教室は苦痛な場所
みずみずしい陽光ににてらされた通学路を、重い足取りで登校する。
前方を同じ中学の男子生徒三人組が、大声ではしゃぎながら歩いていた。いったいどうして朝からあんなに騒がしくできるのだろう。そんなことをおもっていると、とつぜん後ろから走ってきた男子生徒の鞄が、追い抜きざまぼくの二の腕におもいきりぶつかった。おもわずよろけるほどの衝撃だったが、彼は謝るどころかぶつかった事実などなかったかのように、前方の三人組に合流した。
チョークの削りカスのような教室のにおいに、今日もつまらなく長い一日の始まりを否応なく思い知らされる。まっさきに脳裏に浮かぶ言葉は「帰りたい」だ。
座席に着くと同時に、となりの鈴木恵梨が、元々ぼくの席から離していた自分の席をさらに遠ざけた。ぼくは鞄から教科書と筆記用具を取り出し、つくえの抽斗にしまいながら深くためいきをつく。
――いったいぼくがなにをしたというのだろう。
この座席は数か月前、籤引きで決まった場所だ。それまで鈴木恵梨とは会話はもちろん、あいさつさえかわしたこともなく、同じクラスに属しているというだけで、なにひとつ接点はなかった。当然、ぼくが彼女を不快にさせるような行為をするはずもないし、できるわけがない。それなのに彼女はぼくのことを嫌悪していた。彼女に限らず、ぼくは女の子から好意的な感情をもたれたためしがない。
背後から楽しげな女子たちの笑い声がきこえる。
肩越しにそっとふりむく。
小山田慧が自分のつくえの上に足組みをして座り、女子三人を相手にはしゃいでいた。
ぼくとは正反対に、彼は整った顔立ちをしている。すこし眠たげな目にくっきりと刻まれた二重瞼。繊細な鼻梁はまっすぐ通り、色のうすいくちびるは口角があがり、印象のいいかたちをしている。女の子のように整った容姿。
おなじ人間なのにどうしてこうも違うのだろうか。あんなふうになれたらどんなにいいだろう。ぼくは小山田慧にあこがれのような感情を抱いていた。
勉強道具をつくえにしまい終えると、なにをするでもなく頬杖をつき、朝のホームルームが始まるのを待った。
窓の外を眺めながら、あくびをする。
昨晩に毎週チェックしているアニメ声優の深夜ラジオを午前二時過ぎまで聴いていたせいで、ひどく寝不足だった。だけど後悔はしていない。きのうのラジオはゲストにベテラン声優を招いてのトークで、いつも以上に充実した回だったから。
そのときのおもしろかった会話の内容を反芻していると、おもわず「ふふっ」と思い出し笑いをしてしまった。
その瞬間、金切り声が響き、ぼくは我に返った。
なにごとかと戸惑っていると、鈴木恵梨が悲鳴をあげながら近くの女子に駆け寄っているところだった。
「あいつが! あいつが!」
鈴木は女子の背中に隠れ、ぼくを鋭く指差す。
「なんかひとりでニタニタ笑ってんの!」
「は? マジで? きもちわる!」
「もうやだーっ、ホンット嫌なんだけど!」
鈴木は泣き顔で女子にしがみつき、まるで強姦にでも遭ったみたいに喚いている。彼女を背に隠した女子は、犯罪者を断罪するような視線でぼくを睨みつける。
「死ねばいいのに!」
体育の時間、準備体操をする水谷紗希子のすがたを眺めながら、ぼくはうっとりとため息をついた。野田がいうように、水谷さんはとても可愛らしい。
彼女は体育委員に所属している。準備体操のときはほかの委員の生徒たちといっしょに、みんなの見本になるよう、前に整列して体操を行う。そのおかげでこうして彼女の肢体をじっくりみつめることができるのだ。
腕を振って足を曲げ伸ばしながら、水谷さんの胸にそっと視線を向ける。控えめなふたつの乳房が体操服からふくらんでいる。彼女とは一年生のときから同じクラスだったが、そのときよりもおっぱいのふくらみがおおきくなっていた。
それから彼女の股間を、気づかれないようこっそりと凝視した。こうして臙脂色のブルマのつるりとした平面をみていると、「ああ、女の子なんだなあ」と至極あたりまえのことを実感する。あの布の向こう側は、いったいどうなっているのだろう。今あの中でどんなふうになっているのだろう。もうまん毛は生えそろっているのだろうか。野田のいうとおり、たしかにぼくも、まんこを見てみたかった。
体育の授業がおわり、休み時間、ぼくは男子トイレにいた。
