席替え

 黒板には教室の座席表が書かれ、男子と女子の席にそれぞれ番号が振ってある。教壇には担任の加賀善明先生が立ち、教卓には小箱が置かれていた。

 五時間目の「道徳」の時間に、とつぜん先生の口から、いまから席替えを行うという旨を告げられた。途端、歓声があがった。

 これでようやくとなりの席の鈴木恵梨と離れることができる。彼女はぼくのことを心の底から嫌悪し、それがあからさまに態度にあらわれている。終始そんな状態では、ぼくだってつらい。席替えして離れたほうがお互いのためなのだ。

 しかし、よくよく考えてみれば誰のとなりになってもぼくに対する態度は鈴木とそう変りはないということに気づき、すぐに暗澹とした気持ちになる。女子の間では、ぼくのとなりの席番号が書かれた籤はジョーカーなのだ。

 出席番号順に箱の中から籤を引いていく。手にした紙片に記された番号が自分のあたらしい座席ということだ。

 緊張の一瞬、運命の一瞬。

 これでこれから数カ月の学校生活が、楽しい時間になるのか苦痛な日々になるのか、そのすべてが決定されるといっても過言ではない。みんな真剣な表情で籤を引いていく。なかにはいつまでも箱の中をひっかき回して、なかなか腕を抜かない生徒もいる。

「いつまでやってんだよ、ばか!」という野次が飛び、どっと笑いが沸いた。

「うるせえ!」

 件の男子生徒が口をとがらせる。

「うるさいのはおまえだ」と加賀先生がその生徒の腕をつかんで、無理やり箱から引き抜いた。

「ああんっ!」

 その男子がまぬけな悲鳴をあげて、またもや教室が笑いに包まれる。

 席替えという一大イベントにみんなが浮かれていた。

 だけど、ぼくはそんなにぎやかさとは無縁だった。どこの席になろうがさして変わりはない。ぼくにとっては、この教室自体が苦痛なのだから。

 そんなふうに盛り上がるみんなを静観していると、自分の出番がまわってきた。

 ぼくは箱に腕を差し入れ、とくに探りもせずてきとうに一枚ひくと、そそくさと席へ戻った。折り畳まれた紙片をひらく。『18』だった。黒板の座席表を確認する。教室のまんなかの列、後方の席。教壇に立つ先生から目につきにくく、位置だけでいうと「あたり」の座席である。

 生徒全員が籤を引き終え、いよいよ席を移動する。ぼくはとっとと自分が引いた十八番の座席に向かった。

 席に着くなり、こぶしを握って両足をふんばり、うつむいた。ぼくのとなりを引き当ててしまった不幸な女子が嫌悪感を容赦なく露わにしてくるだろうから、それに耐えるべく身構える。

 やがてとなりに気配がした。鞄がどさりとつくえの上に置かれ、椅子を引く音がした。ふわりとしたやわらかい空気がぼくの頬にふれる。

 こんなきもい奴のとなりとかホント最悪なんだけど! そんな声が、そろそろ臆面もなく飛んでくるはずだ。それか、無言の不快感を露骨にし、あからさまにつくえを引き離す頃合いだろう。

 ぼくはそっと、隣席の女子を見遣った。

 その瞬間、瞠目した。

 そこに座っていたのが、あの水谷紗希子だったからだ。

 勢いよく立ち上がり、体全体で喜びを表現したい衝動に駆られた。

 女子の間でぼくのとなりが「はずれ」なら、男子のあいだで水谷紗希子のとなりは「大当たり」だろう。誰もが羨む席だ。

 しかも彼女は「はずれ」の席を引いてしまったというのに、ほかの女子たちのようにぼくを露骨に避けようとする気配がない。前の席の猪瀬朋子となごやかに話をしている。

 もしかして、彼女はぼくのことがすきなんじゃないだろうか。好きとまでいかなくても、悪く思ってないんじゃないか。

 そんなことなど万にひとつもあるはずはないのに、都合のいい錯覚にとらわれる。

 こんな近くに、あこがれの水谷さんがいる。一瞬でも水谷さんのトイレをのぞこうとした自分を恥じる。そんな馬鹿なことをする必要なんてないのだ。

 みんなが一喜一憂する騒がしさのなか、先生がそれを制するようにおおきな声で話しはじめる。

「じゃあ明日から、この新しい席だから。まちがえないように」


 その夜、ぼくはいつものように声優のラジオ番組を聴きながらテレビゲームをしていた。野田芳樹に勧められて購入した、『キングスフィールド』というRPGだ。闇に憑かれた国王を、その息子である主人公が討伐するべく冒険をくりひろげるゲームである。

