第2話 ベルサイユのしきたり
疑問に思っても、不幸になるだけ。幸い、アントワネットは天性の陽気さで国王一家とうちとけた。
──肝心の夫、オーギュストを除いて。
十五歳の王太子はもの静かで、おしゃべりも好きではないらしい。
祖父の国王から「そなたは余に似ず、女性の扱いが下手なようだ」と嘆かれても、苦笑のような諦めのような笑みを浮かべるのみ。
アントワネットが仲良くなろうとしても、彼に隙がないのだ。
午餐が終わってすぐに夫が立ち去ろうとするので、アントワネットは慌てて引き留めた。
「殿下、朝はありがとうございます」
機嫌良く、愛情深く。そう心のなかで唱えながらアントワネットはオーギュストに微笑みかけた。
オーギュストは冷めた表情のまま沈黙し、ゆっくり言葉を紡いだ。
「礼を言われるほどのことじゃあない。……僕は調べ物があるから」
(出た! 調べ物!)
最初の頃はこの常套句にすっかり騙されて引き下がっていたが、何度もひっかかるわけにはいかない。
夕方にはメルシー伯と会い、母への手紙を渡す約束をしている。そろそろ「祝賀続きでペンをとれず……」という言い訳は通用しない。
「わたくしも調べ物をしたいのです。殿下がよろしければご一緒しても?」
と切り返せば、オーギュストは眉根をひっそり寄せた。アントワネットはとびきりの笑顔を浮かべた。
十六人きょうだいで母の愛情を得るためにしのぎを削ってきた経験は伊達ではないつもりだ。
しかし、肝心の夫はまばたきを繰り返すのみ。アントワネットはめげずに微笑みかける。王太子夫妻は、しばし無言で見つめ合った。
「あ、おにいさま! おねえさま!」
奇妙な静寂を破ったのは、あどけない少女の声だった。
「エリザベートさま、ごきげんよう」
オーギュストの末妹は「ごきげんよう」と天使のような笑顔でアントワネットに返す。
「あのね、おそとであそびたいの。おねえさま、ワルツをおしえてくださいませ」
「まあ、楽しそう」
それは、たいそう魅力的な誘いだった。アントワネットは心をおどらせた。
庭の散策をしようものなら、ぞろぞろと貴婦人や女官がついてくるのでちっとも気分転換にならなくて困っていたのだ。
それに、オーギュストの方も外なら警戒心を解いてくれるかもしれない。
「殿下、ご一緒しませんか?」
アントワネットはエリザベートともに、弾けるような笑顔をオーギュストに向けた。
すると、オーギュストは黙り込む。先ほどよりも険がとれた様子に、アントワネットは嬉しくなった。
沈黙する兄に焦れて、エリザベートはあそんであそんでと兄の手を引く。やがて根負けして、オーギュストは表情を和らげた。
「今すぐは無理だよ。授業の休み時間でないと」
はじめて前向きな肯定をもらえたので、アントワネットは義妹と小さく歓声をあげた。
「いけません。殿下、妃殿下」
「……ヴァーギュイヨン」
王太子の傅育官は靴音荒くアントワネットとオーギュストの間に分け入った。
「殿下は法律とラテン語。妃殿下は音楽の授業が入っております。王女殿下、お二人はお勤めに励まねばならないのです」
いかつい老人に凄まれて、エリザベートは涙を浮かべた。アントワネットはエリザベートをドレスの陰に隠す。
「殿下も王女も、わたくしがお誘いしたのです」
「なるほど。しきたりに反する軽率なおふるまいは感心しませんな」
「……エリザベートさま、参りましょう」
アントワネットはエリザベートの手を引いて身を翻した。オーギュストは何か言いたそうにしていたが、すぐに黙ってしまう。
(どうして、ご自分の意見を仰らないの?)
ヴァーギュイヨンは反オーストリア派だ。陰ではアントワネットを「あのオーストリア女」と呼んでいることは承知している。
(殿下も同じ考えだから? オーストリアから来たわたくしを憎んでいるの?)
数年前まで戦をしていた敵国の姫を憎んでいるのであれば、アントワネットがいくら努力しても無駄だ。ヨーロッパの平和をかけた同盟は完遂しない。
オーストリア大公女がフランスに嫁いだのは、間違いだったのだろうか?
一体どうしたらいいのかわからない。アントワネットは途方にくれた。
結局、母への手紙は書けなかった。謁見室に訪れたメルシー伯は難しい顔つきでいた。
「妃殿下と王太子殿下とのご関係について、女帝陛下は大変心配なさっておられます」
「話してみようとは、しているのよ」
「存じております。女帝陛下には他にもご懸念がおありです。妃殿下の公式寵姫への態度でございます」
アントワネットは頭痛を覚えてこめかみを抑える。
「少し話すだけで叔母様方にとても叱られるの。お母さまはとりわけ
「その方々についてですが、女帝陛下は認識を改めるようにと」
マリア・テレジア曰く「フランス王家の人間は美徳を備えた立派な方々である一方で、人の手本となったり品位を保ったりする能力が欠けている」そうだ。
三人の叔母たちはアントワネットにとても親切にしてくれるが、まるっきり善良であるかと言われればそうでもない。
毎朝彼女たちの部屋に訪問し、他人の悪口を聞かされる日々には正直辟易していた。かといって、母やメルシー伯の言い分を素直に受け入れるのには抵抗がある。
「でも、彼女たちを遠ざけることはできないわ。王太子殿下が大事になさっている方々だもの」
アントワネットはこの宮廷に味方が少ない。反オーストリアや信心派の陰謀が蠢くなかを、巧みにすり抜ける技など持っていない。
賢くもない自分は、誰かに手をとってもらわなければ生きていけない。その心細さをウィーンの母には想像できないのだろうか?
「妃殿下が身を慎んでお世継ぎをお産みになれば、解決いたします。一日も早く、王太子殿下とお心を通わすこと。それこそが妃殿下のお立場を安定させる道なのです」
と、メルシー伯は淡々と言って、深々とお辞儀をした。
(結局、お母さまのご命令が一番なのよね)
メルシー伯はオーストリアにとって最善の道をとせかすのが仕事だ。アントワネットに寄り添って悩みを聞く気はない。
胸の内が、すうっと冷えていくのを感じた。
(わたくし、本当にひとりぼっちなのね)
孤独感が膨れ上がり、心を蝕みあらゆる感覚が麻痺してしまう。
母の言いつけ。ベルサイユのしきたり。いわれのない中傷。背を向ける夫。
耳を覆って、目を閉じて、あの悪夢の闇のなかに隠れてしまいたい。
アントワネットはその日初めて晩餐を欠席した。
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