただでさえ疎まれていたぼくは、不細工で気持ちが悪いだけじゃなく、卑怯なことをする最低の男子というレッテルを貼られた。

 どうして先生はとつぜん怒鳴りだしたのだろう。どうしてルールを遵守しているぼくが叱責されなければならないのだろう。腑に落ちない気持ちであれこれ思いをめぐらしていると、不意に小学生のときのことを思い出した。

 ミサンガのことだ。

 小学生のとき、サッカーブームとともにミサンガが流行った。刺繍糸を編み込んだ紐を手首や足首に巻きつけ、それが自然に切れたら願いが叶うというものだ。

 そのときのクラスの児童も何人かが身につけていて、ご多分に漏れずぼくも自分のおこづかいでミサンガを購入した。青色のミサンガ。母親の好きな色だった。彼女はさっそくそれを、ぼくの手首に結んでくれた。

「なにをおねがいするの?」

 訊ねられたが、ぼくは曖昧にこたえを濁した。

 その年のはじめに母親は倒れた。救急車で搬送され、おおきな手術をした。あのときの恐怖と不安はわすれない。手術中、うすぐらい待合室で何時間も待たされ、またもたいせつな人を奪われるのかと暗澹とした。

 あんな思いは二度としたくはない。家族を失うのはもうこりごりだ。だから、ぼくはミサンガに願いをかけた。おかあさんが二度と倒れないよう、いつまでも元気でいるように。そして、それが自然に切れる日を夢見て。

 しかしそれはあっさりと、次の日の昼についえた。

 体育の時間だった。その日は跳び箱の授業で児童が次々と跳んでいた。そのとき、体育館の隅に座り込み、児童たちの様子をみていた体育教師がぼくを手招きした。

 なにかと教師のもとへ駆けていくと、彼は無言で自分の手首をとんとんと指を差す。

「え」

 なにを意味しているのかわからない。教師は自分の手首をとんとん差し続ける。どういうことなのかわからずにまごついていると、教師は「はずせ」と短くいった。そこではじめて、ミサンガのことを指しているのだと理解した。

「で、でも……」

 ぼくが口籠っていると、彼はふたたび高圧的な口調で「はずせ。いいから」とくりかえした。学校にアクセサリーをつけてくるなということだろう。確かに派手なアクセサリーだったらいけないとおもうが、ミサンガくらいならいいのではないか。

 いろいろと言いたいことはあったが、気の弱いぼくは抗弁することなく黙ってミサンガを外した。硬く巻きつけていたので手首から抜くように外した。

 ぼく以外にもミサンガを巻いている児童はいるのに、どうしてぼくだけなのか。たまたま目についたのがぼくだったのだろうか。だけど今、ミサンガを手首に巻いた男子児童がたのしげに件の教師と会話している。

 ぼくは彼らを遠くから呪詛するようにじっとみつめていた。

 おい、そいつには外せって言わないのか。どうしてだよ。見えてんだろ、そいつのミサンガ。いいのかよ。注意しないのかよ。

 納得がいかない気分に悔し涙がにじむ。ぼくは外したミサンガを短パンのポケットにねじ込んだ。

 願いをかけたミサンガ。願いが叶うどころか、巻いた翌日に外されてしまった。しかも自分の手によって。

 あのときと同じだった。いつもぼくだけ。いつもぼくだけが責められる。

 深いためいきをついた。

 せっかく水谷さんと隣同士になったのに。彼女と接することができる、またとないチャンスだったのに。もしかしたら、彼女となかよくなれたかもしれないのに。

 だけど、もうあきらめる。

 あきらめるしかない。どうにもならないのだから。


 病院からの帰り、地元駅前の商店街にある中華料理店で遅い昼食をとることになった。

 昼過ぎとあってか、客はまばらでぼくたちは窓際の席へ案内された。

 学生客がターゲットの安くて量が多い大衆料理店で、女の人は少々入店しづらい店構えなのだが、おかあさんはここがお気に入りだった。ぼくはみそラーメンで、彼女はニラレバ定食。それと餃子を二人前だ。

「あっ、すみません、あとビールください」

 注文を取り終えた店員の背中に、母親は声をかけた。

 まもなくして、テーブルに栓の抜かれた瓶ビールとガラスコップが運ばれてきた。

「昼間からお酒飲むの?」

 ぼくは咎めるようにいったが、母親はそっぽを向いてきこえないふりをしている。こどもみたいだ。ぼくはすこしあきれてしまった。

 だけどそれは彼女が健康な証拠だということで、喜ばしいことなのかもしれない。ミサンガなんかなくたってぼくの願いは叶っているのだ。

 食事をしながら他愛ない話をする。マザコンといわれるかもしれないが、彼女とこうしていっしょに出掛けたり外食したりするのは嫌いじゃない。

 どんぶりを持ち、スープを啜る。そのとき、なにげなく母親の背後の窓ガラスに視線がいった。その瞬間、おもわず咽せてしまいそうになった。

 そこにこちらを覗く、小山田慧の姿があったからだ。

 小山田だけではない。窓の外には彼の友人である飯島健吾と平岡亘、そして、水谷紗希子、川瀬美希の女子ふたりが立っていた。どこかへ遊びに行ってきたのだろうか、みんなおしゃれな私服姿で、そして五人ともこちらを見ながら揃ってにやにや笑いをくちびるに浮かべている。

 こちらが小山田たちの姿に気がついたのを認めると、いったいなにがそんなにおかしいのか、彼らはぼくを指差し、または腹を抱え、あるいは手を叩きながら、おおいに笑い転げた。

 外の騒ぎに気がついた母親が首をひねり、窓の外に目を向ける。そこでまた爆笑。

 いったいなんなんだ。

 中学生にもなっておかあさんといっしょに食事する姿が笑いを誘ったとでもいうのだろうか。額に汗がにじむ。恥ずかしさや悔しさ、自分だけじゃなく母親までも嘲られたことへの動揺。そんな感情がごちゃまぜになり、まるで高所から落下したみたいに胸が締めつけられる。なによりショックなのは、水谷さんもその輪に加わっていることだ。

「……なに?」

 母親が訊ねる。すこし戸惑った表情。

「ともだち?」

 あれはあなたのともだちなのか。

 ともだちなら、あの反応はなんだろう。あれはともだちに向けるそれではなく、檻の中の珍獣でも見物しているかのような反応だ。

 ぼくはうつむき、首をよこにふった。

 母親はなにか言葉をつなげようとしたが、けっきょく声にはせず、口を噤んだようだった。

 食べ終えたラーメンのどんぶりに視線を落とす。底に残ったスープの表面に醜いぼくの顔がゆらゆらとうつっている。

 そんなこと、思うことないのに。

 小山田たちは女の子たちと楽しく街で遊んでいるのに、ぼくはおかあさんと野暮ったく背中をまるめてラーメンなんかを啜っていることが、たまらなく情けなく、無様に感じてしまった。小山田たちの態度をみせつけられると、どうしようもなくそう感じてしまった。

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