 だけど、そんな楽しみなテレビゲームやアニメ声優の深夜ラジオにも、今夜は心が浮ついて集中できないでいた。いつも以上に水谷紗希子のことで頭がいっぱいだったからだ。

 これから数カ月は毎日、水谷さんと隣同士。まるで砂糖菓子のような日々が続くのだ。

 明日なんて声をかけよう。どんなふうに接しよう。この期間に少しだけでも水谷さんと会話ができるようになれたらいい。

 その夜は日課だったオナニーもせず、深沢美潮の『フォーチュンクエスト』を読み返し、枕元のあかりを落とした。

 翌朝ダイニングへ行くと、パジャマ姿の母親が気だるくホットコーヒーをすすりながら、ぼんやりテレビをながめていた。チャンネルは『ズームイン朝』で、画面には近所の在日米軍施設の中央ゲートが映っている。米軍兵士が軍から貸与されていた拳銃を紛失したという事件を伝えたあと、先日都内で発生した連続放火事件の続報をながしている。

「あれ、早いね」

 母親は驚いたようにいった。「きょう、なんかあるの?」

 ぼくは曖昧に言葉を濁し、洗面所へ向かった。

 高揚した気分で登校した。学校へ行くのがこんなに楽しみだなんて、うまれてはじめてかもしれない。軽快な足取りで教室に入り、あたらしい自分の座席へと向かう。

 しかし、ぼくはその途中で足を止めた。

 なぜかぼくの席に小山田慧が座っていたからだ。

 彼は両手をズボンのポケットにつっこみ、足を広げてふんぞりかえるように座っている。

 これはいったい、どういうことだろう。

 小山田の席はたしか教室の窓側の先頭だったはずだ。先生の目につく席で、しかも先生のデスクの正面。だれもが座りたくない「はずれ」の場所だ。しかも、となりは入学式から一度も登校してきていない登校拒否の美甘優だった。その姿はだれも見たことがないが、とんでもなくデブでぶさいくだという噂だ。

 小山田の席はそんな場所だ。きのうの席替えでそう決まったはずだ。移動したばかりで、自分の場所を忘れているのだろうか。それとも、うしろの席の平岡亘としゃべるため一時的にそこに座っているのか。

 ぼくは自分の座席のまえで立ち止まり、小山田を凝視した。

 こちらの存在に気がついているはずなのに、ふりむきもしない。ぼくはかさかさに乾いたくちびるを舐め、そっと息を吸った。

「小山田くん」

 と、声をかける。

「そこ、おれの席だよね」

 あっ、悪い、そうだった!

 そう言ってくれることを望んだが、彼はおおきな口をあけて欠伸をしただけだった。

 ぼくは先程よりもおおきな声で「あの、小山田くんの席はあっちだったよね」とそちらを指差した。

「まあね」

 小山田はこちらに視線を向けずにそう言った。言ったきり、そこから一歩たりとも退こうとする気配がない。

 ぼくは身の置き場に困り、まごつく。そうしているうちに水谷紗希子が教室に入ってきた。小山田の姿をみた彼女の表情に、ほんの一瞬だけ訝しげな色が差したけど、それだけだった。

「おはよう」

 小山田は片手をあげて、にこやかに挨拶する。

 彼女は眠たげに返事しながら、なんのためらいもなく席へ着く。

 そしてふたりは楽しげに、今朝『めざましテレビ』でやっていた流行りものランキングについて雑談しはじめた。彼女は、なぜぼくの席に小山田が座っているのかなんてまったく気にしていないようすだ。平岡やそのとなりの猪瀬朋子が登校してきたが、誰ひとりとして小山田の席について言及する者はいない。そもそもみんな、そんなことなど疑問にさえ思っていないようだ。むしろ人気者の彼がやってきてくれて大歓迎なのだろう。

