第3話 王太子妃の爆発

 硝子窓の向こうに、ぽっかりと月が浮かんでいる。アントワネットは旧式のコルセットを脱ぎ捨て、夜着をまとって寝台に横たわっていた。

 結局、晩餐だけでなくカード遊びも休んでしまった。

 退屈嫌いのベルサイユ人たちはさぞかし王太子妃の話題で盛り上がっているだろう。そして密偵からそれを知った母は怒り狂うのだ。

 たやすく想像ができてしまい、憂鬱になった。


「……王太子妃、入るよ」


 と、遠慮がちに声をかけられる。アントワネットは長枕に顔をつっぷして応えなかった。

 オーギュストは寝台の傍らに立ち、短く尋ねた。

「どうしたんだ」

 簡潔な問いかけが、ひどく冷たく感じた。責められているような気分になり、アントワネットは唇を噛みしめる。

 冷たい人ではない。国民の苦しみを我がことのように考える態度は立派だと思う。

 その思いやりを少しでも向けて欲しい。けれど、こちらを見てくれない。


「殿下は、この結婚をどう思っていますの?」


 背を向けたままアントワネットは尋ねた。

「どうって……」

 と、はっきりしない返答のあと、重苦しい沈黙が落ちる。

 アントワネットの苛立ちは頂点に達し、身の内で暴れ回っていた感情を抑えることができなかった。

 ベッドサイドのクッションを掴んで、枕元の夫に投げつけた。狙いは大きくはずれ、クッションは床に転がる。オーギュストは驚いて目を丸くしていた。


『おやめなさい、トワネット。王太子殿下に愛されるよう、機嫌よくいなさい』


 と、心のどこかで母が叫ぶ。けれどアントワネットは止まれなかった。

 アントワネットの中で、積もり積もった憤懣がとうとう爆発したのだ。


「しきたり、決まり、ベルサイユ人! もううんざりです。毎日朝から晩まで沢山の人に監視されて、少しでも失敗しようものなら、朝には全ての人が知ってあざ笑う!」


 震える両手を握りしめて、アントワネットはオーギュストを強く睨んだ。


「殿下、いっそはっきり言ってくださいな。──お前は友好の証という名の人質なのだ。妻として愛することはないと」


 オーギュストの表情が、ふいにゆがんだ。

 ぱたぱたと掛布の上に雫がおちる。夫の輪郭がぼやけて見えるのは、自分が泣いているからだ。

 そう気付いた時、アントワネットは心の底から後悔した。裾が乱れるのもかまわずベッドから降りて、裸足のままドアに走り寄った。

 背後で「王太子妃」と呼び止めようとする気配があったけれど、アントワネットは振り向かずに寝室を飛び出した。



 その夜から寝室を別にするようになり、一週間後。

 王家の狩猟場に向かう馬車の中で、アントワネットはアデライードに呆れられていた。

「それはあなた、せっかちというものよ。あの子の無口と優柔不断さは折り紙つきなんですからね」

「はい叔母さま。わたくしが愚かでした」

 アントワネットはうな垂れるしかなかった。

 かんしゃくを起こし、ひどい言葉をぶつけた妻に対し、オーギュストは何かを言おうとしてくれていた。結局アントワネットが逃げ出したので、二人は全く会話をしなくなった。

「殿下に会って謝らなくては……」

「だから連れ出してあげたのよ。ホホ、狩猟場に行くといった時のメルシー伯のお顔ときたら」

 と、アデライードは扇をかざして高らかに笑う。

 絶対に馬に乗らないこと、という条件付きでメルシー伯はアントワネットを送り出した。

 オーギュストが狩りに行くことが増え、宮廷内で王太子夫妻が揃うことも難しくなり、宮廷中から不仲を疑われたからだ。

「王太子妃。馬に乗らずにいる、というのは難しいわよ」

「え?」

 いつの間にか馬車は止まっていた。窓の向こうに広がる森に扇を向けて、アデライードは続ける。

「王太子は馬に乗って姿をくらますのが得意なの。わたしたちが向かっていることは伏せているけれど、馬に乗って追いかけた方が確実よ。なにより、ブルボン王家の嫁たるもの乗馬もこなせなくては」

