MARIE~ある夫婦の肖像~

俤やえの

第1話 出逢い

 一七七〇年五月十四日、コンピエーニュの森にて。


 アントワネットは自分の夫となる少年をすぐに見つけた。それは道行きに女官長から「ベルサイユ人らしからぬ王太子」と聞いていたからだった。

 ずらりと整列した青年貴族は、みな派手な格好をしていた。

 白い髪粉をふりかけたかつら、大げさな飾りのついた帽子、白粉を塗りたくった化粧。その誰もが軽薄な笑いを浮かべている。その中に、静かな眼差しがひとつ。

 金糸でふちどられた青の上着をさらりと着こなし、アントワネットを無表情で見つめる少年がいた。彼は髪粉もかけず化粧もしていなかった。

 花嫁と花婿の目が合ったことに気付いて、ルイ十五世は機嫌良くこう言った。

「王太子、王太子妃に挨拶を」

 アントワネットも女官長に促され、歩みをすすめる。アントワネットは目をまるくした。

(なんて大きな人なのかしら)

 少年のほうも、アントワネットを見下ろして固まっている。二人の身長差は大人とこどもぐらい開きがあった。

 木漏れ日を背負った彼を、アントワネットはじっと見上げた。髪や瞳の色が知りたいと思ったからだ。

 王太子はぎこちない抱擁と口づけをアントワネットに贈ってから、ぱっと身体を離す。

 その横顔は、やはり逆光になっていてはっきりとしない。これ以上見つめていたら本当に首がつりそうだったので、アントワネットはできるだけ優雅に視線を伏せた。

 手と手が重なり合っても、心ときめくことはなく、アントワネットは悲しくなった。 


「トワネット」


 振り向くと、喪服姿の母が立っていた。黒いヴェールに包まれた表情は険しく、アントワネットは震え上がる。

「オーストリアとフランスの友好の証としてあなたは嫁ぐのです。あなたの振る舞いは、常に正しくなければなりません」

 それは、出立の日に聞かされた言葉だった。

 アントワネットはおもわず繋いだ手にすがりついた。けれど、大きくバランスを崩してしまう。

 隣には誰もいなかった。国王一家の姿もなかった。爽やかな森も、初夏の日差しも、消えていた。

 闇の中にアントワネットは一人きりだった。


(夢を見ているんだわ)


 自覚すると同時に、ふっと意識が覚醒する。

 視界いっぱいに、パンジーにビオラ、ライラック……春と夏に咲く花々が咲き乱れている。アントワネットは見事な刺繍をしばらく眺める。

 このおそろしく豪華な宮殿には、指輪の森も母なるドナウ川もない。

 目が覚めてから天蓋の上掛けに咲く花を数えることを、アントワネットは心のなぐさめとしていた。

 すぐ傍らで、静かにみじろぐ気配がした。アントワネットはなるべく自然に寝返りをうち、起き出した人影に声をかける。

「おはようございます。殿下」

 カーテンに手をかけた少年が、わずかに振り向いた。

「……おはよう」

 しばし逡巡してから「またあとで」と言葉すくなに付け加えて、夫はそのまま寝室を出ていった。

 今ではもう、彼の髪や瞳の色を知っている。そして、表情が見えなくとも、彼が笑っていないことが分かるようになった。

 王太子ルイ・オーギュストは笑わない。何度あの日の夢を繰り返し見ても、結果は同じ。

 彼はオーストリアから来た花嫁に必要最低限の言葉しかかけない。

 しばらくして、侍女が天蓋のむこうから控えめに声をかけてきた。

「妃殿下、お水をお持ちしました」

 ヴィル・ダヴレーの水を注いだ杯を受け取ると、女官長が恭しく裾を持ち上げた。

「午前中は休むようにと王太子殿下から言付かっております」

「え?」

「どうも体調が悪いようだからと」

 アントワネットが悪い夢にうなされていることに、気付いていたようだ。

(……冷たい人ではないわ)

 アントワネットは姿勢を正して、女官長に微笑みかけた。

「ありがとう。でも、大丈夫よ」

 アントワネットの一挙一動はベルサイユ中の注目を集めている。

 とくに、体調に関してはすぐ噂になる。ベルサイユ人は、王太子夫妻の〝結婚の成立〟を揶揄することで頭がいっぱいなのだ。

 女官長も王太子妃の不調は結婚の成立によるものではと期待しているのだ。アントワネットはつとめて明るく言った。

「夢見が悪かっただけなの。それ以外はリヤン(何もなし)よ」


 金糸をふんだんに使ったブロケード織りのグラン・コールに身を包み、鏡の回廊を進む。

 夜明けの静寂は遠ざかり、大勢の人間の話し声が宮殿内を支配していた。

 ベルサイユ人は男女問わずけばけばしく飾りたてるのを美徳としている。動物性のムスクをまとった貴婦人や紳士たちは、王太子妃を眺めながら扇の陰で囁いた。


 ──ごらんになって。今日も妃殿下は可憐でいらっしゃる。


 ──王太子殿下の心は掴めていないようだがな。


 ──仕方ないわ。だって、あの体では……ねえ?


 ──どう見ても十二歳ぐらいの子猫ちゃん《ミネット》だ。男をその気にさせるにはちょっとな。 


(れっきとした十四歳よ。失礼ね)

 そもそも、オーストリアの母が肖像画を盛ったせいだと、アントワネットは臍を噛む。

 ウィーンからベルサイユに贈られた肖像画には、スピネットを弾く大人びた少女が描かれていた。身体つき──とくに胸元は豊満に誇張されていた。

 母が盛ったのは肖像画だけではない。アントワネットの月のものが不規則であることも黙って送り出した。

 結婚が成立しても、アントワネットの体格では出産に耐えきれないことは明白であった。

(ストラスブールでのことは、その報いなのかも)

 回廊に飾られた絵画に魅入るふりをして、アントワネットは婚礼の旅を思い出した。

 ライン川の中州に建てられた引き渡しの館でのことだ。

 三つの部屋のうち、アントワネットはオーストリア側から中央の調印の間に入った。

 国境の象徴として置かれたテーブルから、壁にかけられたタペストリーに視線を動かした瞬間、アントワネットは息をとめた。

(メディアとイアソンの結婚……)

 オーストリアと永遠に決別するこの地で、アントワネットが正真正銘に独りになる瞬間を狙ったのだろう。

 不吉な結末を暗示する図案は、十四歳の乙女の不安を煽るには十分だった。

 もし、母の賢さを受け継いだ姉カロリーナであれば、オーストリアが有利になるよう交渉できたかもしれない。

 しかし、ここにいるのはアントワネットだ。気づかないふりをして花のように微笑むことが精一杯だった。

 すでに母国の随員はオーストリア側の控えの間に消え、アントワネットはフランス側の付添人に引き渡されていた。

 その後のりこんだ馬車の同乗者はすべてフランス人で、タペストリーについて話題に出すことは憚られた。そして誰にも打ち明けられず今日に至る。


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