 やがてチャイムが鳴り、そのままそこでまぬけに突っ立っているわけにもいかず、ぼくは仕方なく本来小山田が座るはずだった席に着いた。途端、うしろの席の女子たちが、どうしておまえがこっちに来るのだとでもいうように表情を歪め、こそこそと耳打ちしはじめる。えっ、なにこいつ? 小山田くんは? という声が漏れきこえる。

 担任の加賀先生がこの状況をみてどう思うか。ぼくは期待した。

 みんな平等に、そして、公正に席替えを行ったのに、それを無視するように席を移動した小山田。これではなんのために籤引きをしたのかわかりはしない。こんなことを先生が許すはずがない。彼は先生に叱責されるだろう。そう期待した。

 しかし先生はとくになにも言わず、いつものように朝の会は始まった。気づいていないのか。いや、席替えしたばかりで、まだ全員の座席を把握していないのだろう。

 朝の会が終わると、ぼくはすぐに先生のもとへ走った。廊下で呼び止め、小山田の件を話した。彼は真面目な顔でうなずき、小山田に注意すると約束してくれた。

 そして、その日の帰りのホームルームで加賀先生がみんなに呼びかけた。

「きのう席替えをしたけど、ちゃんと決められたとおりに座るように。自分の席が嫌だからって、ほかの人と取り換えるとかはなしだぞ。ちゃんと籤をひいて、みんな平等に決めたんだから」

 先生の話を聞きながら、ぼくは複雑な心境だった。

 みんなはちゃんと籤引きどおりの席に着いているのだ。ルールを守っていないのは小山田慧、ただひとり。だからぼくは直接、彼に注意してほしいと先生にお願いしたのだ。

 だけどかたちはどうあれ、先生が注意してくれたことにかわりはない。それで納得するしかない。小山田も自分のことをいわれてばつが悪いはずだ。そうおもった。

 それなのに次の日の朝も彼は、ぼくの席にふんぞりかえっていた。ホームルームでも先生はとくに気に留める様子はない。

 ぼくはくちびるを噛んだ。

 ホームルームがおわったあと、ふたたび先生を廊下で呼び止めた。

「まだ小山田くんがおれの席に座ってるんですけど」

 そう言うと、先生は「なんの話?」とまばたきした。

「席替えの話です」と、ぼくはいった。「小山田くんが籤引きを無視して、勝手におれの席に座ってるんです」

 ああ、と彼は気の抜けた声をもらした。「それはきのう言ったよ。ホームルームで」

「でも、まだ座ってますよ」

「うん、じゃあまた帰りのホームルームで言っとく」

「ホームルームじゃなくて、直接、小山田くんに言ったほうがいいですよ。籤引きを守ってないの小山田くんだけだから……」

「ああ、わかったわかった」

 あまり重大におもっていないような先生の態度に、ぼくはくやしくなった。

「みんな籤引きどおりにルールを守ってんのに、小山田くんだけ違反してるんです。だったらぼくだって勝手にべつの席に座っていいんですか。それじゃ籤引きの意味ないよ」

「わかったっつってんだろ!」

 必死に訴えていると、とうとつに怒鳴り声で遮られた。「いちいち話を蒸し返してくんな!」

 いったい突然どうしたのか。あまりのことにぼくは口を噤んだ。

「あいつが勝手だからって、おまえが勝手にしていいのか? あ? 違うだろうが!」

 チンピラのような口調でまくしたてられる。

「それと! 口の利き方に気をつけろ! いいか? タメ口じゃねえだろ、おまえ。『それじゃ籤引きの意味ないよお』じゃねえんだよ!」

 眉毛をハの字にして、目を見開きギョロつかせている。どうして叱責されているのかわからず、ぼくは唖然とした。

 廊下を行き交う生徒たちが好奇の視線を向けている。

「……す、すみません」

 萎縮するぼくを睨めつけると、彼は踵を返し去っていった。

 もやもやとした気持ちで茫然と立ち尽くしていると、廊下の向こうに小山田慧の姿がみえた。こちらをじっと見つめ、にやにや笑いをくちびるにはりつけている。

 ぼくの視線に気づくと、ひょいと教室へ引っ込んだ。

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