 真っ赤な紅を穿いた唇が弧を描く。アントワネットは、狩猟服を見下ろした。

 オーストリアの母は、乗馬をかたく禁じていた。メルシー伯もそれで条件を出してきたのだ。叔母は「そんなことさせやしませんよ」とメルシー伯に嘯いたことになる。

 けれど、アントワネットは藁にもすがる思いだった。夫と話したいという気持ちに急かされて、馬車を降りる。

 先に到着していたヴァーギュイヨンがすすめる馬に乗ることにも疑問を抱かなかった。

「あの、王太子殿下はどちらかしら?」

 初めて乗る馬にどきどきしながら、アントワネットは尋ねた。手綱を引く御者がいるとはいえ、馬はかなり大きく、落ち着かない様子で鐙を噛んでいた。


「すぐ近くに──妃殿下! いけません!」


 何が? と問い返す前に、アントワネットを乗せた馬が高く鳴いた。

 あろうことか、馬が手綱を振り切って走り出してしまったのだ。

 思わずたてがみを強く掴むと、馬は少女を振り落とさんばかりの荒々しさで駆けていく。


(いや、怖い)


 死んでしまう。そう思ったとき、目蓋の裏に浮かんだのは背の高い少年の姿だった。

 謝れず、まともに話もできず、自分は死ぬのだろうか。アントワネットは歯をくいしめた。

 死にたくないと思う一方で、馬にすがる腕からどんどん力が抜けていく。


(ただ、笑い返して欲しかったの。貴方を知りたかったの)


「アントワネット!」


 名前を呼ばれる。二の腕を掴まれたと思ったら、腰を強く引き寄せられた。

 ふわりと身体が浮き上がり、誰かがアントワネットをしっかり抱える。たちまち体勢が安定したので、アントワネットは目を開けた。


「でん、か……?」


 オーギュストだった。オーギュストは、片手で手綱を巧みに操り駆け続ける。王太子の愛馬は木立のなかを抜け、ゆっくりと速度を落とし、やがて止まった

 エートゥルの木の下で、オーギュストはアントワネットを下ろして細い肩を強く掴んだ。

「どこか痛むところは? 乗馬は女大公に禁じられていただろう、なぜ……」

 ひっく。小さくしゃくりあげる声が聞こえて、オーギュストは息を飲んだ。

「ごめ、なさ……」

 灰青の瞳から、とめどなく涙が溢れる。アントワネットは泣きじゃくりながら謝った。

 ごめんなさい。ひどいことを言って。軽率なふるまいをして。

 どれも涙と混ざり合い、ちゃんと言葉にならない。

「アントワネット、これを」

 オーギュストは慌てた様子でハンカチーフを差し出してきた。アントワネットはそれに顔をうずめる。ミントの香りがほのかにかおった。

 ようやく視界がはっきりしてから驚いた。ハンカチは、かわいらしい鈴蘭の刺繍が入った正方形だったのだ。

「……これ……」

「ごめん。いろいろと謝ろうと思って、その」

 彼がしどろもどろに話す様子が珍しくて、アントワネットはつい見つめてしまう。

「君は、正方形をいつも使っているから好みなのだろうと思った。パリの雑貨屋で買ったものだから、高価なものではないけれど……」

 見ていてくれた。アントワネットは喜びで胸が熱くなった。

「殿下がお選びになりましたの?」

 と、泣き笑いで尋ねたら、夫は顔を真っ赤にして俯く。侍従に買いに行かせたのだろうと思っていたので、アントワネットは驚きで涙がとまってしまった。

 少女が好む柄のハンカチを真剣に選ぶ夫の姿を想像したら、たまらなく幸福な気持ちになった。


「この前はごめん。僕はこの結婚に心がついていかなくて。大人たちの冷やかしにもうんざりしていた。君が心細い立場だと気付いているのにひどい態度をとった」


 オーギュストはゆっくりと息を吐いた。

「僕は口も上手くないし流行に疎いから、君を楽しませる自信がないんだ。アントワネットのことを知りたいと思っているのに」

「殿下はお話がとても上手ですわ」

 アントワネットはうなだれる夫の手をそっと握った。

「ちゃんと、わたくしに分かるように伝えてくださいますもの。ベルサイユの人たちはまくしたてるばかりで……、ごめんなさい」

「どうして謝るの?」

「わたくし、こうやって思ったことをすぐに言ってしまうんです。母からも、迂闊だと叱られます。ベルサイユのことを悪く言うつもりはないのです」

 すると、オーギュストが小さく吹き出して笑いだす。それは、アントワネットがはじめて見る、少年らしい屈託のない笑顔だった。

「ああ、久しぶりに笑った。アントワネットといると清々しい」

 と、オーギュストがはにかんだ。アントワネットも頬を赤らめながら微笑んだ。

「こんなわたくしですから、気取りがない殿下がぴったりなのだと思います」

 重ね合った手のひらに、ほんの少し力を込める。すると、同じぐらいの力で握りかえされる。それに励まされて、アントワネットは零れるような笑顔で続けた。


「わたくし、楽しいことを見つけるのは得意です。でも、お道化がすぎるといけないので、殿下はお隣にいてください。そうしたら、わたくしずっと笑っていられましてよ」

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