水垢で曇った鏡にぼくの顔がうつっている。眉尻が下がった気弱そうな眉毛に、二重まぶたの黒目がちな目。なすびみたいな鼻。八重歯がとがっていて笑うとちょっとマヌケにみえる。額には無数のにきび。からだは痩せているのに頭だけがまるでこけしのようにおおきい。おまけに髪の毛は剛毛で天然パーマ。そのせいで余計にあたまがおおきく見える気がする。
容姿はうまれつきのものでどうにもならないけど、身だしなみは努力すれば変われるかもしれない。水谷さんに認知してもらえるくらいに、できることならぼくだってかっこよくなりたい。
鏡をみながら懸命に髪を撫でつける。
所謂「オタク」なぼくでも、おしゃれにまったく無関心なわけではない。最近、長めの前髪をさらさらとセンターで分ける髪型が流行している。木村拓哉に江口洋介、福山雅治。ぼくもあんなふうにしたいけど、天然パーマの所為でどうにもうまくできない。うねった髪がいうことをきかず、ばねのように盛り上がる。
なんでこんなにうまくいかないのかと舌打ちしたい気分だった。
そのとき、とつぜん出入り口のドアが勢いよくひらかれ、ぼくはびくりと肩を竦ませた。男子便所のとびらは蹴り開けるのが通例になっている。便所へやってきたその人物もそうだった。
鏡越しに目が合う。
小山田慧だった。
ぼくは水道をひねり、そそくさと手を洗う。鏡を前にかっこつけている姿を目撃され、とてもバツが悪い。
手を洗いながらそっと様子を窺うと、小山田はぼくの背後に突っ立っていた。両手をズボンのポケットにつっこみ、鏡越しにじっとこちらを見つめている。二重まぶたの眠たげな眼差し。
いったいなにをしているのかと思いきや、めずらしくぼくにむかって言葉を発した。
「それ、まんなかで分けてんの?」
ぼくは彼にふりむく。
「え」
なんのことを言われているのかわからない。
「髪」
顎をかるくしゃくり、ぼくの頭部をさした。
おまえのその髪型はいま流行りのセンター分けなのか、と訊いているらしい。
「いや、べつに……」
ぼくはうつむいた。
ふうん、と彼は無表情に顎をかるく上げる。そして、
「必死だね」
といった。
一瞬ことばの意味が理解できず、ぼくは硬直した。返す言葉がない。
醜いぼくが一生懸命におしゃれをしようとしている姿はたしかに「必死」で滑稽なのだろう。羞恥で顔面が真っ赤になり、額に汗がにじむ。
しかし、同時に腹も立ってきた。
醜く不潔だと陰口をたたかれているのだから、そのことを払拭するために身嗜みを整えることのなにがいけないのだ。
「そ、そうだけど、なんか、悪いの」
ぼくはなんとか自分の憤りを声にした。
小山田は涼しげな表情でこちらを見下ろしている。彼の髪質はさらさらとやわらかそうで、ほんのり薄茶色。流行りのセンター分け。ぼくがあこがれる髪型をしていた。しかも、それがよく似合っている。
「べつに? 悪くはないよ。ただ必死だねって思っただけ」
小山田は表情も変えずにあっさりそう言うと、もうおまえに用はないとばかりに小便器のまえに立った。
ぼくは置いてきぼりをくったように、小便をする彼の背中を間抜け面でただただ見つめていた。
文句のひとつでも言ってやればいいのだけれど、ぼくにはそんなことをする勇気も力もない。矮小な人間らしく悶々と鬱屈するだけだった。
小山田慧とは同じクラスの同じ班だ。それなのに会話をすることはない。こちらから話しかけても無視されるからだ。ぼくが声をかけたとき、彼はほんの一瞬だけぼくに視線をむける。感情のない無機質な視線を。ぼくがしゃべりかけているのは認識しているのだ。認識はするけれど、そのあとはすぐに視線を逸らす。あきらかな意思をもって、ぼくを無視しているのだった。
小山田慧といっしょに学校生活を送るのは、これが初めてではない。彼とは小学五年生のときからの知り合いである。中学一年のときに別々のクラスとなり、二年生でふたたび同じクラスとなった。小学生の頃は彼ともふつうに会話し、ときにはいっしょに遊んだこともあった。だが、ある時期を境に今のような状態となった。いったいなにが原因でこうなったのか、いまでもわからない。
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